第18話 君のこと⑤

 いつからだったか。僕の友達は、白黒の鍵盤だけだった。ずっと二人で、旅を続けた。譜を変え、調を変え、どこまでも。


そいつは友達だったのかは、今はもう分からない。そいつは、上手くいった時も、嬉しい時も、ただ僕の後ろを着いてくるだけだ。


ただ、上手くいかない時とか、立ち止まった時だけ、そいつは耳に問いかけてきた。「まだ、歩けるかい?」と。


そうやって僕はまた、歩き始めた、はずだ。いつ僕の旅が終わったのか、それに明確な場所はなかったと思う。でも気づけば僕は一人で、立ち止まっても語りかけてくれる友は、もういなかった。


そして僕は、そこでうずくまって、一人。気づけば僕は迷子で、それでーーー


********************************************


「ーギ!ナギ!」


誰かの声で、ハッと目を覚ます。慌てて開けた瞼に映ったのは、可愛らしい顔だった。


「ティアラ?」


「まだ寝ぼけてるの?それ以外誰だって言うの?」


久しぶりだった。こちらの世界に来た時は、どちらが夢で、どちらが現実か分からなくなって、安全なこの店から出られないほどの有様だったけど、その時の感覚が久しぶりに僕を襲っていた。

額に触れてみると、少し粘っこい汗が浮かんでいて、どうやらいい眠りについていたわけでは無さそうだ。


「びっくりしたわよ。来てみたら、店は臨時休業してるし、鍵は開けっ放しだし」


そうだ、ここは店の二階の僕の寝室だ。


「おまけに、ナギはうなされてるし」


そうだ、僕は体調を崩して、店を休んで。頭が痛い。今は何時だろう。


「ティアラは、なんでここに?学院は?」


「やっぱり寝ぼけてるのね。学院なんてもうとっくに終わってる時間よ」


もうそんな時間なのか。半日近くずっと眠っていたのか。


それを最後に、部屋に沈黙が落ちる。いつか、夕食を共にした時に感じた心地よいものではなく、純然たる気まずさをもたらすそれは、昨日の出来事を考えれば当然と言えば当然だ。


どれくらいの時間が経っただろう。先に口を開いたのは、ティアラだった。


「ねぇ、ナギ」


「なに?」


「...ごめんなさい」


彼女は、小さく俯くと、そんな謝罪をしてきた。


「ティアラは悪くないよ。ただ、僕が押し付けがましくて、それだけなんだ」


「悪いのは私よ。自信が無いから、時間が無いからって、ナギに八つ当たりして」


「いや、僕が」


「いや、私の方が」


そんな応酬が何度も続いて、お互いの息が切れたところで、どちらが先だったのだろうか、部屋に笑い声が漏れた。


「二人とも悪いってことで」


「そうね、私の方がほんのちょびっと悪いけれど」


「いや、僕の方が...ってもういいか。キリがないし」


「でもね、ナギ。昨日言ったことは、本心よ」


少し緩んだ空気を、もう一度締めるように、彼女はそう言った。


「...うん」


「私、ナギのことよく知らないわ」


「...うん」


「私は、ナギみたいに天才じゃないから。ナギに私の気持ちはわからないなんて、ひどいこと言っちゃった」


「…うん」


「でも、知ってることも、あるわ」


 ティアラは、自分の広げた手のひらを見つめると、指折り数え始めた。


「料理が上手い。でも、接客はちょっと苦手」


 窓から差し込む月光を背に、指折る彼女を見ていた。


「実は甘いものが好きだし、実は早起きが苦手」


 よく見ているものだなと思う。どっちもカッコ悪い気がして、公言してなかったから。


「普段はニコニコしてるけど、実はちょっと口が悪いし、練習の時は厳しいし」


 三つ目の指が下りたところで、彼女は僕の目を見つめた。


「でも、こんな変な女を即日雇っちゃうくらいお人好しで、ピアノが上手くて、教えるのが上手くて」


 彼女の声が震えるのがわかった。ああ、僕は彼女を泣かせてばかりだなと思う。


「ねえ、ナギ。私ね、ピアニストになりたいの。それもただのピアニストじゃなく、王都の楽団で、数えることができないくらいの人から拍手をもらえるような、そんなピアニストになりたいの。私が少しだけ、ナギのことを知ってるみたいに、私のことも知って欲しいし、私も、ナギのことが知りたいわ」


 ティアラの目からは、一筋の涙が溢れていた。でも、夢を語る彼女の目は、涙を恥じることもなく、潤んで揺らぐこともなく、はっきり僕を見ていた。

 此の期に及んで、僕は彼女の真剣さと向き合えないでいた。夢を口にした彼女の言葉に今にも耳を塞いでしまいそうだ。


 僕の中でどこまでも矛盾した感情がせめぎ合う。彼女のその夢へ行く手伝いをしてあげたいこともまぎれもない本心だ。でも、僕は未来を見ることがどうしても怖かった。


 慣れてきたつもりだった。少しずつこの世界に慣れて、いつか慣れることの怖さも忘れて生きられるのだと思っていた。

 でも違った、今までの僕は、目を背けていただけだった。膝に顔をうずめて何も見ないようにしていただけだ。


 ふと、ティアラの目から視線を逸らそうとした。怯えと逃げが混ざったような最低の理由で。

 でも、そうはならなかった。発熱のせいで少し熱された頬に、冷たい体温が重なった。ティアラの両手が僕の頬を包み込んで、目を背けることを許してくれなかった。


「ーーー逃げないで」


 彼女ははっきりと、膝に顔をうずめたままの僕の顔を上げさせたのだった。


「逃げないで、なんて、昨日逃げ出した私が言えたことじゃないかもしれない。でもね、私は今日気づいたの、私は一人じゃなかったんだって。そう、気づけたから。ナギが傍で見ていてくれるなら、もう私は絶対に逃げないわ」

