第17話 君のこと④
別にナギの店で働く前も街で遊び慣れてるなんて、そんなことはなくて。
むしろ、ピアノの練習が出来ない日は寮に引きこもってずっと机に向かっていた。
だから、いくら考え事をしながらとはいえ、行く場所の宛なんか一つもない私の足は、すぐに悲鳴をあげて、近くにあった公園のベンチに座り込むことになってしまった。
深く息を吐いて、足を擦りながら、遊具も何も無いだだっ広いだけの公園を見渡す。
仲が良さげな子供たちが意味もなく走り回ってじゃれあって、歓声をあげている。
いくら日暮れが近いとはいえ、今は真夏で、暑いだろうに、無邪気って本当にいいなと思う。
頭の中の悩みをかき消すようにそんなことを考えていた時、一陣の夏風が吹いた。
砂が舞いあがる中、私の髪も揺れて。結び目が緩かったのか、私の髪を結っていた白いリボンが飛ばされてしまった。
慌てて、ベンチから立ち上がって追いかける。あれは、実家から離れる際に、オシャレに無頓着だった私を心配して母が贈ってくれた大事なものなのだ。
舞い上がったリボンは、突風が止むとともに、ふわふわと勢いをなくして、降下し始める。落下地点を目算して、そこに歩を進めるけれど、慌てるあまり、前に立つ人影に気づけなかった。
「えっ」
「いたっ、びっくりしたぁぁ」
私は人影を押し倒す形で、倒れ込んでしまう。
あまりに突然の事で、小さな声を上げた私に次いで、悲鳴が聞こえた。
「す、すいません」
「いたた、大丈夫だよ。幸いにも君が軽やかだから、大したことは無い」
慌てて、人影かの上から飛び退くと、謝罪を述べる。
大丈夫と言われて頭を上げると、私より頭一つ分ほど高い人が困ったような顔をしていた。
「ええっと、君も何やら急いでたけど、そっちこそ大丈夫?」
「え?あ!」
突発的な出来事でリボンのことが頭から抜けてしまっていた。不安に苛まれながら、周りをキョロキョロ見渡すと私のリボンは、すぐ側の街路樹に引っかかってしまっていた。
小走りで駆け寄り、背伸びして枝に手を伸ばすが、小柄な私では手が届かない。
なんとか届かないかと、ギリギリまでつま先を伸ばすけれど、あと少し足りない。
「危なっかしいな。また転んでしまうよ?」
後ろからそんな声が響いたかと思うと、リボンが引っかかっている枝に、細い指が伸びる。
先程私がぶつかってしまった、女の人?なのかな。夏だというのに、体をローブで覆い、オマケにフードまで被っている上に、声もハスキーでその顔が中性的な雰囲気で凄まじく整っているものだから、性別がわかりづらいけれど。そんな、暫定お姉さんが、リボンを回収してくれた。
「あ、ありがとうございます」
「どういたしまして。きっと大事なものなんだろうから、風に飛ばされないようにね」
「ぶつかってしまったうえに、リボンまで。本当にありがとうございます。助かりました。その、良かったらお礼でも」
「気にする事はない...と言いたいところだけれど、せっかくだ。ご厚意に甘えるとしよう」
不注意でぶつかってさらに助けてもらったのだ。心情的にもお礼がしくて提案すると、暫定お姉さんも最初は遠慮する素振りを見せたものの、必要以上に私が気に病まないようにしてくれたのだろうか。結局、快く受け取ってくれた。
私は、近くの屋台で果実水をふたつ買うと、お姉さんにひとつを渡した。せっかくなので、私が元々座っていたベンチに戻り、並んで飲むことにする。果実水はキンキンに冷えていて、まだ蒸し暑いこの時間にはぴったりだった。
「あー、美味しい。ありがとう」
「いえ、お礼ですから」
「この格好暑くってね。ちょうどさっきも果実水を買おうと思っていたところだったんだ」
そこに私が突っ込んできたというわけか。さぞびっくりしたと思う。
「えっと、なんで暑いのに...」
「この格好かって?それはね」
お姉さんはそういうと、公園の外の一角を指差す。
