第15話 君のこと②



人の気配が消えた店内で、呆然と立ち尽くす。


ティアラの言葉がずっと頭に反響し続ける。先生の真似事をしただけで、僕は彼女のことをきっと何も分かってあげられなかった。分かろうと、しなかった。

夢を聞かなくても応援してあげたかった?違う。本当はこの世界の人間に踏み込むのを怖がってただけだ。

僕に一番近い彼女だから、踏み込まれないように踏み込まなかった。なのに、先生の真似事で、自分の技術をひけらかすだけひけらかした。だからこうなった。


「先生、やっぱ僕先生みたいに上手くいかなかった」


かつての恩師を真似てみたけど、やっぱり上手くいかなかった。一人の女の子を泣かせて、僕はまた一人だ。


サーバーに入った、冷めきったコーヒーをカップに入れた。今日もティアラに出そうと準備していたものだった。酸味と苦味が随分と強い気がして、顔をしかめる。

でも、舐めるように少しずつ、少しずつ僕はそれを飲み干していった。今はそうしたい気分だった。 そして一つずつティアラに言われた言葉と溝を確認していった。


「天才、か」


 特に、最後にティアラに言われた言葉は思いもよらないものだった。僕はティアラが言っていたみたいに、天才なんかじゃない。ただ、とある目的に固執して、無理をしてピアノの技術を先取りしただけだ。

 要するに、僕の技術は十七歳にしては突出しているが、ここで頭打ちだ。だから元の世界ではどんどん追い抜かれていったし、そんな大したものじゃない。


「ただなあ…」


 問題は、元の世界ではそんなもんな僕でも、この世界では突出しすぎているのだ。

教育レベルの問題なのか、歴史が浅いのか。おそらく両方だろうけど。音楽とは積み重ねだ。たった一人の天才が生み出した身が震えるような作品を、脈々と受け継いだ僕らが、再現する。そして、天才の血を輸血された僕らは少しだけ成長して、音楽は一歩ずつ階段を上がっていく、それの繰り返しだ。


恐らく、その積み重ねがまだ浅いのだこの世界は。だから、ベートーヴェンやバッハ、モーツァルトにシューベルトみたいな天才の曲を身体に染み込ませた僕は、この時代の随分先の音楽感を持って演奏できる。その差は、僕とこの世界の他の演奏家にとってきっと致命的な差だ。

