第19話  新しい朝より

街道の騒めきで目を覚ました。まだまどろみの残滓が支配する頭を頑張って働かせながら、ベッドから起き上がり、締め切られたカーテンを開くと、眩しい朝の太陽が目を焼いた。

 一つ伸びをしたところで、もうすでに眠気は消えていた。外は快晴。軽くストレッチをしてみる分には、昨日のだるさも頭痛も、少しも感じられなかった。


 一階に降りて、顔を洗ってタオルで水気を取る。今日も鏡に映る僕は、少しも変わらなくて。でも、少しだけ変わった僕なのを僕だけが知っていた。


 また新しい朝が来た。僕にとっては、いろんな意味を含んだ新しい朝だ。


 いつもより起きるのが少し遅かったから、急いで、でも昨日していない分、念入りに掃除をして、椅子を下ろすと、店内の様子だけを見たら、すでに開店準備は万端だ。


 僕は、キッチンに置かれたエプロンを身につける、いつもよりきつく背の紐を結ぶと、食材の下処理と、コーヒー豆の焙煎始めることにした。今日は、この作業以外に一つしなければならないことがあるから、総じて作業を急がなくてはならない。


 下処理などの開店準備が整った時には、すでにいつもの開店時間近かった。少しの寝坊と掃除を昨日の分までやったことを考えると、病み上がりの身で頑張ったんじゃないだろうか。


 さて、いつもなら、ここで開店となるわけだが、僕は今日もう一つしなければならないことがある。

 それは何かというと…


「よし、クッキーを作ろう」


 そうと決まればと、準備していた材料をキッチンに並べる。薄力粉、塩、砂糖、バター、そしてアクセントに店にあったラズベリーっぽいベリー。あと、道具として、ヘラとボウル。



 並べ終わると早速に、用意したボウルに、薄力粉、塩、砂糖、そしてちょうどいい具合に細かく切ったラズベリーを加えて、かき混ぜる。

 いい感じに混ざったら、次に、水を加えて、また混ぜる。そして、粘り気が出てきた所に、湯煎して溶けたバターを足してやると、またまた混ぜる。


 そうしてやると、生地は完成。あとは、生地をいい感じの円形に整えて、オーブンで焼く。

 温度設定は感覚なので、時々様子を見ながら焼いていくと、十五分後には、店内に甘くて香ばしい匂いが漂い始めた。


 フォークで、突いてやると中はまだ生っぽかったので、もう五分ほど焼くと、サクッとしたクッキーの完成だ。

 試しに、一枚だけ試食してみることにする。、サクッとした心地いい食感と、甘い味にラズベリーの甘酸っぱいアクセントが加わってとてもいい感じだ。


「よし、これなら大丈夫かな」


 僕は、完成したクッキーを小分けにして、軽くラッピングすると、それを持って店を出る。

 今日のすべきことは、ここからが本番なのだ。


 クッキーを持った僕が向かったのはほど近く、というかお隣さんのところだ。僕のお隣さんは、小物屋さんを営んでいる上品な老夫婦。

 昨日までの僕が挨拶なんかをできるわけも無く、今日まで見かけたことくらいしかなかったのだが、今日はお願い事が一つとともに、遅まきながら挨拶に来たのだ。クッキーを添えてね!


