第29話 迎秋祭③
初めて敷地内に訪れた、アルスター芸術学院は、聞いていた通り、呆れるほど広大で、絢爛だった。
芸術を育む場所なのだから、当たり前なのかもしれないが、植木、オブジェ、校舎の柱など、至る所にに意匠が凝らされている。
暮れるのが早くなった陽が落ちて、薄暗くなった道を、沿うように設置された、中世風の街灯が、僕らの足元を照らす。
揺れる街灯の炎すら、計算に入れられたかのような設計に感心しながら歩く。
「すごい場所で学んでるね、ティアラ」
「すごいんだけど、毎日暮らすとなると、広すぎて困るわ。未だに迷子になるんだから」
そんな他愛ない会話をしながら、奥に進んで、たどり着いたのは、日本で、ピアノのコンクールに出た時を思い出させるような、大きなホール。
入り口の前には、いくつもの受付が存在し、そこに着飾った参加客らしき人たちが、列になっている。
僕たちも、そこの列の一つに並ぶ。他の人を見ていると、参加状のような紙を見せていて、途端に不安になる。
「僕、何も持ってないけど、大丈夫?」」
「大丈夫よ、受付の人、全員先生だから。私は校章を持ってきてるし、私のピアノの先生って言えば入れるわ」
その言葉の通り、順番がやってくると、ティアラが校章を見せ、名前を告げると、すんなりと通ることができた。
一瞬、受付の先生らしき人物が、僕を興味深そうに眺めてきたが、どうやらお眼鏡にかなったようだ。きっと、フリーダさんの衣装のおかげだろうと、心の中で、再三の感謝を告げた。
ホールの中に入ると、そこは別世界だった。頭上に煌めき揺れるシャンデリア、無数のテーブルには、純白の皺ひとつないテーブルクロスが敷かれ、その上に、豪勢な食べ物が所狭しと並んでいる。
そして、料理を食べながらも、着飾り、姿勢を正した人たちが、談笑している。それでも、はっきりと聞こえる壇上の音楽が、この学院の生徒の優秀さを示しているようだった。
「今は、二年生の先輩達のアンサンブルね。すごいわ」
「それで、僕たちの出番は?」
「理事長の、祝辞と挨拶が終わった後ね。しかも、一番手。それまでは、私たちも自由よ」
「ご飯食べる?」
「少しお腹に入れておきましょうか。私はドレスだから、あまり食べられないけど」
ティアラはよく食べる子なので「あまり」が信用できないな。なんて考えていると、鋭利なヒールが、足の甲に突き刺さった。思わず悲鳴をあげると、全く目が笑っていないティアラが「あら、ごめんあそばせ」なんて、言って口元を隠して笑う。
なんで、心をたまに読まれるのだろうか。足の甲をさすって労わりながら、滅多なことを考えるもんじゃないなと思う。
「すごいね、美味しい」
「確かに美味しいわね。でも、肩が凝るわ」
「まあ、立食パーティーなんて、食べるのがメインじゃなかったりするからね」
「だから私は、ナギのご飯の方が好きよ」
「そう言われると、飲食業冥利につきるよ」
「だから、これが終わったら、ナギのお店で美味しいご飯を食べましょう。きちんと座って、ね?」
「いいね、そうしよう。そのためにも、きちんと演奏して帰らないとね」
腹二分目といったところで、食事をやめて、指のストレッチなんかをしていると、背後から声がした。
「あ、ティアラだ。楽しんでる?」
「クリス…」
声の方向へ振り返ると、薄紫髪の、儚くも美しい少女がいた。どうやら、ティアラに用があるようだが、ティアラが呟いた名前には、聞き覚えがあった。
確か、ティアラの友達で、天才と呼ばれているとかいう子だったはずだ。その子は、左手に持ったさらに、溢れんばかりの料理を乗せ、幸せそうな顔をしている。
「美味しいよね、ここの料理。しかも、種類もたくさんあるから、つい、片っ端から食べちゃった」
「クリス、口の周りが汚れてるし、そんなに食べたら、せっかく着飾ったドレスが苦しくなるし、演奏にも支障が出るわよ…?」
ティアラは、呆れたような声でそう言うと、ハンカチを取り出し、クリスの口を拭いた。その光景を見ていると、友達というより、親子といった感じで微笑ましかった。
