第22話 予選会と天才少女とマーマレード
新学期の初日。夏休みだからといって、生活リズムは微塵も崩れていない私は、いつも通りきっちりと、始業の一時間半と少し前に起床した。
決戦前夜にしてはよく寝られたと思う。やっぱり、ベッドに入ると色々考えてしまったけれど、満腹感に包まれていた私は、気づけば朝を迎えていた。
欠伸を一つしながら、鏡台の前にたどり着くと、寝巻き姿でところどころ髪が跳ねている自分と目が合った。
いつも通りだ。それでいいと頬を一度軽く叩き、シャワーを浴びることにした。濡れた身体と髪を拭いて、髪を乾かしている間に、今日の朝ごはんは何にしようかと考える。
昨日あれほど満腹感があったにも関わらず、もうお腹からはカツ丼の気配は消えていて、キュルルとお腹が鳴る始末だ。
「太ってないわよね…大丈夫…よね?」
シャワーを浴びた時に確認した限りでは、スタイルは維持できていた…はずだ。昔から、太らない体質だから大丈夫だと信じたい。
こんな心配をさせられるのも、ナギの作るものが美味しすぎるのがいけないのだ。そう、あの朗らかな笑顔でテーブルに差し出されるものが毎度毎度、つい食べすぎてしまうほどに美味しい。
昨日は、力をつけるためだし、仕方ない、そう、仕方ないのだ。
そんな心配と恨み言が混ざったようなことを考えているうちに、髪の毛は乾き切っていて。丁寧に櫛で梳かした後に、いつものリボンで髪を結う。
そして、クローゼットから制服を一式取り出すと、手早くシャツとスカートを身につけると、胸元のリボンを結び、ブレザーに袖を通すと、学生ティアラの完成だ。
鏡台の前で一回転して、どこかおかしいところがないかチェックすると、お腹の虫が限界を迎えたみたいだから、戸棚からパン、冷蔵庫からマーマレードを取り出す。
パンにたっぷりとマーマレードを塗ると、一思いにかぶりつく。
「ん、おいひ」
柔らかな酸味と、パンの小麦感が絶妙な相性で、朝でもさらりと食べられてしまう。このマーマレードは、ナギが試作して作りすぎたのだとおすそ分けしてくれたものだ。なんでも、コーヒーとマーマレードは合うらしく、ナギは意気揚々とメニューに加えていたけれど、あんまり頼んでいる人は見た事がない。
結局朝から、マーマレードの食べやすさからパンを二枚食べ切ってしまった。学院までは走って行こうかしら。
歯を磨いて、軽く頭の中で楽譜のおさらいをしていると、ちょうどいい時間になっていた。
「さて、そろそろ行こうかな」
指定の鞄に、楽譜とお昼ご飯用にパパッと作ったマーマレードのサンドウィッチを入れると、肩に掛ける。
靴を履き、一つ大きな深呼吸をして、扉を開く。
「…行ってきます」
無人の部屋からは、当然返事は返ってこなかったけれど、それでよかった。
私が住んでいる寮は、学院の敷地内にあるので、登校には五分とかからない。まあ、敷地内にあるのに五分かかるこの学園の敷地面積もおかしいのだが。
朝の清々しい空気を感じながら、目的の場所まで歩く。今日は、ピアノ専攻を希望する生徒は、教室に行かず直接小ホールに向かうことになっている。
昨日までの暑さが嘘みたいに涼しい。生温かった風は、心地よく肌を撫でる。なんだか、いい気分だ。
緊張していないわけではない。実際に昨日はガチガチだった。でも、自負があるのだ。やり切ったという自負が。
ナギもそう言ってくれた。だから、あとは出し切るだけだ、緊張なんかしていられないという開き直りが、今の私にはある気がする。
小ホールに近づくにつれ、人影は増え、その表情は一様に硬い。ホール内に入ると、講師に適当な席に着くように指示されたので、中頃の席を見繕って腰を下ろす。
予選会の選考方法は、百五十人が順番に演奏して、講師陣が採点するというシンプルなものだ。他の人の演奏は聴くも良し、聴かぬも良しといった感じらしい。
