第21話 夏とカツ丼と実るもの
相談屋さんが帰り、完全に日が沈むまでの間に、ちらほらと訪れたお客さんも既に家路につき、さてそろそろ閉店だ。
「ティアラ、そろそろ、クローズにしてくれるかな」
「ん、了解」
カラカラと木製の看板がクローズになって、喫茶店の本日の営業は完全に終了となる。
「お疲れ様、今日昨日休んだ影響で、お客さん多かったから、洗い物も溜まってて、大変だったでしょ?」
「そうでもないわ、体力だけはあるつもりだもの。それに、まだ疲れてる場合じゃないもの」
「ここからが本番でしょ?」とティアラはエプロンを外すと、店の奥に佇むグランドピアノへと歩み寄る。
「…そうだね。さて、今日からだいぶ厳しくするけど。頑張って付いて来てよ」
「うん。もう心は決まってる。それに、誰かさんが、練習時間確保のために頑張ってくれたみたいだしね?」
ティアラはいたずらっぽくウィンクしながら、そう言うとピアノのフタを開く。僕は苦い顔をして、今日教える部分の譜面に目を落とし、聞こえないフリをする。
そうなのだ、相談屋さんが帰ったすぐ後、お隣さんの老夫婦が来店されて、ティアラを見るなりニコニコした顔で、練習時間の確保のために頭を下げたことを話してしまったのだ。
そういうのは影でやるからかっこいいと思っていた、僕は少し顔が熱かった。その上、話を聞いたティアラが、ちょこんと僕のブラウスの裾を掴んで、僕よりも赤い顔をした上目遣いで「…ありがと」と言うもんだから、結局僕の顔も少しどころではない熱を持ってしまった。
閑話休題。そんなこんなで、今日からひと月の間、思う存分練習できる。
「明日から夏休みでしょ?という訳で休店日以外は、毎日このくらいの時間から始めるから、そのつもりでね」
正直それでも多分、譜面を通しでできるようになって、完成度を出来るところまで高めるところまで行くのはギリギリだろう。百五十人中の十五人という一割に滑り込まなければいけない僕たちに余裕はない。
「さて、最近絶不調で、さらに昨日一日サボってる。早速キビキビ行こう。十二小節目から」
軽やかなピアノの音が鳴り始める。見た感じ運指も滑らかだし、何より表情に影や思い詰めたものが欠けらもない。
結局ピアノは心を映すものでもあるのだ。荒んだ心で弾けば荒れた音が出るし、迷いもきちんと音ににじみ出る。
その点で言えば、今ティアラは一切の雑念はなく鍵盤に向かうことができている。それに、ティアラは積み上げてきた努力の厚みが違う。
努力の仕方を知っている。それに、迷いがなく音楽に向き合う。この二つは間違いなく、ティアラが争うことになる同級生たちに対する大きなアドバンテージだ。
「(うん…いい感じ。この調子をずっと続けられれば)」
予選突破も全然夢ではないと、そう思う。正直、競う学生のレベルがいまいち分からないないので、やることをやるしか無いのだが。
「よし、この部分は問題ない。じゃあ、新しいところをやっていこう。まずは右手から。楽譜は読んできてるよね?」
この間までのミスを全く思わせない様子で、習得部分の演奏をしてみせたティアラに控えめな拍手を送ると、早速、次の部分に進む。これくらいのペースで行かなきゃね。
そんなこんなで、僕とティアラの三枚の楽譜を走り終えるための夏休みの旅路が始まった。
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来る日も来る日も、同じことを繰り返した。夏季休暇という事もあってか、いつもより少し忙しくなった店を、夏休みなので昼から働いてくれることになったティアラと二人で切り盛りし、それが終われば夜までピアノの練習に付き合う。
これを来る日も来る日も。代わり映えのしない日々の中で、ティアラの上達したピアノの腕だけが、僕に日々が過ぎていっていることを自覚させてくれた。
そして、夏休みも中盤過ぎに差し迫った頃。ティアラは、ついに三枚の楽譜を一通り弾けるようにまでになった。
「ふう…」
最初から通しで弾いてみようという、僕の指示で楽譜をミスすることなく走り終えたティアラは、一つ大きなと息を吐くと、立ち上がり背後の僕を振り返る。
「…やっと、ここまで来たね」
「やったわ、やってやったわ!」
ティアラは、両腕を大きく振り上げると、その場で小さく飛び跳ねる。いつもは、生真面目なティアラの少し子供っぽい姿に、顔が綻ぶ。
「本当によくやったよ」
