第30話 迎秋祭④

 久しぶりの感覚だった。壇上特有の空気感。実に、二年ほどぶりだろうか。舞台袖から出た瞬間の、目がチカつくような、照らすライト。集まる視線、まばらな拍手。


 静まり返ったあとに響く、革靴が鳴らす硬質な音。椅子を引く音。でも、初めて経験するものもあった。


 それは、僕の靴音と一拍差で響く、ヒールの鳴らす音だったり、いつもより横に広い椅子だったり、隣から聞こえる、少し荒い呼吸音だったり。


 ティアラの深呼吸が聞こえた。息を吐き終えた彼女と目を合わせて、頷きあった。鍵盤に、両手を乗せる。


 まずは、ティアラの前奏だ。澄んで、張り詰めた空気の中、白鍵を叩いたのを合図に、僕らの演奏が始まる。


「(よし、上々)」  


 丁寧に丁寧に縫い上げていく、ティアラの音に、内心で感心する。予選会が終わってからも練習を欠かしていない成果が、よく出ている。


「(さて、ここからだ)」


 前奏が終わり、僕の音が合流する。内心に燻るものを、指先に込めて、鍵盤に伝える。その瞬間、ティアラがニヤリと笑って、僕たちの音に混じって、観客席から、騒めきが聞こえた。


 譜面台に広げた楽譜は、もう見ない。記憶にある、ティアラの音に合わせて、次々と頭に浮かぶメロディーを形にしていく。


 きっと、こんな和音をこのタイミングで入れるのは、この世界の常識ではあり得ないだろ?ここをオクターブにするのは?ここで、ジャズみたいなコードを挟むのは?


 僕が、人生で培ってきた音楽を、総動員して、ティアラの次の音を、どう彩るかだけを考えて、指を動かす。より、ティアラの努力の末に身につけた音の、純粋さが際立つように。


 ここは、僕が元の世界で参加していた、コンクールや、ティアラが突破した、予選会の場とは違う。

 それらは、ただ作曲者の意図をどれだけ深く汲み取って、どれだけそれを正確に鳴らせるかを競う場だ。


 だが、この場は違う。余興、観客をどれだけ楽しませるか、そういう場だ。その場で、現代日本程、音楽であふれた場所で育った僕が、その知識を全て活かして、自由にアレンジを効かせられて、相棒との呼吸は文句なし。