「ご、ごめんください」


 僕が店の敷居を跨いで、そう言うと、店番をしていたらしき、老婦人から返事が返ってきた。

 手招きされるままに、お店のカウンターに向かう。


「あ、あの、初めまして」


「はい、初めまして。こうやって面と向かってお話をしたことはないけれど…お隣さんよね?」


 老婦人は、見た目通りの穏やかなしゃべり口で、僕を迎えてくれた。


「はい、挨拶が遅くなってしまってすいません」


「いいのよ、挨拶なんてしなくても。私たち、しがない老人なんだから。お店も忙しいようですしね」


 ふふふと、上品に笑う老婦人を見て、自然と顔がほころぶ。


「それで、今日いきなり来られたということは、何かご用事?」


「…はい」


 そうなのだ、僕は今日、一つ頼みごとがあってここに立っている。


「いきなりで申し訳ないんですが、ひと月ほどの間、少し夜にかけて騒がしくなるのを、お許し願えないでしょうか」


「本当にいきなりねえ、えっと、理由を聞いてもいいかしら」


「ピアノの練習を、させてあげたい子がいるんです」


「ああ、いつも聞こえてきているわよ。夜も浅いうちに終わるから、今までは全く気にしていなかったけれど…それを長くしたいということ?」


「そうです。どうかお願いできないでしょうか。ひと月だけで、いいんです」


 老婦人は、能わらに置かれた湯呑みに口をつけると、変わらぬ口調で問いかけてきた。


「そうまで言うということは、何か理由があるのよね?とりあえずそれを聞かせてもらえないかしら」


 僕は、大きく息を吸い込むと、嘘偽りない言葉を述べることにした。きっと、誠意は伝わるはずだ。


「夢を、追ってる子がいるんです。正直、今の練習ペースじゃ、ひと月後の大事な試験に間に合わないんです。初対面で、こんなことを言うのもなんですが、どうかあの子の夢に協力してくれませんか。少しでもうるさいと思うなら、言ってくれたら構いません。僕がなんとかします。だから、どうか」


「お願いします」と限界まで深く、頭を下げた。答えを聞くまでの、長い数秒間。僕は床を眺めて待ち続けた。


「ふふっ」


 すると、待ち望んでいた答えは、肯定でも否定でもなく、小さな笑い声だった。唖然として、頭を上げ、老婦人の顔を見ると、そこには穏やかな笑みが浮かんでいた。


「えっと…」


「ごめんなさいね。少しからかってしまって。別にそんな風に頭を下げてくれなくとも、私たちは全然大丈夫なのよ。好きなだけ練習してくれて構わないわ」


 老婦人の回答に、僕は再び唖然とする。二の句を継げないでいると、老婦人は笑みを崩さないまま、


「実はね、ご近所さんで、話題になっているのよ。最近、綺麗なピアノの音が聞こえて心地いいわねって」


 と、そう言った。


「えっ」


「ふふっ、お隣さんはあんまり近所の交流がないみたいだから、知らなかったでしょう?きっと、これから他のところも回るつもりだったんでしょうけど、きっと大丈夫よ。むしろ私たちは楽しみにしていたぐらいなんだから」



 ご近所づきあいが全くなかったゆえの、驚きの展開に、ぽかんとしてしまう。そうなってくると、さっきの決死のお願いが少し恥ずかしくなってきて、思わず手で口元を隠してしまう。


「さっきの言葉を聞いて、より応援したくなったわ。その子にも、頑張ってって伝えてくれると嬉しいわ」


「…ありがとうございます」


 僕はもう一度、頭を下げる。そして、忘れていた手に持ったものを差し出した。


「これ、お菓子です。よければご主人と召し上がってください」


「まあ、あなたのお店の甘いものは美味しいって評判だから、楽しみだわ。ありがとう。またお店にも行かせてもらうわ」


「お待ちしております」


 僕は、そう言ってお辞儀すると、次のご近所さんのところへ向かう。いくら老婦人に、大丈夫だと思うと言われたからといって、挨拶しないわけにもいかない。


 そこから、三軒ご近所さんを回ったけれど、どこも二つ返事で了承されて、逆に僕が困惑してしまうぐらいだった。

 そして、どの方達も「頑張ってね」と言う言葉をくれた。とても温かくて、こんな世界で、何を怖がって、縮こまっていたんだろうと、少し自分に呆れる気分だ。


 そして、挨拶回りを終え、店に戻ると、店をクローズからオープンに裏返す。新しい朝でも、今日も僕のすることは変わらない。


 今日もカランカランと、ドアベルが鳴る。


「いらっしゃいませ!」


 先生、僕は今日も、この異世界喫茶店のマスターとして生きています。教え子が改めて、一人出来たけれど、きっとこれからは上手く、先生の弟子としての僕で、やっていけると思います。


 昨日の突然の休業を心配して、常連さんたちがなだれ込んできて、とても忙しい朝になった。

 それでも、僕は額に汗をかきながら、今日も頑張っております!


********************************************


「あなた、お隣さんが甘いものをくれましたよ。一緒に食べましょう」


「ああ」


「あなたも聞いてたでしょう?お隣さんの話」


「ああ」


「いいわよね、ああいうの」


「ああ」


 今日も今日とて、老紳士は寡黙だ。でも、積み重ねてきた今日があるから、老婦人はその短い二文字に込められた意味をちゃんと理解している。


「あら甘酸っぱい」


 老婦人は、こんなものが食べられるなら、もっと早くあの隣の店に行けばよかったと後悔したのだった。

 行くときは、この正面の定位置で、ごく親しい者にしかわからないほど相貌を崩している、甘党の夫とともに行こうと、そう決めて。


 そんな、朝だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る