僕はそう言うと、振り上げられたティアラの両腕に力強くハイタッチした。小気味いい音が鳴り響いて、僕らはなんだかおかしくて、笑った。
「さて、あとは練度を上げていくだけだ。今日は少し早いけど終わりにしておこう」
あと半月足らず、曲の練度を高めるには、十分とも不十分とも言えない微妙な期間だ。それでも、根を詰め過ぎても仕方ない。
第一の通過点を通過したときぐらいは休んでもいいだろう。流石に、僕にもティアラにも若干疲れが見えてきたし。
「そうさせてもらうわ。今日は良く休んで、また明日からよろしくね先生?」
彼女はクスリとそう言って笑うと、帰り支度を始めた。お互いに少しずつ歩み寄ったあの日から、少しティアラとのやり取りなんかが、気安くなった気がする。
それが少しずつ、僕がこの世界に心を開けている証拠な気がして、ここ最近はちょっとずつだけれど一人で街へ出る事も増えた。
まだまだ、店の用事くらいだけれど、いずれはいつか探索者のエルドさんが言っていたみたいに、世界樹なんかにも行けるようになるかもしれない。
「じゃあ、また明日ね。ナギも最近疲れてるみたいだし、早く休んでね。おやすみ」
「ああ、おやすみ」
僕は、帰り支度を整えたティアラを、店先の角まで送っていくと、そんな会話を最後に、軽く手を振って別れる。
生ぬるい夜風と、夜だというのに容赦無く襲ってくる暑さに包まれて、確かに少し疲れているなと感じる。
「さて、じゃあ今日は早く寝ますか」
とりあえず今日は、達成感と充足感に浸りながら眠った。きっといい夢を見ていたと思う。
そこからの日々も、店を順調に営業し、そのあとにティアラと曲の完成度を高めるという生活を続けた。
夏真っ盛りの暑さからか、避暑地のような扱いで店をふらっと訪れる人が多いせいか、忙しい毎日だったけど、順調で心地いい疲労を覚えて眠る毎日だった。
そして、日々は流れ、秋が近づき、ついにティアラの夏休みは今日で最後となった。要するに、ピアノを専攻するための選抜の予選会が明日なのだ。
この半月ほど、曲を研ぎ澄まして、ティアラの顔が見えるような形にしてきた。やれる事は、全部やったと言い切れる。
「やっぱり緊張するよね」
「…うん」
ひと月の成果を披露する場というだけでなく、ティアラにとっては夢に行くための大事な舞台なのだ。緊張しないという方がおかしい。
「昨日言った通り、今日は指の感覚を忘れないようにするくらいにして、ゆっくり休もう」
「…ちゃんと眠れるかが心配だわ」
一度曲を最初から最後まで弾いて、問題がないことを確認した後、今日はこのくらいにして、あとは休もうというと、ティアラはしきりに深呼吸を繰り返しながら、そんなことを言う。
かく言う僕も、コンクールの前日は緊張から来る高ぶりで眠れなかったので気持ちはよく分かる。
そんなことを考えて、ふと思い出す事があった。そうだ、あれを作ることにしよう。
「ティアラ、緊張してご飯が喉をなんて事はないよね?」
「え?うん、そんな事はないけど…」
「じゃあ、ちょっと待ってて。いいもの作るから」
僕はそう言うが早いか、冷蔵庫から材料を取り出す。今日使うのは、厚切りの豚ロースと、卵に、玉ねぎに、三つ葉、それに揚げ衣を作るためのパン粉と薄力粉。あとは、適宜に調味料だ。
まあ、材料を見ればすぐ分かると思う。僕は今からカツ丼を作る。ベタとか言わないでくれ。
臭いシャレみたいなものでも、意外と緊張状態の人間をほぐすには良かったりするんだ。これは実体験だから間違いない。
「さてと…」
僕は、豚ロースに薄力粉をまぶすと、溶いた卵を絡ませる。そうしたら、パン粉に付けて、と。
そして、玉ねぎをくし切りにして、三つ葉をいい感じにちぎる。それらの準備ができたら、鍋に水、醤油、酒、みりんに出汁を多めに加えて火にかける。
そして、鍋の中身に火が通るまでの間に、トンカツを揚げることにする。揚げ物用の鍋にたっぷり油を敷くと、熱されてパチパチといい音がしてきたら、油がはねないようにそっとお肉を油に入れた。
ジュワッと揚げ物特有の心躍る音が鳴って、僕は揚げすぎないように慎重に鍋を見つめる。
「よし、このくらいかな!」
僕はいい塩梅を見計らって、お肉を油から上げると、皿の上に置いた。おっと、僕も食べるからもう一枚もう一枚と。
そして、しっかり煮えた出汁に卵を溶くと、しばらく蓋をして蒸らす。その隙に、丼に熱々の白米を迎え、その上にカットした揚げたてのトンカツを置いた。
その上に蒸らし終わった、出汁を満遍なくかけると、その上に三つ葉を散らして完成!