「あはは、このくらいで、僕の演奏は変わらないよ。それに、こんな堅苦しい場所に呼ばれてるんだから、お腹いっぱい食べるくらいさせてもらえなきゃ損だよ」
一人称が「僕」なのも相まって、なんだか、ユニークな子だなと思う。周りの空気が、独特というかふわふわしているように感じ。
「で、ティアラ、後ろの男の人が、君の先生?」
話題の矛先が、急に僕に向いたので、急いで表情を取り繕う。先生らしくしないと。ティアラの見る目が疑われるのは癪だ。
「初めまして。クリスさん、でいいのかな。ティアラと仲良くしてくれてありがとう。ティアラの、ピアノの先生をしている、天沢凪と言います」
「アマサワナギ…珍しい名前だね。初めまして、僕はクリス。気軽に、クリスと呼んでくれて構わない。ティアラに話を聞いてから、ずっと会いたかったんだ。演奏、楽しみにしているね」
「ご期待に添えるよう頑張るよ。僕も、気軽にナギと呼んでくれて構わないから」
ティアラが、このクリスという少女に、どんな風に僕のことを話してくれたのかは分からないが、反応を見るに、きっと悪いようには話されていないだろう。そう思うと、少し照れくさい。
「そういえば、クリスの先生は?いないの?」
「あー、なんか、色んな人と話してたし、品がないとかうるさいから置いてきたんだ。会場のどっかにはいるよ」
猛烈に嫌そうな顔で、先生のことを語るクリスの様子から、どうやら、あんまり師弟仲は良くないのだなと、察する。
「あ、いたいた。クリス君、勝手にどこかに行かないで下さい。生徒を紹介したいのに、急に消えられると困るんです」
そんな時に、会話に一人の男性が割り込んで来る。噂をすれば影というやつで、どうやらこの男が、クリスの先生らしい。
ぴっちりと分けた髪に、フレームレスの厚いメガネ。白いタキシードに、赤い蝶ネクタイが、なんというか、あまり似合っていなかった。
どこか神経質さを感じさせる、高い声に、クリスがうんざりした顔を浮かべる。
「先生の自慢話のタネになるつもりはないよ」
「そう邪険なことは言わずに。実際に自慢の生徒なのですよ」
そこまで話した後に、どうやら会話に割り入ったことに気づいたようで、ずり落ちたメガネを指で直しながら、空いた手を差し出してきた。
「これはどうも失礼。この、クリスの指南役をしております、イアンです。以後お見知り置きを」
なんだか、仕草の一つ一つが、大仰に感じる人だった。握手に応じるために近づくと、やけに派手なオーデコロンか何かの匂いがした。
ただ、名前を聞いて、ティアラは何か思い当たるところがあったようで「イアンって、あの…」と呟いている。当然僕は、全く知らないので、こそっと尋ねてみる。
「(ねえ…有名な人?)」
「(そうね、王都の公演で、何回か指揮者を務めたこともあるらしい、有名なピアニストよ)」
もう、僕の世間知らずは驚くに値しないようで、ティアラが淡々と情報を教えてくれる。ふむ、確かにすごい人っぽいぞ。
「クリス君、この方達は?」
「友達の、ティアラと、その先生のナギ。この二人も連弾するの」
クリスは、イアンさんからの問いかけに、淡々と答えて、興味なさそうに、皿の上の食べ物をぱくついている。
「名乗らずに失礼しました。アマサワナギと言います」
「ティアラです」
「いや、こちらこそ。あまりお名前を聞かないもので、失礼ですが、どこの楽団の方で?」
イアンさんの目が、僕を射抜いて、そんなことを尋ねてくる。値踏みするような、ねめつけるような視線に、少し顔が引きつる。
「楽団とかは、特にないですけど」
「ああ、ソロのピアニストですか」
「いえ、ただの一般人ですよ。ピアノが弾けるだけの」
嘘をつく意味がないので、馬鹿正直に自分の素性を明かすと、イアンさんの顔が、ぽかんとしたものに変わると、次第に笑い顔に変わる。
「ふふふふふ、いや、失礼。まさか、素人が、迎秋祭に招かれているとは思わなかったので」
漏れる笑い声を、隠そうともせず、イアンさんは笑う。なんだ、この野郎。周りで談笑していた人たちも、騒ぎを聞いて、ヒソヒソと、僕らを見て何かを言っている。僕に向けられる視線の性質からして、ろくな話をしていないに違いない。