私の出番は昼休みを挟んですぐ。さて、他の人の演奏は聞こうかと考えるが、とりあえず数人は聞いてみようと、適度にひりついた空気の中、楽譜を眺めながら開演の時間を待った。
定刻になって、ホールの中が暗転して静まり返る。講師の、短い挨拶と、簡易な説明が終わると、早速一人目の奏者が出てきた。
より一層張り詰めた気がする、雰囲気の中で奏者が椅子を引く音だけがやけに響いて聞こえる。
壇上の生徒が一つ大きく息を吸い込んで、一音目の鍵盤を鳴らした。もはや目を閉じるといつも頭に流れるほど体に叩き込んだメロディーが、紡がれていく。
私とも、ナギとも違う音だ。これだ、これだから音楽は面白い。奏者が違うだけで音符の並びは同じなのに、こんなにも色を変える。
でも、今は勝負の場なのだ。あなたの色より私の色の方が美しいと、そう叩き伏せて前に進まなければならない。
「(うん…大丈夫。曲の解釈もリズムの取り方も強弱のつけ方も、少なくとも負けてない)」
第一奏者の演奏が終わって私は内心でそんなことを思う。そこから、二人、三人と聴いてもそれは同じ事だった。
そして、十人目に差し掛かる頃だろうか。私は、一度外の空気を吸うために、ホールの外に出た。
私の番は昼過ぎ、ちょうど中頃だから、まだまだ時間はある。他人の音を聞きすぎて自分の音を見失わないように、一度指慣らしをしようかと考えていた時だった。
ゆっくりと背伸びをし、深呼吸をした私の目に飛び込んできた光景はというと、ホールを出てすぐ傍の花壇から、人の足が生えていた。
「…はい?」
人は驚きすぎると、ろくに声も出ないのだと、私はこの時初めて知った。怖いもの見たさで、恐る恐る花壇に近づいてみると、それは花壇から足が生えてるのではなく、花壇に咲き誇る花の中に、上半身を倒れ込ませている人間だった。
「いや、それでも十分おかしいけどね?」
あまりの衝撃の連続に、頭がとっ散らかる。一体どういう状況なのかと、よく観察してみると、花壇の中に身を預けているのは、同じ制服を身に纏った少女だ。薄紫色のショーカットにされた髪、長くすらっとした肢体。閉じられた瞳を縁取るまつげは長く、まるで人形のよう。
それは、一方的にだけれど、よく知った顔だった。
「これ…完全に寝てるわよね」
そして、その少女はスヤスヤと、可愛らしい寝息を立てて完全に眠りについている。本当にどういう状況なのかしら。
そして、ハッと私の頭がとんでもないことを思い出す。
えっ、確かこの子の出番、十五番前後だったんじゃ…
確かそうだったはずだ。今朝から、ホールにいる人達も、この子の順番は注目してたから、ポツポツと聞こえてきていた。
「あの、クリスさん?起きて? 多分出番もう少しだけど、なんでこんなところで寝てるの?」
少女の名はクリス。天才ピアノ少女として、学内外に名前を轟かせている、有名人だ。私も、授業で何度か彼女のピアノを聴いたことがあるけれど、凄まじいものだった。情景を頭に暴力的に想起させられるような、そんな圧倒的な音色。
「んー…」
私が、体を揺すると、クリスさんは、少し体捩らせると、ゆっくり体を起き上がらせると、大きな欠伸を一つ。
ゴシゴシと目をこすると、ようやく意識が少しはっきりしてきたようで、不思議そうな顔で私を見ている。
「えーっと、ティアラ、さん?なんで僕の家に?」
「クリスさん、ここ、あなたの家じゃなくて、えーっと、花壇よ。なんでそんなところで寝てるの?」
クリスさんは、キョトンとした顔をし、周りを見渡すと「あー」と何かを思い出したかのように頷く。
「そうだ、なんか花壇見てたら眠くなって。一度、花畑で寝転がってみたいなと思ってたから、つい」
「そ、そう」
彼女が有名なのは、ピアノの腕。それに加えて、もう一つある。それは、その奇人ぶりである。
