愛しい我が娘
喉が渇くような喪失感に襲われ、アリスは目を覚ました。荒涼とした岩だらけの世界を見渡し、己の足で立ち上がると、どこに向かえばよいのかも分からないまま歩き出した。
百メートルほど進むと人影が見えた。大きな影で、逆光を受けているものの濃厚な赤髪の持ち主であることが分かる。そして、もうひとつの影、胸に大剣を立てられた人間を認めた。
「…………っ、ぁ」呼吸とともに声が詰まった。掻き撫でられるような感覚に胸を押さえる。
その人間には見覚えがあった。なぜか、見覚えがあった。そしてまた、その人間がもう死んでいることを理解して、叫び出したいような、泣き出したいような衝動に襲われた。
赤髪の男がアリスを振り返った。憐憫とも、懺悔とも取れる表情を複雑に浮かべ、
「怨むがいい、貴様にはその権利がある」
男に告げられた言葉の意味を理解できず、アリスは首を傾げる。
どうしてそんなことを言うのか。どうして私を見て言うのか。そして何よりも、どうしてそこに人間の死が鎮座しているのか、アリスには理解できなかった。
大剣の柄から手を離し、赤髪の男はアリスへと歩み寄る。
「罵り、誹るがいい。貴様の父を殺したのは俺だ」断罪と非難を求めるような、清々しさとは相反して、いっそのこと卑怯な言葉を男は少女に告げる。
「ころ、した? ちち……おとう、さん。……おとうさん、しんだ?」退行した知力と言葉を並べ立て、少女は父親の死を認識しようとする。その光景もまた残酷だった。
「あぁ、貴様の父は死んだ。もういない」
「しんだ……いない。おとうさん、いない」
アリスはぐるぐると目を回し、頭に手をあてがって蹲る。それからドクガを見上げ、
「もう、あえないの?」
また会えると告げられることを望むような声音で、父を殺した男に訊ねた。
慈悲をかけるべきだっただろう。でまかせだとしても、すぐに破綻する嘘だとしても、慰めを与えるために言葉を弄するべきだった。恐らくそれが正しい選択で、けれど、ドクガに嘘は吐けなかった。偽証を立ててはならない、それが神の定めた摂理なのだから。
たとえその嘘が誰かを傷付けるためではなく、慰めを与えるための嘘だとしても。
「死んだ人間とは、二度と会えない」
空白が生じた。曖昧でいて、そして覆されることのない喪失がカタチを得る。
アリスは目を瞠り、金糸のような長い睫毛の隙間から震える瞳を覗かせる。微かに開かれた唇からは、吐息とも嗚咽とも聞き取れる音が溢れていた。
「…………いや……」
大粒の涙がアリスの頬を伝う。
倒れ伏した彼の、死んだと告げられた「父親」の泣き出しそうな顔が印象的だった。ずっと頭の片隅に残っていた。ただただ白く、どこまでも新しく、何も残されていない記憶の中でアリスは目覚めた。自分が「アリス」であることも分からない中、自分のことを「アリス」と呼び、父親だと名乗る黒髪の男に出会った。
男の名は、ヤハタ・エインズワースと言った。
父親だと告げられ、憶えていないかと訊ねられ、知らないと否定した。
とても、悲しそうな顔をされた。
私はこの人を傷付けてしまったのだと、遠巻きのように感じた。
名前も、関係も憶えていなかった。
けれど、アリスを見て、アリスのことを思い、ヤハタは心を崩した。記憶の欠落を補填することはできなかったけれど、そんなヤハタの姿から、少女はひとつの感情を読み取った。
(あぁ、ヤハタは私のことを愛してくれている)
それだけでアリスはヤハタを愛せた。娘として、父親へと愛情を向けた。
だからこそ、ヤハタの死は「知らない人の死」ではなく「愛する人との離別」だった。
心は飢え渇き、胸が締め付けられる。泣くことが相応しいとは思えなかったが、睫毛を涙で濡らしたまま、アリスは縋るように名前を呼ぶ。
「ヤハタ……いや、ヤハタ……」
叫ぶことで世界は巻き戻ると信じるかのように。
叫び、願うことで神様が聞き届けてくれると信じるかのように。少女は願う。父親の亡骸を見つめながら、手をもがくように泳がせた。
「ひとりに、しないで」
すすり泣く自分の声だけが聞こえる。耳が痛くなるほどの静寂と哀切の中、ふと「泣くな」と声が聞こえた。アリスは小さく肩を震わせ、顔を上げる。
逆巻く赤髪の男が告げたのだろうか。いいえ、違う。彼ではない。
ドクガはアリスを見ておらず、彼の目線は少女の背後へと向けられていた。
その先には、亡骸があった。亡骸しか、なかったはずなのに。
アリスは振り返る。涙で滲む世界に佇む、ひとつの影。背丈は高く、豹のように引き締まった体躯。嘘だ/呻くようにドクガは言い、胸を躍らせながらアリスが言った。
「泣くな、アリス。もう一人になんてしない。俺は寄り添うと、今度こそアリスの手を離さないと〈神〉に誓った。だから、泣かないでくれ。――
右腕を失い、左足を負傷し、胸と心臓を貫かれた男――そこには、死んだはずの人間の姿があった。男は息を吸い、その〈呼吸〉は形だけのもので肺が膨らまないことを自覚し、己がすでに死んでいることを意識しながら、アリスへと慈雨のような眼差しを注いだ。
「俺は、アリスの父親だからな」
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