「(感じ悪いわね)」
後ろで、ティアラが、そう零すが、全面的に賛成だ。まあ、この世界では何の実績もない素人だから、別に否定はしないけれど。
そんな最悪の場の空気を断ち切るように、壇上のアンサンブルが終わる、会場から拍手が鳴ると、掃けていく生徒たちと入れ替わるように、一人の男性が壇上に現れ、マイクのようなものの前に立った。
僕は、その光景を見て、絶句している。壇上にいる人物が、見知った人物だったからだ。
「ウォルツさん?」
「ただいまから、理事長から、迎秋祭開催への祝辞と、お言葉をいただきます」という声とともに、聞き慣れた低くも、聞き取りやすい声が響く。
「え?ウォルツさんって、学院の理事長なの?初耳なんだけど」
「ナギ、まだ気づいてなかったの?実は、ウォルツ理事長って、凄まじく偉い人なのよ」
ティアラから、詳しくウォルツさんの肩書きを聞いたが、あまりイメージが湧かない。いや、殿上人っぽいのは分かってたけどさ。
通りで威厳溢れるわけだ、と勝手な納得を得ていると、またも嫌味な声が聞こえる。
「おやおや、芸術公とも呼ばれるウォルツ伯爵を知らないとは。本当に素人丸出しですね?」
まだいたんですか。気づけば、隣のクリスは消えているのに、なぜかイアンさんだけは、この場に留まっていた。
相手にするだけ無駄だと思って、喫茶店で鍛えた愛想笑いで、場を凌いでいると、クイクイと袖を引っ張られる。
「ナギ、理事長が話し始めたってことは、出番近いわよ。裏に行かなくちゃ」
「そうだね。行こっか」
僕たちが支度し始めたのを見て、イアンさんも、出番が近いことに気づいたのか、キョロキョロと、連弾相手のはずのクリスを探すが、すでに何処かに行ってしまっている。
「連弾、どんなものか、楽しみにしていますね」
最後まで、嫌味を残すことを怠らず、去っていくイアンさんに、もはや感心をを覚えながら、ティアラに案内されるまま、舞台裏へと向かう。
慌ただしい舞台裏にたどり着くと、すでに何組かの生徒と先生らしきペアが控えていた。そこには、どうやら一足先に向かっていたらしい、クリスの姿もあった。
彼女は、僕たちに気づくと、そばに駆け寄り「ごめんね」と謝ってくる。
「嫌味なおっさんだったでしょ?あんなの聞いてたら、音が鈍ると思って、逃げちゃった」
「クリスが謝る必要はないよ」
「つまらない人間だよね。権威が音符に乗ると、本気で思ってる連中なんだ」
クリスの物言いに、この調子で連弾の息が合うんだろうかなんて、場違いな心配をしていると、どうやら祝辞を終えたらしいウォルツさんが、戻ってきて、どうやら僕たちに気付いたようで、軽く手を振って、こちらに近づいてくる。
「やあ、少しぶりだね、店主さん。最近は、これの準備で忙しくてね。お店に行けてなかったんだ。それにしても、店以外で会うのは初めてで、変な感じがするよ」
「僕のセリフですよ。ティアラから聞いたんですけど、やっぱり偉い人だったんですね」
「この地位なんて、父から受け継いだだけのものさ。もちろん努力はしているつもりだけどね。そんなもの、気にしないでくれ」
「もちろんです。店で、お待ちしています。いつでもいらしてください」
そんな会話を後、二、三個交わすと、ウォルツさんは、いつもの秘書さんに連れられて去っていった。
お辞儀をして、それを見送ると、もはや慣れっこになってきた程に、また、周りからヒソヒソと声がした。
「(あの、青年、芸術公と親しいようだが、いったい何者だ?)」
「(見たことがないな)」
そんな声、いちいち気にしてられるかとばかりに、無視を決め込んでいると、ひときわ大きい声で、周りに知らしめるように「あれは、ただの素人だそうですよ」という声が混じる。
その声の主は、言うまでもなく、イアンさんで、一体何が気に入らないのか、先ほどまでとは違う、忌々しそうな目線を向けてきていた。
「(この街の音楽家って、全員、理事長に気に入られようと必死なのよ。学院の講師にでもなれば、一生安泰だし、箔もつくから。そんな理事長と親しいから、妬まれてるのよ)」