 

 僕の頬を包む手が、微かに震えていることに気づいた。一体、彼女の冷たい体温にはどんな理由があるのか考えた。


「だから、ナギも逃げないで欲しい。勝手で図々しいことを言ってるのは分かってる。でも、逃げないで」


「ティアラ…」


「お願い、ナギ。私を助けて。私が夢に行く、手伝いをしてください」


 そうやって、ゆっくりと頭を下げるティアラに、言葉をすぐには紡げなかった。


「ナギが教えてくれたから。一人では出来ないことも、二人なら出来るようになるんだって、そう教えてくれたから。だから、ナギさえいてくれれば、私は絶対に…絶対にもう逃げないから」


 ティアラの言葉が、僕の思い出を揺らす。僕を救ってくれた言葉を思い出す。ああ、そうか、僕は…


********************************************


 いつからか僕の友達は、白黒の鍵盤だけだった。僕は一人で彼と向き合うしかなかった。


 僕は彼と向き合って、勝負の場で一番にならなくちゃいけなかった。それだけが僕の生きる意味だった。


 そんな時、一定周期で変わり、これで何人目かわからない新しい僕のピアノの先生がこう言った。


『確かに、一人だとコンクールには間に合わないかもね。でも私がいるよ。二人なら出来るよ』


 彼女が淹れた、苦くて酸っぱいコーヒーを飲みながら、そう言われた時、なぜか僕は泣いた。たった言葉一つで、僕は泣いた。

 先生はそんな僕の頭を優しく撫でてくれた。泣き止んでからのレッスンは凄まじく厳しかったけど、一人じゃなかったから、大丈夫だった。


 迎えたコンクール、僕は人生で初めて一位を逃した。でも、不思議と、すっきりとした気分だった。

 隣で先生が、悔しそうに泣いているのを見て、僕も結局泣いてしまったけれど、なぜか一位を取った時よりも、晴れた気持ちで会場を去ることができたのを覚えている。


 そこから僕がピアノを辞めてしまうことになるまで、僕のピアノの先生は変わることがなかった。

 僕は、ひとりぼっちじゃなくなっていた。


********************************************


 気づけば僕の目からも涙が伝っていた。ティアラが驚いたように僕を見ている。


「な、ナギ?」


「ねえ、ティアラ。僕はさ、酷い先生なんだ。君に教えるのは、自己満足でしかなくて、過去の自分を君に投影してただけなんだ」


「…うん」


「それでもさ、それでもさ、ティアラ。僕は、君に教えられてたのかな…一人じゃ出来ない事も、二人なら出来るんだって、示せてたのかな…」


 かつての先生みたいに、この子にちゃんと何かをを残せていたのだろうか。それなら、僕にもまだ、二度と諦めないと誓った目の前の少女に、関わることは、踏み込むことは許されるだろうか。


「僕は君に、ピアノを教えてもいいのかな」


「バカね、こっちから頼んでるのに。今日から改めてよろしくね、先生」


 僕たちは、そう言って、泣き笑いみたいな顔を見合わせた。またひとときの静寂があって、僕らはを話をした。

 ティアラの今までの努力と、理不尽と一人で戦った日々。その話が終わった、月が頂天に来る頃に「次はナギのことを教えてよ」と言われた。

 何かが少し吹っ切れたのだろうか。それともこの世界の人間であるティアラの奥底まで踏み込む覚悟を決めたからだろうか。僕の口はカッコ悪い本音を、少しずつではあるが、吐き出していった。


「僕はさ、遠いところから来て、ずっと不安だった。ここが自分の現実だなんて、認めたく、なかったんだ」


「遠いところ?」


「そう、本当に遠くの遠く。きっと二度と帰れないんじゃないかってくらい。僕は、帰れないことを認めたくなんてなかった。また、ひとりぼっちに戻っちゃったんだって、考えたくなかったんだよ」


「今は?」


「どうだろう、まだひとりぼっちは怖いし、慣れるまで時間は必要だろうけど。覚悟は決まったよ。」

 ティアラは僕の言葉に「本当にバカね」と呟く。その言葉に面食らった僕に微笑むと、


「もうひとりぼっちじゃないわよ。ナギが私を傍で見てくれている間。私も絶対に、ナギをひとりぼっちにしないわ。約束よ」


 そう言って、ティアラは小指を差し出してくる。どうやら、異世界にもあるらしい約束のおまじない。

 僕はそっと、彼女の細い指に自分の指を絡めると、指切りげんまんの誓いをした。


 その直後に、外の暗さを見て、随分と遅くまで話し込んでしまったことに気づいた僕は、ティアラを学院の寮まで送ろうとしたのだけれど、張り詰めていた気持ちが緩んだせいか、再び体調が悪くなり、ティアラは呆れたように帰っていった。


「また明日ね」


「うん、また明日」


 そんな些細なやりとりが、あの日のコンクール会場を去る時みたいに僕の胸中を、晴れやかにしてくれたことを、きっと僕は忘れないだろう。


 ティアラが帰ったすぐ後、明日の営業に備えて僕は眠りについた。そして、夢を見た。


 膝を抱えて座り込む僕の隣に、何も言わず先生がいてくれた。いつしか、先生の姿が消えて、鬱ぎ込む僕の顔を無理やり上げさせて、手を繋いでくれた女の子がいた。

 

 そんな温かな、夢を見た。

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