第14話 君のこと①

 季節は夏本番。僕が異世界にやってきてから四ヶ月ほどがたっただろうか。今日も窓から差し込む陽光は殺人的で、汗だくで避暑地がわりに僕の店に突発的に入ってくる人が増えたおかげで、いつもよりお客さんが多かった気がする。


 そんなある夏の夜のことだ。


「違う。スタッカートに躍動感がない。普通に弾いてるところとの差異が目立たない」


 僕は今日もティアラと、ピアノのレッスンをしていた。学院はもうすぐ夏休みに入る。

 夏休みも練習意欲に燃えていたティアラだが、今日はミスタッチと、強弱の荒さが目立つ。

 

「分かってる、分かってるから…」


 僕も、彼女の荒さの理由はわかっていた。それは、ほんの数日前に学院から通達された事柄に起因する。


「選考会の予選をやる?」


「そう、新学期の初めにするらしいわ」


 彼女は、深くため息をつきながら、一枚の紙を僕に渡してきた。


 そこに書かれていたことを要約するとこうだ。学期末の進路希望調査で、例年よりピアノ専攻希望が多いため、今年の選考会に予選を設ける。

 予選は新学期の初めに行い、今まで選考会用に配布していた課題曲を、予選用とし、演奏してもらう。

 予選突破人数は十五人。予選突破者には本選用課題曲の楽譜を渡す。夏休みに練習頑張ってくれ。ということらしい。


「これは…」


「酷いでしょ?ゆっくり練習してた子たちは、今頃大慌てよ」


「予選突破人数、十五人って書いてあるけど、希望者何人くらいだったの?」


「百六十七人。音楽科が一学年四百人だから驚異的な人数ね。例年は百人足らずって話だったから」


 単純計算で予選で一割まで削るつもりなのかと、内心驚愕する。しかも急だ。ティアラが不満顔をするのもわかる。

 そして、僕も少々困ったことになったなと思っていた。


「今の曲を夏休み終わりまでに仕上げないといけないのか…計画が台無しだね」


 正直に言って、ティアラにはまだ下地がない。だから僕も少しずつに曲を区切って、部分部分の完成度を高めて、冬までに曲全体を完璧にするつもりだった。

 つまりまだ、ティアラは曲を通しで弾くどころか、全体の三分の一がせいぜいと言った状況なのだ。

 それを夏休みの間だけで仕上げて発表するとなると、かなり厳しいものがある。


「とにかく、今日からちょっと練習の方法を変えなきゃいけないけど、いけそう?」


「うん…大丈夫」


 ティアラは、いつもの気丈さを表面上は保っているように見えたけれど、やっぱりその声は沈んでいるような気がした。

 やはり平静ではなかったのだなと僕が理解したのは、彼女がピアノに向かい始めてからすぐだ。


「ッツ…!」


 耳に違和感が届く。明らかなミスタッチ。同じところをミスするのは、もう三回目だ。


「どうしたのティアラ、昨日は弾けてたのに」


「…ごめんなさい。ちょっと集中できてないみたい。疲れてるのかも」


「謝ることはない、ちょっと一旦休憩にしようか。コーヒーを淹れるよ」


 無理をしたような笑顔で、謝るティアラを見かねて、一旦休憩を取ることにした。僕がコーヒーを淹れている間も、小さくピアノの音が聞こえてきたけれど、やはりその音はどこか、ティアラらしくない音だった。

 結局その日は、休憩の後も彼女の調子は戻らず、そのまま練習はおしまいになった。その次の日も、またその次の日も。


 そして、今日も。連日そうだったように、昨日指摘したところは弾けている。でも、弾けていたはずの別の場所で何回もミスをしてしまうのだった。

 ピアノの音が止まる。また同じところでつっかえたのだ。


「…もう一度」


 肩を落とすティアラの横顔を見ながら、なんとかそれだけを口から絞り出す。これまでなら、小さく息を吐き出すと、すぐもう一度鍵盤に向かっていった手が、今は膝の上でぎゅっと固く握られて、動かない。