「僕」という、女の子にしては珍しい一人称に、思い立ったことを即断即結で行動する行動力。そして、その思いついた事というのが、常人には思いもよらぬことが多く、講師陣が頭を悩ませているという話を噂で聞いた。実際に、その奇天烈さを目にした私は、講師陣が頭を悩ませるのがよくわかった気がする。
一応、彼女もピアノ専攻志望ということは、今日って結構一大事だと思うんだけど、その直前にねむりこけるって…剛胆というかなんというか。
「っていうか、クリスさん!出番もう少しだから、早く会場戻らないと!」
「え?ああ、もうそんな時間なの」
彼女は、伸びをすると、スカートについた土を払い、立ち上がる。
「ありがとう、ティアラさん。流石に今日遅れると、講師の人に怒られそうだからさ」
多分、怒られるだけじゃ済まないと思うけど。
「あれ、そういえばなんで私の名前…」
この学院は、一学年だけでも凄まじい人数がいる。クラスが違う私のことなんて、知らない人の方が多いはずだ。
「ん?そりゃ知ってるよ。学年唯一の特待生。それに、君のピアノも選択授業で聞いた。努力してるって感じの音で好き」
「…ありがとう」
天才と呼ばれる少女に、褒められてむず痒いような気持ちになるけれど、今日は十五の枠を奪い合う競争相手なのだ。
出来るだけ、表情に出ないように簡素にお礼を言うに留める事にした。
「それに、夏休みの直前くらいに聞いた音は、もっと面白かった。単に、上手くなってたけどそれだけじゃない。だから忘れない」
それで終わるかと思いきや、彼女は、急にさっきまでのふわふわと、どこか掴み所のない態度を一変させて私の目を見据えて、そんなことを言った。
「…いい先生に教えて貰うようになったからかしらね?」
一変した雰囲気に、若干気圧されながら、私はやっとのことで、教えがいいのだと返事をする。
「へえ、それはぜひ一度、僕も会ってみたいかも。だからさ、予選会、通過してね」
すると、クリスは予選会を通過しろと言う。一体、ナギに会うのと私が予選会を突破するのになんの関係性があるのだろうか。
「えっ?それってどういう…」
「こと?」と続く前に、私の声は、別の声に遮られてしまった。声の主は、一人の講師だった。
「クリス!こんなところに居たのか!今日だけは遅れるなとあれほど…」
「あははは、寝ちゃっててさー」
「笑い事じゃない!ほら、早く行くぞ!」
焦った様子で、おそらくクリスを探し回ったのだろう。息を切らした講師に堂々と寝ていたと言ってのける、クリスの度胸に感心半分、呆れ半分の目を向けていると、急かす講師の言葉を遮って、クリスが不意にこちらを振り返る。
「あ、そうだ。ティアラさん。せっかくだし、僕の演奏聴きに来てよ」
「私もティアラさんの聴くからさー」と呑気に笑うクリスに、ついに堪忍袋の尾が切れたのか、講師に引きずられていくクリスを、ため息とともに見送る。
「せっかくだし、聴きに行こうかしら」
私が、引きずられていったクリスに一足遅れてホールに戻ると、ちょうどクリスの一人前の奏者が演奏を終えた所だった。本当にギリギリだったのね…
奏者が舞台袖に消えると、ホール内がにわかに騒がしくなる。それぞれが口々にクリスのことを話しているのだ。
『天才が出てくる』
『一体どんな音なんだろう』
『私、一回聞いたことあるけど凄かった…もう、別物って感じ』
そんな風な畏怖と期待を込めたような会話があちこちから聞こえてくる。きっとこの騒めきは、今頃舞台裏で準備をしているクリスにも届いているはずだ。
「(こんな雰囲気の中出るのって、どんな気分なのかしら)」
異様な雰囲気に包まれる会場が、水を打ったように静まり返る。クリスが舞台袖から出てきたのだ。
慌てて、クリスの顔を窺い見る。こんな雰囲気の中、どんな表情をしているのか、大丈夫なのかと少し気になったのだ。