「相談屋?」
「そう、私は相談屋なんだ。迷える人の悩みを聞いて、時にはアドバイスするのが仕事なのさ。この格好はそれっぽさのため」
指さした先には、相談屋と書かれた看板と簡素なテーブルと、椅子が二つ存在していた。
「年中無休、店頭不定、悩める人のところに相談屋はありますって謳い文句さ」
暫定お姉さんは「こんなか弱い女の子なら弱音も打ち明けやすいだろう?」と笑う。よかった、やっぱり女の人だった。
「ええっと...そういえばお嬢さん、お名前は?」
「あ、ティ、ティアラです。ただのティアラ」
「可愛らしい名前だね。さて、ティアラせっかくだし、これも何かの縁だ。何か悩みがあるなら相談に乗ってあげるよ?」
果実水を一気に飲み干したお姉さんは、ウィンクを一つすると、私にそんなことを言う。
見目が抜群に整っているから、ウィンクになんだか涼やかな色気があって、同じ女なのに少しドキドキしてしまう。
「相談、ですか?」
「そ、あるでしょ悩み。うら若い乙女が何もせず沈んだ顔でベンチに座ってるんだからさ」
「あ…見られて…」
今座ってるベンチから、相談屋の看板が見えると言うことは、当然向こうからも、自己嫌悪と戦っていた私の姿が見えていたわけで。
「見えてたよー。いつ相談に来てくれるか身構えるくらい暗い表情だったからさ」
お姉さんは「まあ、待ちくたびれて喉を潤しに来たら、件の本人が胸に飛び込んできたからビックリしちゃったけどね」と冗談めかす。こういう、人との距離の詰め方の上手さと、親しみやすさが彼女を相談屋たらしめているのかもしれないなと思った。
「それで?なんの悩み?」
「悩みなんて…」
「ティアラの年齢でしょ?やっぱり恋?いいね、青春だね。どんな子どんな子?」
「恋では悩んでません!」
「恋”では”ねえ」
「あっ」
語るに落ちたのに遅まきながら気づいて、慌てて口を塞ぐけれど、お姉さんはニヤニヤしている。本当に時すでに遅しといった感じだ。
「それで、本当に悩みがあるなら、言ってごらん。せっかくの縁だ。相談屋の矜持にかけて、他言したり茶化したりは絶対にしない」
「…長い話になりますよ」
お姉さんの目が、親しみやすいものから、何かを見透かすようなものに変わった。私が弱り切っているからだろうか、一度諦めを口にしてしまっただろうか。
十数年、固く閉ざしていた口は、随分と軽くなってしまっていて、私は溜まりに溜まった理不尽への文句と、自分のしてしまったことの愚かさを話した。滔々とはいかなかったけれど、ただ日が暮れるまで。
「なるほどねえ…」
私が話し終わった時、最後の言葉から少しの静寂を挟んで、お姉さんは絞り出すようにそう言った。
「まず一言だけ言えることは、ティアラ。君は、本当によく頑張ったね。それは何より誇るべきものだ」
「…………」
「でも、不幸かな、君のその努力は一つの弊害を生んでしまったように思える。それはね、その理不尽とか、どうにもならないことを早く知りすぎたのさ」
「早く、知りすぎた?」
「そうとも。普通はね、どうにもならないことを、少しずつ少しずつ飲み込んで、それを受け入れ終わって、等身大の自分で歩けるようになった時を、人は大人になったって言うんだ」
「…………」
「でも、君は夢を叶える道を選ぶ幼少期に、その事実を一旦飲み込んでしまったのさ。それと戦うと言う形でね。しかも、君は一旦、努力でその理不尽を跳ね除けた。そんなことを生涯が終わるまでにできる人間はごく少数さ。君はそんな人が一生に一度できるかと言う事柄を、その幼い身でやってのけたのさ」
「…………」
「だけど、悲しいことに君は知ってしまったね。理不尽なんてものは、一度持たざる者が跳ね除けても、平然とした顔で次が現れると言うことを。そして、さらに君は休む暇なく次のそれと戦って今に至る。君は悲しいかな、強すぎたのさ」
「私が、強い…ですか?」
