〈零〉の実現

〈現世は終わりを迎えた。けれど、続きがあることを彼は知っている〉


〈続きがあることを、ヤハタは知っている〉


 人間の死には種類がある。

 ひとつは肉体からの解放を意味するものであり、ひとつは魂の消滅を意味する。

 前者を経ることで後者に至る。換言すれば、肉体から解放されることなく魂が消滅することはなく、アリスがそうであったように、ドクガやデューイ、天界に住まい、神の信徒である全ての者がそうであるように魂のみで構成される〈生〉も確かに存在する。

 それでは、前提としてそう掲げた上で、ヤハタ・エインズワースの死はどちらか。

 デューイ・マルカルの復讐劇はヤハタの殺害には至らなかった。後にも先にも、ヤハタに訪れた死は「ドクガ・ハインリッヒによる誅伐」のみだった。故に、一度きりという人生観をひっくり返す因果律の大暴落、〈終わりの続き〉がヤハタには適用された。


 途切れたはずの意識が再燃する。熱い焔を絶やすなと、囁きが聞こえる。心身の基盤が作り変えられていく感覚は悍ましく、死とは、確かに忌避すべきものだと認識する。

 初めに暗闇が反転した。視神経を乱暴に痛めつけようとする光の世界だった。ハクモクレンの花よりも白く、太陽の輝きにも勝る眩さに満たされた世界の中、ヤハタはボナパトの影を見る。特徴的な道化服のシルエット、神とは思えず、けれど世界の中心に座している少女。

「……すまない」

 思わず謝罪がこぼれる。ヤハタはボナパトから視線を逸らし、嘆息を吐き出した。

「負けちまった。本音を吐けば、俺はアンタが嫌いだ。アンタの定めた摂理が嫌いだ」

 影が揺らめく。ボナパトは僅かに肩を落としたようだった。

「気を悪くしないでくれ。嫌っている相手の、疎ましい摂理に縋ろうとする俺の言うことだ。大目に見てくれ。それに――……いや、これは蛇足だ。続きをするとしよう。生者と死者としてではなく、死者と死者として。魂の消滅を天秤にかけて」

 全身を痺れが伝う。肌は粟立ち、熱い衝動が心臓を揺らす。

 視界が開き、世界は精彩を取り戻す。

 視界が持ち上がる。胸から大剣が抜け落ち、それで閊えが取れたからか、泣くなと言葉が滑り落ちた。アリスが泣いていることが分かっていたわけではない。それは希望的観測だ。

 すなわち、自分が死んだならアリスは泣いてくれるだろうと。

 そして、その通りであったことに、彼は筆舌に尽くし難い歓喜を懐いた。

(忘れられようとも、俺はアリスのひとかけらになれていたのだ)

 ヤハタは唇の端に乾いた笑みを浮かべ、アリスを見つめた。

「アリス。まだ、お前を一人にはしない」

 一度はアリスを失ったからこそ、一人にされる悲しみを、その苦しみをヤハタは知っている。それは心を虚ろにさせる影だった。そんなものを、娘に背負わせたくはなかった。

 負傷したままの足を引きずり、ヤハタはドクガへと歩み寄る。戦闘の最中では見られなかった狼狽を、常に優位に立ち続けた騎士は浮かべていた。

「生き返るとは思っていなかった」

「そうだな、生き返れるとは思わなかったよ」

「現世に生まれ、現世で死ぬからこそ復活は訪れるはずだ。それが摂理だと、俺は見做していた。貴様が生き返ることなど起こり得なかった」

「だから、アンタは死体を殺さなかったのか」

 少しばかりの沈黙を挟み、ドクガは首を振る。前髪が揺れ、騎士の瞳を覆い隠した。

「戦士の亡骸を辱めることは、誰であっても許されない。それだけだ」

 ドクガはヤハタを一瞥する。失われた右腕、負傷した左足、胸に空けられた孔。

 死因が死後の体にまで影響を及ぼすようなエラーを神は許されない。

「摂理から外れた故の結果か。貴様の復活は不完全だ。死滅した肉体を魂が操る異常――腐りゆくだけの肉体に魂が係留された異質――生と死の混在こそが貴様だ」

 悍ましき怪物だ、とドクガは唾棄した。

 肉体と魂から構成される生者、魂から構成される霊体として存在する死者、ヤハタはそのどちらでもない。すでに肉体は死んでいる。更新されることは決してなく、時が経つに任せ、崩壊していく定めにある。いずれ朽ち果てる肉体には、しかし、霊体になり損なった魂が宿り、動くはずのない肉体を動かしている。

「怪物である貴様が身命を捧げたとして、娘は貴様を愛してくれると思うか?」

「愛されたいから助けるんじゃない。俺がアリスを愛したいから助けるんだ」

 応えを受け、ドクガは黙した。彼の胸中は熱く唸るような憂いに満たされていた。

(人がその友のために自らの命を捨てること、これよりも大きな愛はない。ヤハタ・エインズワース、それができる存在を、そうなろうとする人間と、よもや対峙することになるとは)

 胸中の迷いは捨て置き、ドクガは走り出した。

 ヤハタを認めたとしても、彼に敬意を抱いたとしても為すべきことに変わりはない。

(貴様を殺す不名誉、誉れ高き魂を消滅させる罪は、我が手中に収めさせる)

 迫り来る騎士を見据え、すっかり等温に染まってしまった魔石を胸元から取り出す。翡翠はすでに輝きを失っていた。

 上澄みだと告げられた。貴様が希望を託したものは魔法の紛い物だと断じられた。

 それはヤハタ・エインズワースが生きていたから。

 魔法の適合者でないにもかかわらず着手したため。


 それでは、魔法を発現するための条件とは?