だが、結論から言うと、それはどこまでも場違いな懸念だった。ピアノの前に置かれた椅子へと一直線に向かうクリスの表情は、どこまでも真剣で、先程に私が気圧された一変した雰囲気を纏っていた。
そこには、先程の捉えどころのない軽い雰囲気も、周りを気にする様子も一切ない。カタン、とクリスが椅子を引く音が鳴る。
そんな音ですら、彼女を飾るもののようで、思わず姿勢を正した。
クリスが構えて、鍵盤に体重を乗せた瞬間。世界が色付いた。そう錯覚するほどの一音目だった。
周りが息を飲むのが分かった。私の喉も、油断すれば引き攣った笑い声が出てしまいそうで、懸命に堪えた。そんな音で、クリスの音を汚すのは冒涜でしかないと思ったから。
クリスが、薄紫色の髪を振り乱しながら、私達の脳に音を叩き付け続ける。
三分間。この曲の長さはそのはずだ。だけど、気づけばクリスの演奏は終わっていて、私達は、それを理解できなくて一瞬呆けた。
ただ、それも一瞬。一拍おいて、ホールを番らの拍手が包んだ。クリスが、にこりと笑って、一度礼をしたあと手を振った。
その視線が私に向いていたように思えたのは、私の気のせいだったのだろうか。
そこからも、つつがなく演奏は続いていって、気づけばお昼休憩になっていた。正直な話、クリスの音の衝撃が抜けなくて、何も覚えていない。
私は、立ち上がると、昼ごはんを持って外に出た。さっきクリスが倒れ込んでいた花壇のレンガに腰を下ろして、サンドウィッチの包みを開ける。
そんな時だ。
「ティアラさん、どうだった?僕の演奏」
微笑を浮かべたクリスが目の前に立っていた。
「凄かったわ。お世辞抜きで、震えたもの」
「あはは、ありがと」
それは、偽らざる本音だ。彼女の演奏は圧倒的で、正直今の私では、足元にすら及ばないかもしれない。
でも、でもだ。
「ふふっ」
私の口からは、気づけば笑みが漏れていた。
「ティアラさん?」
少し驚いたような顔でクリスが私の名前を呼ぶ。急に会話相手が笑い出したのだから、それも当然かもしれない。
「ごめんなさい、ちょっと嬉しくて」
「嬉しい?」
「うん、そう。嬉しいの、確かにあなたの演奏をすごいって、敵わないって思っているのに、今、自分の音を鳴らしたくて仕方ない。そんな私になれてたことが嬉しくて」
確かに、彼女は一音聞くだけで違いが分かるほど圧倒的な人だ。でも、私はクリス以外にも、そんな人を一人知っている。
さらりとお手本を弾いただけで、私が驚いてしまうような、そんな音を私は知っている。それを知らない人なら、もしかしたら、クリスの音を聞けば折れてしまうかもしれない。
でも残念、私は知っているどころか、そんな人間の鬼のレッスンにひと月耐えてここにいるのだ。
一度ナギの音に折れて、勝手に諦めてしまった経験があるから、もう折れてあげない。
「あはっ」
クリスは、私のそんな言葉を聞いて、どこまでも嬉しそうに笑った。
「クリスさん?」
「やっぱり、ティアラさん。最高に面白い。早く、聴きたいな君の音」
クリスは、居ても立っても居られないといった様子で、笑い続ける。
「私の出番昼過ぎだから、もう少し待って。ご期待に添えるかはわからないけれど」
「きっと、ティアラさんなら大丈夫。楽しみにしてるね」
クリスはそう言うと、スキップするように弾んだ足取りでホールの方に消えて行った。私はそれを見送ると、マーマレードたっぷりのサンドウィッチに勢いよくかぶりついた。
どこまでも優しくて、爽やかな甘い味がした。まるで、このマーマレードを作った人間の顔が浮かんでくるみたいだった。
いつもそうだ。ここにいないのに、私は今日も彼に守られている。彼のおかげで、きっと私はこれを食べ終わった後、胸を張ってステージに立てる。なんたって、私は彼の生徒なのだから。
「優しすぎるのよ、ばか」
それは、きっとマーマレードの味の感想だったと思う。