 追随など、出来る筈がない。させない。ただ、評価点を競う場でなら、あの嫌味な人たちも、僕と競えたのかもしれない。実力はわからないけど。


 ただ、この場では負けない。ティアラが、一番よく見える音を、彼女の音を僕が一番よく知っているから。


 どうだ、うちの生徒は凄いだろと、音で叫ぶ。そのために、鳴らし続ける。


********************************************


 音をなぞる最中、私は高揚する気持ちを抑えられなかった。隣から聞こえてくる一音一音が、私の心臓を脈打たせて、いつもより随分と早いリズムを打たせる。


 一度は、私を打ちのめした音が、全身全霊をもって、私の音の背中を押してくれているのを感じる。

 この身が、知っている。この音の凄さを、だからこそ、この凄さを、誰よりも私がわかってる。


 音が全く私の邪魔をしない。むしろ、研ぎ澄まされて、観客席まで届いてる気がする。私の音に色を足すんじゃなくて、私の色を濃くする。そんな演奏。


「(ああ…楽しい。最高っ!)」


 一秒でも、鍵盤から目を離せば、思考に別のノイズを挟んだら、この演奏が濁ってしまうと思うと、出来ないけれど、今の観客の顔を見てみたいと思った。

 料理を平然と食べている人は、この音を聴きながら雑談に興じている人は、いるだろうか。


「(きっと、いないわ)」


 皆、こっちを見ている気がする。貴族やら、大商会の大物たちが、きっと皆。なのに、少しも怖くない。

 横から鳴る音が、私に大丈夫だと教えてくれる。あの、予選会の時に知った。一人じゃないんだと。そのことを、理解させてくれる音が、隣にあるから。


 ナギの音を、この世界で一番近くで聴けていることが、とても誇らしかった。ずっと、この時間が続けばいいと思った。


 なのに、たった三分間の譜面は、すでにゴールが見えてきていて。それならせめて最後まで、最後の一秒、一音、残響まで、全身全霊で楽しもうと、音を鳴らす。


 私の先生は、こんなに凄いんだと、音で叫ぶ。そのために、濁らない主旋律を、弾き続ける。


********************************************


 最後の一音が鳴って、顔を上げた。パーティーとは思えないほど、静けさに満ちた空間に、僕らはいた。

 同じく、鍵盤から顔を上げたティアラと、目が合って笑った。ティアラは、汗だくで、前髪が額に貼り付いている。きっと、僕もそうなんだと思う。


 興奮から覚めて、笑っている膝を奮い立たせて、立ち上がり、何歩か前に出て、深々とお辞儀する。


 僕達が、顔を上げた瞬間、大きすぎて、なんの音かわからないほどの、盛大な拍手が鳴り響いた。


 その音と光景に、呆けていると、ティアラが、僕の二の腕を叩くから、そちらを向くが、何を言っているのか、少しも聞こえない。

 耳を近づけてみると「やってやったわね!」と叫んでいるらしい。苦笑いを浮かべて、両手を差し出すと、ティアラが勢いよく、掌を合わせて、小気味好い音が響いた、気がした。


 このハイタッチは、お互いがお互いに鳴らす拍手だ。僕達は、もう一度、客席の方に向かって、深く礼をすると、その光景を噛み締めるように、もう一度だけ眺めて、ステージ裏へと掃けていく。


 汗が浮かぶ、額を袖で、強引に拭う。そして、拭った後に、フリーダさんのかなりの高級品だと思い出して、肝が冷えた。ようやく、現実に引き戻された気がした。


「凄い拍手…まだ鳴ってるよ、ナギ」


 眩しいステージの方向からは、まばらながらも、まだ拍手が聞こえる。それを、別世界でも眺めるように、ティアラがぼんやりと見ている。


「ティアラなら、すぐ、これくらいの拍手もらえるようになるよ」


「無茶言うわね、私の先生は。予選会の時は、これの二割くらいの拍手だったわよ」


 「まだ聞こえる拍手の方が大きいくらい」と、ティアラは肩をすくめる。


「そこまで、連れていくのが、僕の役目だからね。僕が言うんだから、絶対行けるさ」


「もう、連れて行ってくれたわ。魔法みたいな時間だった」


「僕も、最高に楽しかった」


 僕らが、そうしている間にも、プログラムは次々進んでいったようだけど、トップバッターが、あんなに場を盛り上げてしまうと、やりにくかったんじゃないだろうか。

 イアンさんや、取り巻きは放っておいたとして、クリスには申し訳ないなと思いつつ、体が冷えたのを見計らって、観客席に戻った。


 もう、嫌味ったらしい声は、どこからも聞こえなかった。


 人の演奏の合間合間に、一体どこの演奏かなのかとか、是非うちに演奏しにきてくれだの言われたけれど、忙しさを理由に、無難に断った。

 褒めてくれるのは嬉しいのだが、次にはなんらかの交渉や、要求の話をしてくる場は、とても久しぶりで、疲れてしまう。


 そんなことをして、疲労感を蓄積させていると「いよいよ、最終奏者です!」と言う司会の声が響いた。

 拍手に迎えられながら、ステージ袖から姿を現したのは、クリスとイアンさんだった。


ティアラから「天才」と呼ばれていると聞いた時から、実はクリスの演奏は楽しみにしていたので、僕も拍手をして出迎えると、長椅子に座る直前、立ち止まり、場内を見渡して、一点を見据えて、笑った。


「(今、僕を見た…?)」


 そんな気がして、何か反応を返そうかと思ったが、クリスは、すでに踵を返して、着席していた。


「ねえ、今、クリス、ナギを見てなかった?」

 

