第16話 君のこと③

 放課後の街を練り歩く。ここ数ヶ月は、自然と足が向かう場所があったのだけれど、今日からはそこに行くわけにもいかない。

 例の予選試験のせいで、学校のピアノは空いていないし、私は放課後の時間が丸々暇になってしまっていた。


 なんとなく、そのまま寮に直行するのも嫌で、こうして日暮れ前の街を目的なく歩き回る。

 けれど、屋台の宣伝文句とか、主婦の会話とか、どこからか聞こえる喧騒とか、そんなもので構成された空間がなぜか少し落ち着かない。


 もともと騒がしいのは得意じゃなかったし、静謐さを好む性格ではあったけれど、ここまで雑踏が耳に触るのはきっと、最近はずっとこの時間はどこまでも穏やかな空間の中にいたからだ。

 カップを机に置く音、食器が擦れる音、たまの些細な会話、私の名前を呼ぶ柔らかい声。

 私はあの店が好きだった。最初は打算が働いた末に、手伝うことになっただけで、無理を言った分ある程度こき使われたり、大変なこともあるだろうと身構えていた。

 けれど、蓋を開けてみれば、少し大変なのは店主の浮世離れのサポートくらいで、あとは穏やかなものだった。

 注文を取り、食事を運び、時間があけばグラスを棚に戻す。そしてたまにお客さんと話をする。

 そんな中に得難い経験なんかもあって、とてもいい場所だ。


 店長のナギも、いい人だった。いつも微笑を浮かべて、お客さんに対する態度も懇切丁寧。たまにというか、かなり常識外れな面もあるけれど、最近はなんだか何にも汚れていないような、そんな風にも感じて、もしかしたら彼の魅力の一つなのかもしれないと、そんなことを思っていた。


 でも私はそんな空間を、一時の衝動で壊してしまった。つい昨日のことだ。私は、ナギが少し目を釣り上げたのを初めて見た。

 

 自分の芯が揺らいでいるのは分かっていたと思う。予選なんて前例のないことだったから、焦って焦って、ピアノを弾く指がもつれた。

 また、努力以外の何かに負けるのかと、そう思った。


 私の実家は、この街から離れた場所にある。至って普通の平民で、小さな食堂を営んでいる。

 きっかけは些細なことだった。子供の頃の私は音楽に魅せられて、夢ができた。それゆえに、音楽を学ぶことを志した。私はそれを両親に伝えた時の両親の困ったような顔を今でも忘れない。


 単純にお金がない。それだけの話だった。私が住んでいた片田舎の町には音楽を学ぶ学校などあるはずもなく、遠くの街にある学校に通わなければならない。そして、専門知識を持つ知識人を拘束するのだから、必然的に学費は高い。それに、私に一人暮らしをさせるお金だって馬鹿にならない。我が家は、学校のある街への交通費を出すことだって簡単なことではないのだ。

 だから、音楽という芸術を学ぶ余裕のあるのは、基本的に貴族か、よほどの才能ある者だけだ。


 それでも諦めきれないと泣き喚く私に、両親は見たこともないぐらい真剣な顔をして、私に一つの道を提示してくれた。

 努力をしなさいと、そう言った。アルスター芸術学院には、特待制度がある。要するに座学さえ特別秀でていれば、なんと学費だけではなく、寮の家賃まで無料なのだという。その分ハードルはべらぼうに高かったけれど。

 

 音楽を学ぶのは数年後になるし、平民の私には遠回りするしか音楽を学ぶすべがなかったけれど、道はあるのだ。私はその日から勉強漬けの毎日を送った。

 どうやら私は努力の類が得意なようだったし、音楽を学ぶという目標さえ見据えていれば、苦ではなかった。

 町の初等部学校に通いながら、黙々と勉強した。高学年になっても、友達と遊ぶよりも、ただ勉強した。

 いつも家業も手伝わず、机に向かう私を、両親は優しく見守ってくれた。空いた時間なんかに皿洗いを手伝おうとしたら母が「いつか楽器を弾く手なのだから、荒れないようにしないと」と言って、黙々と真冬だろうと皿を洗ってくれるのだ。そう言う母の手は荒れていて、私は教科書を開きながら泣いた。


 使えるものはなんでも使った。学校の教師を質問攻めにした。頭がいい近所のお兄さんを捕まえて、教授をせがんだこともあった。

 そんな日々を数年続けて、ようやく私は特待生試験の日を迎える。両親や友達、お世話になった先生に見送られながら、私はアルスター芸術学院のある町ユグドラシル行きの馬車に乗った。


 たどり着いた賑わう街は、見たことのないものばかりで、新鮮さで溢れていたけれど、音楽を学べるかの瀬戸際だった私は緊張でそれどころじゃなかったのを覚えている。


 いざ、試験会場に赴くと、憧れていた学園は予想よりも大きく広く、豊かな場所だった。

 特待生試験を受ける人間なんかわずかで、広い教室に数人だけ集まって私は必死に問題を解いた。


 きっと数年分の執念は実ったのだと、そんな手応えと少しの不安を抱えながら試験を終えて学院から出ようとした道中にすれ違う生徒は、みんな煌びやかで、なんだか住む世界が違うと、勝手な劣等感を感じた私は足早に学園を出る。

 この子たちは、お金があって、私の数年の努力なんかなくても涼しい顔で制服に袖を通して、音楽を学べるのだと思うと無性に悲しいような、理不尽を嘆くような気持ちになった。