「(面倒臭いなあ…)」
ティアラが説明してくれた裏事情に、嘆息する。どの世界でも、そういう権力に付随する嫉妬なんかはあるんだなと、心の底から面倒臭いと思う。
「ティアラさん、準備をして下さーい」
舞台袖の方から、僕らの順番を告げる声が聞こえた。ティアラと、目を見合わせて、頷きあう。
「準備は大丈夫?」
「大丈夫よ。ちゃんと練習もしたし。それに、ナギが一緒なら、特に緊張もしないわ」
豪勢なグランドピアノが、ステージ上に設置されていくのを見ながら、出番を待つ。
「理事長と親しげだったのが、先頭バッターらしいぞ」
「聞くところによると、ただの素人らしいじゃないか」
「まあまあ、そう言わず。その後の、我々の演奏のハードルも下がるし、いいではないですか」
まだ言ってるのか…自分の出番に集中したらいいのにと、ため息しか出ない。イアンさんを一瞥するが、もう、悪感情を隠すつもりもないようで、僕にずっと視線を送りながら、嫌味を絶妙に聞こえるように垂れ流し続けている。
どこ吹く風といった僕の態度に、どんどん、顔が歪んでいくのが見て取れた。そして、どうやら業を煮やしたらしく、その舌峰の矛先を変えた。
「素人に教わって、上位十五人に残れるのですから、今年は数だけで、レベルは低かったんですかね?」
その言葉に、周りが同調するかのように笑う。僕ならいざ知らず、生徒を悪し様に言うのに、少し顔が歪んでしまったのがわかった。
深呼吸をして、ちらりとティアラの方を見ると、むしろ、僕が気遣わしげな目線を向けられてしまっていた。
口の動きだけで「大丈夫だから」と言っているのが分かった。
ピアノの設置が終わって、司会が「お次は、一年生のピアノ専攻予選会を勝ち抜いた、生徒十五名と、その師匠による、演奏です」という、アナウンスが聞こえた。
嫌味に心を乱してる場合じゃなかったなと、そう思った次の瞬間、初めて僕が相貌を崩したのを、目ざとく見ていていたのか、ティアラへの嫌味が聞こえて。
「ははは、大した努力も、してないんでしょうな。大方、あの美貌で、理事長にでも取り入ったんですかね?先生も同じく、ごますりが上手いようでしたから」
僕は、出番を告げる、呼びかけに紛れて聞こえた、その言葉だけは、どうしても許せなかった。
後半の、根も葉も無い話も、許せはしない。けれど、どうしても、彼女の努力を疑う言葉だけは、許せなかった。
ティアラが、どれほど頑張ったと思っているんだ。あの一夏の、ピアノに向き合った時間の話だけじゃ無い。
ティアラの努力を否定するのは、彼女の人生を否定することだ。だから、それだけはどうしても。
自分の目が、覚えがないほどに吊り上がったのが、分かる。思わず、くだらないことを言う口を、塞いでやろうと詰め寄ろうとした。
「ナギ、大丈夫だから」
腕を掴まれて、つんのめりそうになった。大丈夫なわけ、ないだろ。そう思って振り向くと、ティアラが、顎でステージの方向を指し示す。
「今から、努力の証明をするチャンスがあるんだから、問題ないじゃない」
「そういう問題じゃ…」
「それにね」
僕の言葉を遮って、ティアラは、先ほどまで、なんの感情も浮かべていなかった表情に、好戦的なものを浮かべる。
「私も、私の先生をバカにされるのは、いい加減我慢の限界だったの。ナギが耐えてるみたいだったから、何も言わなかっただけでね」
静かに、ティアラが怒っているのが分かった。僕のために、秘めていてくれたのだ。なのに、先生が先に激発するとは、情けない限りだけど。
「そっか、なら、喧嘩しに行こうか」
「そうね、ちょうどいい喧嘩道具が、壇上にあるもの」
もう、後ろを振り返ることもせずに、ティアラの手を取り、光の漏れるステージに向かって歩いていく。
「かっこいいとこ、見せてよね」
観客のざわめきが、大きくなる前に、そんな声が聞こえた。
さて、目にもの見せに行こうか。もちろん、二人でね。
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