 ただの、僕の自意識過剰なのだろうかと、思っていた時、ティアラがそう呟いた。「ティアラもそう思った?」と、返そうとしたら、一音目が鳴って、慌てて口を塞いだ。


 前奏は、たおやかに、優しく過ぎていった。音が、暴発したのは、イアンさんが伴奏を始めた瞬間。


 音の質が変わった。優しさなんか、かなぐり捨てたみたいに、強制的に観客の心を揺り動かしに来る。

 確かに、僕らが弾いた曲と同じなはずだ。でも、もう、今クリスが弾いているのは、彼女の曲だ。


 伴奏がついていけていない。変幻自在に変わる主旋律に、色を、形を変えていく音の奔流に、飲み込まれている。


 観客も、息を飲んでいる。圧倒されている。クリスの演奏に。僕も、心が打ち震えている。他の人とは、少し違う理由だけれど。


 演奏が終わる。誰もが、音が切れてから、少しの間は、意識を戻せなくて、水を打ったように静まりかえる。


 やがて、まばらに拍手が起き始めたかと思えば、それは場内を包み込むものになって、クリスが立ち上がって、こちらに礼をした時に、最高潮になった。


 クリスは、そんな最中、頭を上げたかと思えば、汗が滴る顔を、喜色満面に染めて、観客席を指差した。いや、僕を指差した。

 何事かと、ざわめく場内で、僕だけが、クリスが何を言いたいのかわかっていたと思う。


「やっぱり、クリス、最後もナギを指差してたわよね」


 クリスと、居心地悪そうにしたイアンさんが未だ止まない拍手に見送られていく中、ティアラが言った。


「そうだね」


「あれ、どういう事だったの?」


「僕の勘違いじゃなければだけど、クリスは、僕の伴奏に合わせて弾いてたんだよ」


「ど、どういう事?」


「僕が、ティアラを活かすように弾いた音に、さらに合わせて、僕の音と合わさって良くなる主旋律を弾いたんだよ、彼女は」


 僕がティアラの音に、色を足すのではなく、同じ色を混ぜて濃くしていたのに対して、クリスは、僕の音がうまく混ざって、別の綺麗な色に変わっていくような音を出していた。

 

「そんな事、できるの…?」


「できないよ、普通は」


 だから僕は、戦々恐々としているのだ。天才、なんて言葉でも足りるかどうか分からないぞ、彼女。


 さざめきが止まないまま、次のプログラムに移ったのか、弦楽器の音が聞こえてきた。

 それを合図に、そこらかしかに置かれていた、テーブルが壁際に寄せられていく。


「ん?どうしたのこれ?」


 場内の、変化に何事かティアラに尋ねると「ああ、忘れてたわ。ここからはね、ダンスパーティーになるのよ」とのことだった。


 言われてみれば、周りの人間が、手を取り合っている光景が散見された。ダンスなんて、ろくに踊れたもんじゃないから大人しく壁の花になろうと、壁際に向かおうとすると、そっと、僕の腕を掴む感触がある。


「どうしたの?ティアラ」


 当然、僕の腕を掴むのなんて、一人しかいない。なんだか、今日はよく引き止められる気がする。

 ティアラは、掴む場所を、腕から手のひらに変えると、笑顔でこう言った。


「私と踊ってくれませんか」


「どう考えても、男側が言うセリフだよ、それ」


「小さなこと気にしないの、せっかくあんな拍手を貰った素敵な夜なんだから、踊りましょうよ」


 「ダンスなんて踊れないよ」と言いつつ、素直に用意されつつあるダンスホールの中心へと歩き始める。

 「私もよ」なんて、ティアラは笑うけど、こっちは不安で仕方ない。


 弦楽器の音色に合わせて、踊る。不格好だと思う。意味のわかんないところで跳ねたり、お互いの足を、結局計三回踏んじゃったり。

 でも、ティアラの言う通り、とても素敵な夜だった。


「ね、こんな風に、不格好でもいいから、連れて行ってね、ナギ」


「任せてよ。泥臭いことには、定評があるんだ。なんたって、看板メニューがたまに泥水と勘違いされるからね」


「ばか」


 もう一度、膝が笑うようになるまで、僕は踊り続けた。やってきたフリーダさんや、なぜか混ざったウォルツさんや、その秘書なんかとも。


 ああ、覚めたくないな。なんて、思ったけれど、結局みんなで店に戻って、ご飯を食べ直すことになって、エプロンを腰に巻いたら、いつも通りだ。

 やっぱり、こっちの方が性に合ってるなんて思いながら、フライパンを持ち、コーヒーを淹れる。


 それも含めて、素敵な祭りと、夜だった。


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明日の今日の0時か、明日の正午に迎秋祭のアフターエピソードを投稿して、三話くらい日常話挟んで一章の締めの話に入ろうと思います。五月中には終わりたいね!

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