 そんな私に合格の通知が来たのは、寒い冬の終わりを告げるかのような少し暖かい日の朝だった。

 合格通知書を受け取ったのは母だった。朝ごはんを食べていた私に震える手で、おめでとうと、通知書を渡して抱きしめてくれた。

 厨房で野菜の皮むきをしていたお父さんが、強く強く私とお母さんを抱きしめてくれて、親子三人でわんわん泣きじゃくった。私の口からは枯れることのない両親への感謝の言葉が涙とともに溢れ出ていたと思う。

 涙と努力と両親の愛のおかげで私は、アルスター芸術学院中等部へ編入することになった。


 それから春が来て、私は両親が貯めたお金で買ってくれた制服に袖を通し、音楽を学べる期待に胸を膨らませて、ユグドラシルで一人暮らしを始めた。

 寮は清潔で、実家の私の部屋より広かったし、何より学び舎への期待感は積もり積もった分大きい。

 入学式を迎えて、貴族の子弟と同じ教室で机を並べて、何かを学ぶのだと実感した時は、努力で生まれの差を無くしたのだという誇らしさで、試験の時に感じた劣等感は消えていた。


 消えていたはずだった。でも私は痛感した。この学院での生活の中でも、生まれの差は大きいのだと。

 平民の特待生、色目で見られるのは覚悟していたし、例え貴族の子弟が私が驚くような規模の話をしていて話題についていけなくても、私が到底買えない憧れのお店のアクセサリーを自慢げに付けていても、私は音楽のためにここにいるのだと。私の心は揺らがなかった。


 でも、その音楽にも生まれの差は出るのだと気付いた時、私の中の何かにヒビが入った音が聞こえた気がした。

 私の夢はピアニストになることだ。それも、王都の楽団のピアニスト。それにはこの学院のピアノ専攻で学び、教授の箔を貰うのが一番の近道だと聞いた。

 だから私は当然ピアノ専攻に進むことを目標にしたし、同じ土俵に立てば努力で負ける気はしない。それは、この学院に入る過程で得た私の確固たる自信だった。

 それはピアノを専攻できる人数が数少ないと聞いても揺らがなかった。でも、私はある時気付いてしまった。


「あの、先生。今日の授業の部分を復習がしたいのでピアノを使いたいんですけど」


「ごめんなさいね、ティアラさん。ピアノの台数に限りがあって、毎日は使えないの。今日の予約は埋まってしまってるわ。明日、いや明後日なら使えるようにしておくわね」


 仕方ないと思った。この学院は、規模の分だけ生徒の総数が多い。いくらこの学校といえど、楽器の中でも飛び抜けて高いピアノを全員に行き渡るほど揃えられるわけがない。土俵は同じなのだから、質を高めることで妥協しよう。そう思っていた。

 私の思い違いに気付いたのは、次のピアノの実技の授業だった。みんなが明らかに私より上手い。

 ああ、そうかと思った。彼らはピアノや他の楽器も、家や他の場所で学べる境遇にあるのだと。

 演奏を終えた子が、嬉しそうに先生に教えてもらった甲斐があると笑った時、私はどことない不安に襲われた。

 私は努力してきた、でも努力する環境がなければどうすればいいのだと、唇を噛み締める。


 そんな日々が三年続いた。実技の面は明らかに他の子達と差ができてしまっていた。学院の授業で基礎は学んだけれど、応用ができていないのだから当然とも言える。

 高等部に進学してからも、相変わらずだった。とりあえず、専攻選択権の優先順位には座学や素行も関係すると聞き及んでいたから、そこだけは努力し続けた。一度も学年主席の座を譲らなかった。

 でも、私が机に向かっている間、他の子達はピアノに向かっているのかなんて考えると、私の心に貼り付けたいろんなものが少しずつ剥がれ落ちていく気がして、私はここに音楽を学びにきたんじゃないかと考えると、無性に悲しくなった。


 そんな失意の中見つけたピアノを練習できる環境があの場所だ。天啓だと思った。しかも店主はとびきりの先生だ。

 実際ナギに学んでから私のピアノの腕はメキメキ伸びた。私にも報われることがあるのだと、飛び跳ねそうだった。このままいけば、また夢に近づくことができると。


 でも、そんな私に突きつけるように。予選の通知が来た。どう考えても、私には時間が足りなかった。

 結局こうなるのかと、叫び出したくなるくらい悲しかった。結局私の努力は水泡に帰すのかと、ずっと努力というメッキで覆ってきた心が折れかかっているのを感じた。私だってまだ十六歳の少女なのだから。


 限界がきた。私は先生であるナギに八つ当たりする形で、店を飛び出した。何がわかるのかと、そう思ったのは事実だ。

 私と歳が変わらないのに、一章節、彼の見本演奏を聞いただけで私との違いがわかるくらいピアノが上手くて。ナギが、貴族だとかお金持ちだとか、そんな違いがあれば、今の私はきっと勝手に彼の上手さに納得して諦められた。

 でも私は彼に付随する何かなんて一つも知らないと気づいて、彼自身に当たるしかなかった。


 結局、平民だからとか、貴族だから仕方ないとか、肩書きにこだわって、諦念にも似たものを浮かべていた私の八つ当たりにナギを巻き込んでしまったのだ。

 私にとってはナギはただ、喫茶店とやらの店長で、だからこそ普通の彼が平然と私よりも、学校の誰よりも上手にピアノを弾くのに嫉妬して。

 誰よりも努力してきたのに、本当に上手になりたいものが実らなくて、夢さえ折れかけた私の気持ちはわからないと突き放してしまった。彼が全力で私に指導してくれていたのは、私が一番よく知っていたはずなのに。


 自己嫌悪まみれのまま、喧騒の街を歩き続ける。


 

 

 


 


 

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