「これはもういらない」

 魔石のペンダントを引っ張る。チェーンは繊細な音を立てながらぷつりと切れる。

 ふと、ヴァローナの告白を思い出す。

《人にはできないことができることに興奮した》

 確かにそうだ、と得心する。何百年も先の未来であれば実現するかもしれないが、現在の人間では決して手にすることのできない異能、空想を馳せることでしか得られない高揚感をこの胸に宿したのだ。魂は焦がれる。己が有象無象とは切り離された存在のような気がして、心が尊大になっていく。同時に恐ろしくなった。それもまた、ヴァローナと同じように。

 人間であり続けるために必要なブレーキが今にも外れてしまいそうで。

 それは、デューイ・マルカルのように魔法に溺れてしまうのではないかという怖れだ。己の体内に宿った魔法を噛み締めるほど、自分も溺れてしまうのではないかと恐ろしくなる。誇張するわけではない。事実をそのまま並べ立てたとして、ヤハタの魔法は反則だった。ドクガの〈先見〉が矮小に感じられるほどに逸脱していた。

 道を踏み外さない自信はどこにあるだろうか。

 己を見失わない保証はどこで得られるだろうか。

 ドクガを中心に映した瞳が明滅する。魔法発動の証が宿ろうとしていた。

 そうはさせないとでも言わんばかりにドクガはヤハタに詰め寄る。

 掌底がヤハタの胸部、鳩尾、下腹部へと続け様に沈められ、彼がよろめいた一瞬を縫い、ドクガは大剣を拾い上げた。ヤハタの瞳の輝きはまだ弱い。彼の魔法の真髄がどれほどのものかは分からないが、それが脅威を振るう前に魂を消滅させればいい。

 両手で柄を握り締め、剣の形を模した鉄塊とでも言うべき大剣を振るう。厖大なエネルギーの塊は貪欲なまでにヤハタの首へと向かう。ヤハタは動かず、銀鏡の刃が首を斬り落とそうとした刹那、大剣は止められた。

 訝しみ、見れば、刃に影のように平べったい鞭が巻き付けられていた。鞭の出所へと目を走らせる。その先にいたのはアリスだった。少女の左腕は鞭となり、大地に接する全ての部位から鋭いピックが突き出され、突き立てられていた。それこそ上体を捩じ切られそうになりながら、アリスは懇願するようにドクガを見つめ、桜色の唇を動かした。

「おとうさん、いじめ、ないで」

 頬を叩かれたような衝撃を覚え、大剣を握る手が僅かに緩む。

 そして、ドクガはヤハタの嗄れた笑声を耳にした。

「……何がおかしい」

「笑いたくもなるだろう、娘に迷いを晴らされたんだ」

 ヤハタは左手を持ち上げ、素手で大剣の刀身を掴んだ。

 指の皮が切られ、鮮血が細い帯となって刀身を伝う。

「この魔法ちからは誰かを助けるために存在するんだ」

 そこで、ドクガはヤハタの瞳を見た。弱々しかった瞳の輝きは、鮮烈に迸っていた。

〈加速〉、その真髄の発露。

 ドクガにできることは何もなく、ただ、彼は未来を奪われた。


 一秒を十秒に、一分を一時間に。

 時間を磨り潰し、切り刻む〈加速〉がヤハタの魔法のはずだった。

 それが上澄みでしかないことは、すでにドクガによって言及されている。真髄に到達することのない不完全な代物であると。

 人間の定めた時間の単位の中に存在する、それ自体は有限であるものの無尽蔵に切り刻むことのできる時間の流れ。一瞬と呼ぶことも相応しくない、あまりにも極小となるまで細切れにした先に待ち受けるもの、それこそが加速の真髄――すなわち〈零〉の実現だ。

 決して時が流れることのない静止した世界、未来俯瞰を超越する〈未来強奪〉。

 ドクガの待ち望んだ、退屈を打ち破る魔法。

「どれほどアンタが先を見通したところで、肝心の未来が訪れなければ無意味だろう」

 ドクガからの応えはない。この言葉が彼の耳に届くまで、どれほどの時を要するのか。あるいは、もはや届くことはないのかもしれない。ある意味でヤハタは世界から隔絶されたのだ。

 左足を引きずりながらヤハタはドクガに背を向ける。引き返した先にはウィンチェスターが鎮座していた。拾い上げ、煤を払い、トリガーを引く。カチン、と撃鉄が下りた。

(よかった、壊れていない)

 ヤハタはウィンチェスターからマガジンを抜き、腰のストックから取り出した新たなものを取り付ける。マガジンに収められた弾丸はそれまでの真鍮色ではなく、沸き立つ血潮の色をしていた。神から預けられた弾丸。あなたが優位に立てたならば、トドメの一撃はこれを使って欲しい。民衆を、臣下を、この青天の下に生きる全ての人々を愛する神の願い。

「鎧を脱いだのは、失策だったな」

 銃口を向ける。赤髪の騎士にはそれまでの俊敏さはいささかも認められず、心臓を捉えられているというのに、気味が悪いほどに動く気配はなかった。

 これが零、未来を強奪されるということ。

 トリガーは引かれた。静止した世界に響く銃声、未来は未だ強奪されたまま。

 叛逆者は前を向いた。

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