 その世界の埋めがたい差で、どうやら僕は、ティアラから見れば天から才を受けた側の人間に見えたらしい。


「でも、ティアラから言わせれば話してないから見たものが全てか。僕にはティアラが上手くいかないことなんて分からないって思われたのか」


 僕の自分勝手な拒否反応からくるコミュニケーション不足のせいでこうなったんだと、遅まきながら気づく。

 自分の愚かさにため息をひとつ。気づけばカップは空になっていた。もう夜は更けていて、ご飯もろくに食べずベッドに潜り込んだ。

でも、コーヒーのせいで眠れずに、グルグルグルグル、何度も答えの出ない後悔を考え続けて、気づけば夢を見ていた。


『コンクールまであと二週間だよ。なのに、全然ダメ』


『僕が一番よくわかってるよ、先生』


『分かりすぎてるんだよ、そして、よくない分かり方』


『先生の言うことは相変わらずよく分からない』


『焦っても意味ないでしょって話。無理な話でもあるけどね』


『でも、僕は一位に...』


『ナギ君の事情は分かってるつもりだけど、それが焦りを生むなら逆効果。はい、ペダルから足を離して。コーヒーを淹れてあげよう』


『先生が淹れるの酸っぱいからやだよ』


『今日は大丈夫...なはず!』


『ブレンド冒険せずに市販のにしてよ...』


過去の自分を、今の僕が見ていた。必死にピアノを弾いていた頃の記憶。そこには懐かしい顔と、酸っぱすぎるコーヒーがあった。


「先生、僕どうしたらいいんでしょうね」


酸味に顔を顰める僕に笑っている先生に、意味などないと分かっていながら呟く。

 すると、過去の僕の笑顔が固まって、在りし日の先生がこちらを見ていた。


「先生…?」


「久しぶり、ナギ君」


 先生はそう言うと、こっちに来いと手招きをした。恐る恐る近寄ると、ぺしりと頭を叩かれた。


「上手くいってないみたいね」


「先生みたいにはなれなかったみたいです」


「当たり前でしょう。あれは私とナギ君だから上手くいったの。あなたが教えてるのは別の子だし、教えているのはナギ君。そこを全くわかってないんだから」


 先生はため息を吐きながら、酸っぱいはずのコーヒーを飲み干した。


「今度は何を怖がってるの?ナギ君」


「何に怖がってるんでしょう」


「全く違う常識に慣れること?世界で一人だと認めてしまうこと?」


 先生は、普段は温和な表情を、レッスンの最中みたいに怜悧なものに変えると、僕の目を見て、


「それとも、もう私に会えないこと?」


 そう言った。


「ちょっと、違います。先生を、忘れることですかね」


「忘れるの?」


「ここを完璧に現実だと認めちゃったら、生きるのに必死になっちゃうんですよ。そんな中で、すり減っていくのが怖いんです」


「だから私の真似をして、忘れないようにしたの?あの子に自分を重ねて、自分に私を重ねて?」


「そうかもしれません。結局僕はティアラも利用してたんですよ」


「なら、それもきちんと話しなさい」


 先生は決して目をそらさずに、テーブルで顔をしかめる過去の僕を指差す。


「君も、彼女みたいに結果だけ見て焦っていたでしょう?その時、このテーブルで私がなんて言ったか忘れたの?」


「…覚えてます」


「それならわざわざ夢に出てきた甲斐があったわ。でもね、ナギ君、私はあなたの事情も目標も全部知ってた。あなたの口から聞いていたからこそ、あの言葉を言えたのよ」


 「何が足りないか、もうわかるわよね?」と彼女は怜悧さを崩した穏やかな微笑みでそう問うた。

 僕は、まだ答えは出ていないけれど、先生が何を言っているのかはわかったから、曖昧に頷いた。


「これから、あなたたちがどう進んでいくのまでは私には分からないわ。だから私の真似じゃなく、私の生徒としてのあなたの言葉を贈ってあげなさい」


 そんな言葉が耳に届いた時、視界が歪む。意識が覚醒していくんだと分かった。

 自分の愚かさを突きつけられる明晰夢が消えていく。自分の愚かさで刺されても、夢だと知っていても、先生に会えたのだけは嬉しかった。


 いつもの自室で目が覚めた。でも、夢の中の出来事ははっきりと覚えていた。眠りにつく前と同じで、頭はぐるぐる悩んだままで、寝汗で体はぐっしょりと濡れていた。

 時計を見ると、どうやら寝すぎていたらしい。慌ててベッドから起き上がる。店の準備をしなければならない。

 でも、立ち上がった瞬間、頭の中が揺れたみたいに、平衡感覚が失われて、僕は床に倒れこむ。


 痛みで寝惚けた頭が覚醒して、ようやく気づく。


「(寒気と…あと、体の節々が痛い)」


 どうやら、体調を崩してしまったらしい。寝汗の量を見るに熱も相当あるように思えた。

 這う這うの体で、ベッドに捕まり、なんとか起き上がると、厨房まで降りて一杯水を飲んだ。


 どうやら今日は営業できそうにないなと、そんなことを思いながら、僕は自室に戻ってもう一度深い深い眠りについた。

 ぐるぐると、ティアラとどう向き合うべきか自分の答えを見つけるために、頭だけは回して、さまよってさまよって。


 どの位時間が経っただろうか。ぼうっとした感覚の隅っこに、聞き慣れた声が聞こえたのは。

 

「ーギ!ナギ!」


 ああ、何かを揺さぶる、声が聞こえる。







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