「そうだ、君は周りに比べ強すぎた。当然のことさ、君の周りにいるやつらは、君みたいな苛烈な努力もせずに、そこに入れるのが当然と言う人間が大半なのだから。そして、それが君のいる場所では普通だ。誰も君の孤独に気づいてあげられなかった。それは本当に不幸なことだ」
「…………」
「君は戦って、戦って、でも人並みに傷ついてきたのさ。毎日の理不尽にね。今回のことはついに君に限界がきたのさ。その理由は、分かるかい?」
「急な予選で、時間が足りなくて台無しになっちゃったから…」
「それもあるだろう。でも、私はもう少し別の理由があると思う」
お姉さんは「ここからは推測になるけど、構わないかい」と尋ねた。私は曖昧に頷く。
「私の推測はね、多分君が弱くなれたからだと思うんだ」
「弱く、なれた…?」
「そう、話を聞くに、君は人生で初めて、ナギという人物に出会って、一人で戦わなくてもよくなったんだよ。しかも、ピアノの腕はメキメキ上がり、初めて自分の力以外で理不尽が消えたことで、君はきっと安心していたんだ」
確かに、ナギと出会ってから、私の心は随分と軽くなった。ピアノの腕は常に右肩上がりだし、先生と、練習環境を手に入れて、他の子達との明確な差が何もなくなって。
「君は、ようやく弱くあることが許されるようになっていたんだ。でも、そこに新たな理不尽が来て、遂に君は折れてしまったのさ。当然だよね、一つ前の理不尽を超えたのは君だけの力ではないのだから。そのナギという人物と二人で超えたものだ。その事実をティアラもナギという人物もお互いにわかっていなさすぎる」
「要するにだ」と前置きして、彼女は少し緩めた表情で私にこう言った。
「ティアラは、人への頼り方を知らないのさ。だからいざ、そのナギという人物に頼ろうとした時に、預ける背中の正体をあまりにも知らないことに気づいて怖くなって、結局一人でなんとかしようとしても出来なくて八方塞がりなのが今なんだよ」
「預ける背中の正体…」
「ま、これはティアラ側の話だ。向こう側の話は十全にわからないから、僕から言えることは一つだ」
眦を柔らかくしたお姉さんの目が私を射抜く。
「話をしなさい。簡単なことだ。そのために、言葉があるのだから。なんのために努力をしてきたのか、なんのためにあなたを知りたいのか、なぜ怒って、相手にどうして欲しいのか」
話がしたい。そして謝りたい。それだけは間違いない。お姉さんのおかげで、はっきりした。私の本心は、諦めたくないし、まだあの場所にいたいのだ。
勝手なことを言ってることもわかっている。勝手に八つ当たりして、恩あるナギを傷つけて。
それでもまだ、許されるだろうか。その答えを知るためにも、話がしたい。
そう決意して、手に持ったリボンで髪を結った。今度は解けないように祈りながら、ぎゅっと、力強く。
「さ、行くといい。何事も早いほうがいい」
お姉さんは私の様子を見て何かを察してくれたのか、立ち上がり、私の背をポンと叩いてそう言ってくれた。
私は、深々とお姉さんに礼をして、最後に一言だけ。
「お姉さん。お礼がしたいので、喫茶店という職場で待ってます。絶対に、そこにいますから」
「そうかい。ぜひ行くとしよう。それまでにきちんと、全てが解決しているといいね」
お姉さんがそう言って笑ったのを見て、私はもう一度頭を下げると、走り出した。もう見慣れた道に入るまで、入ってからもずっと。
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「さて、どうなるかね。どっちかっていうと厄介なのはナギって子の方だと思うから」
沈んでいく夕焼けの赤色の中、とある相談屋の独り言は、公園の些細な音に溶けていった。
その頃にはもう、彼女の姿はそこにはなかった。
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