「ティアラ、夕飯にしよう。テーブルに座って」
僕は、ガーリックライスを食べて以来、すっかり夕飯を食べる時はティアラの指定席になった椅子に座るように促す。
ティアラが席に着いたのを見ると、僕は蓋をした熱々の丼を持って、意気揚々とテーブルへ向かった。
「はい、お待たせ。蓋を開けて食べていいよ」
「…いただきます」
ティアラが両手を合わせて、丼の蓋をとる。その瞬間、凄まじく暴力的な香りが鼻腔に取り込んできて、僕も堪らず蓋を開く。
「...カツ丼?」
「そう。ほら、勝負にカツって言うでしょ」
「...」
僕がそう言った瞬間、店が静まり返り、ティアラが「正気?」と言いたげな顔でこちらを見ている。
あ、やばい。思ったよりスベってる。
僕が曖昧な笑みを浮かべて、ティアラは唖然と僕を見ている。
「ほ、ほら。こういう験担ぎって大事だと思うんだ。それに、豚肉に入ってるビタミンBって集中力が高まるって言うし...それに...」
僕は遂に空気に耐えきれず、しどろもどろに言い訳のようなものをまくし立てる。ティアラの大事な日の前日に何を滑り倒してるんだ僕は。
「ふふっ」
そんなこんなで僕がアワアワしていると、向かいの席から、小さな笑い声が聞こえてきた。何事かと、ティアラの顔を見つめる。
「なんでナギの方がそんなに焦ってるのよ。おかげでちょっと馬鹿らしくなってきちゃったじゃない」
ティアラは「自分より取り乱してる人を見ると冷静になるのね」とクスクス笑いながら、カツ丼を一口頬張る。
「あ、美味し」
ハフハフと熱々のカツ丼を笑顔で食べ進めていくティアラに、結果オーライなんだろうかと考えながらも、なんとなく釈然としないというか、よく分からない感情を抱きながら、僕もカツ丼を一口、口に運ぶ
サクッとした衣の食感と、直後に溢れるジューシー肉汁。そこに出汁の爽やかさと、シャキシャキの玉ねぎの食感、さらにはふわりとした卵の食感。そして、全てを支える白米...やっぱり日本人の味方だよ、丼物....
「僕の先生が、作ってくれたんだ。勝負の日の前日。料理が下手な人だったから、あんまり美味しくなかったけど、なんだか嬉しくて落ち着いた」
そういえば、僕の時もキッチンでてんやわんやしている先生を見て逆に落ち着いたんだっけ。先生、形は違えど僕ら師弟は同じことしてます。
「...私の先生が作ってくれたカツ丼は美味しいわね」
「そうでしょ?」
そんな他愛ない会話をしながら食べ進めていたら、気づけばお互いの丼の中身は空にになっていた。
「ねぇ、ナギ」
「うん?」
「その...おかわり」
ティアラは空になった丼を、少し恥ずかしそうに僕に差し出してくる。今度は、僕が唖然とする番だった。え?ティアラに合わせて結構大盛りにしたよ?僕のお腹パンパンだよ?
「い、いや、ほら!お腹いっぱいにしたら、気持ちよく眠れそうだし!それに、さっき集中力を上げる効果があるって言ってたから念の為というか!」
やっぱり師弟って似るのだろうか、困った時のしどろもどろの言い訳がさっきの僕そのものだ。
…お腹壊さないといいけど
「ねぇ、ティアラ」
「...なに?」
僕はおかわり分のカツを揚げながら、ティアラに語りかける。
「大丈夫、出来るよ。これだけやったんだ」
「...そうね」
「僕が保証するよ。このひと月、ティアラより頑張った人なんて周りにはいない。だから、胸張って演奏すればいい」
「...うん。ねぇ、ナギ。予選会通過したら、またカツ丼作ってくれる?」
「もちろん。ティアラの好きなものをなんでも作るよ」
「約束よ」
「うん、約束」
そんな約束をして、ティアラは二杯目のカツ丼を平らげると、「行ってきます」とだけ言って、帰路に着いた。
次会う時は、演奏を終えた後だ。きっと、ティアラなら越えられると、そう信じて「行ってらっしゃい」と見送った。
僕は、ティアラが予選会を突破した祝いのメニューを考えながら、ゆっくりと眠り、朝を迎えた。
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店に乱暴なドアベルの音と共に、吉報が届けられたのは、 急に最近の暑さが嘘みたいに消えた、秋の到来を感じさせる爽やかな日だった。
ーーーーティアラは予選会を見事突破した。
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