「…ティアラ?」


 僕が名前を呼んでも、その口は真一文字に結ばれたままで。ただ、店の外からは、街の雑音だけが聞こえてくる。


「もう…無理よ」


 そんなざわめきの中に、小さくティアラのつぶやきが混じった。


「え?」


「無理だって…無理だって言ったの!」


 激発は突然だった。ティアラは声を荒げて僕に諦めの言葉をぶつけた。突然のことと、見たことのない彼女の泣き顔に、僕の思考と息が止まる。


「む、無理って…」


 なんとか僕がそれだけ喉奥から引っ張り出すと、さっきの昂りからは一転してティアラは枯れたような小さな声で「そのままの意味よ」とだけ小さく零す。


「予選って、あと一ヶ月後よ?間に合うわけない。まだ通しで弾くことすらできないのに」


「そんなこと…」


「そんなことあるのよ!私が一番よくわかってる!」


 そんなことないのだと口に出そうとした僕の言葉を、彼女は再び荒げた声で遮って否定した。

 彼女の荒い息遣いと、何かを堪えるかのような瞳を前に、僕は何も言えない。


「確かに、ナギに教えてもらって徐々に上手くなったと、自分でも思う。でもね、それでも、まだ学年で真ん中より下くらいなのよ?それを後一ヶ月で上位十五位に?子供でもわかる。そんなの無理よ」


「…確かに、厳しいかもしれない。でも、やってみなきゃわからない」


 心の中では僕もわかっていた。でも、僕は先生だから、そんなこと言えなかった。だからだろうか。彼女に向けてなんとか絞り出した言葉は、借り物みたいで、薄っぺらい。

 僕のそんな言葉に、彼女はどこか諦めたように笑って「分かるわよ」と言った。



「でも、ティアラは、夢があるって。それを叶えるために、何かを言い訳にしたくないって、そう言ったじゃないか!なら、最後まで…」


 彼女の諦めた顔に、僕は彼女がこの店にやって来た時に言った言葉を思い出していた。

 

『自分の夢に行くのに、自分の生まれとか、練習不足を言い訳にしたくないわ』


 僕はそう言った彼女の目を覚えている。それが僕たちの始まりだったはずで。だから、その出発地点を思い出して欲しくて。


「…も…い…クセに」


「え?」


「何も知らないくせに勝手なこと言わないで!」


 けれど、ティアラが発されたのは、思いもよらない言葉で。前提を否定された気がして、僕も気が立っていたのだろう。自然と声は硬くなって、口から飛び出していた。

 僕は彼女の夢を詳しくは聞いていなかった。なんとなくピアノに関することなんだろうけど、その中身は聞いていなかった。聞かなくても、手助けをしてあげたいと、そう思っていた。


「そりゃ知らないよ。教えられてないから」


 僕の見慣れない怒気を含んだ言葉にティアラは少し驚いた顔をした。そして、時間をかけて僕の言葉を咀嚼して、こう言った。


「そうね、教えてないからわからない。当然ね」


 独白みたいに呟いたティアラは「でもね」と続ける。


「ナギも、そうでしょ?私ナギのこと、何も知らないわ」


 ガツンと頭を殴られたみたいだった。それは、ティアラの言ってることが正しくて、僕の負い目でもあったから。


「自分の胸襟を開いてくれない人に夢を語るなんて、そんなのできない」


 二の句を継げない僕に、ティアラが背を向けた。足音が、どんどん遠ざかってドアベルと一緒に、


「私だって言い訳なんてしたくないし諦めたくない。でも私は、ナギみたいな天才とは違うの」


 そんな声が聞こえた。再び店内には静寂が訪れて、また街からはざわめきが漏れ出して来た。

 

「言えるもんなら、言ってるさ…」


 僕のそんなつぶやきも、夏の夜に、溶け出していった。


*****************************************


 続きます。ナギくんはこの世界に来てからのことしか話せないので、どうしても秘密主義というか、心をいまいち開いてくれないように見えてしまうのです。唯一、お客さんではなく、生徒兼従業員という立場でそばにいるティアラには。

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