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昼ごはんを食べ終わったと思えば、すぐさま私の出番はやってきた。舞台袖に控えている私は、目を瞑って頭の中で音を鳴らし続ける。
私の一つ前の生徒の音が途切れた。そして、控えめな拍手が聞こえた。もう、私の番だ。
「ティアラさん、出番よ」
講師が私を呼ぶ声が聞こえて、私は光が差す舞台の上に歩き出す。舞台に出る寸前に、一つ深く息を吐き出した。
その吐息からは、少しマーマレードの香りがして、なんだかおかしかった。さて、行こう。
椅子に座って、鍵盤に手を置いて構えた。ゆっくりゆっくりと、鍵盤に体重を乗せた。私が鳴らせる、精一杯の一音目。
ナギと作った音を鳴らす。丁寧に、私らしく。ああ、そうだ、ここはこう弾くんだ。ナギとの積み重ねが、音に乗って行く気がした。乗って届くなら、きっと大丈夫だと思った。
ここひと月の時間を乗せて、弾いていく。最後に、ナギの「行ってらっしゃい」と言った顔を思い出した。
鍵盤から手を離し、立ち上がって礼をした。一瞬の空白があった、その空白に不安を覚えて顔を上げる。
そうしたら、その瞬間、大きな拍手が聞こえた。クリスみたいな、万雷の拍手とはいかないけれど、きっと私にとってはスタートの合図の大事な拍手の音が。
ステージの袖に戻ると、講師の先生が何やら上機嫌で賛辞を送ってくれていたけれど、私はまだ夢心地で、曖昧に頷いて、そこから離れた。
席に戻ってからも、体がふわふわしていて、気づけば全員の演奏が終わっていて、選考に入るので、少々待つようにと講師が言ったのが聞こえた。
周りからは、不安や、誰が選ばれるかなんて会話が聞こえていたけれど、私には少なくとも悔いは一つもなかった。
どのくらい待ったのだろう、壇上に講師が神妙な面持ちで現れる。みんなが固唾を呑む中、講師が咳払いをすると、声を張り上げて通過者の名前を呼び始める。
まず、最初に呼ばれたのはクリスだった。納得の声と小さな拍手が鳴って、次々に名前が呼ばれる。
そこから何人呼ばれただろうか、私の名前はまだ呼ばれていない。一つ一つ、椅子が埋まっていくのを聞きながら、祈る。
私の全部は出し切った、だから。
講師の声が一旦止まった、私の心臓も止まりそうだった。だが、講師は「それに」と続けた。
次に呼ばれたのは、私の名前だった。そして、私の後に名前が呼ばれることもなかった。
そうして私は、ピアノを専攻するための試験の予選に合格した。
「ふーーーー」
発表のすぐ後、私は飛び上がりたい気持ちを抑えて、長い長い息を吐いた。
「おめでとう、ティアラさん」
そうしていたら、またクリスが正面に立っていて、祝福の言葉をくれる。
「ありがとう、クリスさんこそ」
「クリスでいいよ、僕もティアラって呼ぶことにする。素晴らしく面白い演奏だった」
「まだまだよ、結局ギリギリだったみたいだし。これでまだ予選なんて考えたくもないわ」
「あはは、本当だよね」
「余裕そうね?本戦では、きっとクリスに冷や汗かかせてみせるわ」
「ふふっ、本当にやっぱりティアラは面白い。楽しみにしてるよ」
彼女はそう言い終えると、踵を返して人混みに消えていった。
「そっか、超えたんだ私」
急に、時間がふつふつと湧いてきた、クリスと、先の本戦の話をしたからだろうか。
「やったっっ!」
私は、小さくガッツポーズをすると、カバンを乱雑に拾い、肩にかけると走り出した。もちろん行き先は決まっている。
早く、彼にいい報告をしたい。きっと優しくて心配性な彼のことだ、今もそわそわしているだろうから。
そして、いい報告をして、ひと段落ついたら、コーヒーを淹れてもらおう。今日は、メニューの端にある、マーマレード付きの方を頼もうと、そう思った。
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