生者であること

 ボナパトと別れてから一時間程が過ぎた。長く続いていた赤土の荒野は途切れ、峻険な峡谷地帯へと差しかかる。不思議なことに、その峡谷は在り方が真逆だった。峡谷とは、水や風の流れによって大地が削られることで形成される自然の産物だ。エントロピーが示すように、水は最も低い場所を流れるのだから、峡谷はそれまでの大地より低くなるように生じるはずだ。

 だが、ヤハタが進んできた荒野はなだらかに続くままで一向に降ろうとはせず、高さ三百メートルにも及ぶだろう崖が平坦な大地の上に置かれている。まるで巨大な岩山の山頂から尾根までを削り取ったかのようだった。空を駆けていたはずなのに、気付けば両脇を断崖で挟まれていた。

 気が遠くなるほどの距離を駆けてきた。それでもまだ聖別の泉は見えない。世界の果てと神は言った。天界の最北端に、泉はあると。〈神威の車輪〉を走らせているためか、揺らめく幻想ヴィジョンが脳裏に浮かぶ。最果ての海を求めた覇王は、旅路の果てに至らなかった事実を思い出す。

 英霊が辿った道筋と、己の踏み締めようとする道途が重なり合う。

 まやかしだと知りながら、辿り着けないのではないかと不安に駆られる。

 進む先を見据える。両側に聳え立つ岩壁と先々まで見通すことはできない曲がりくねった渓谷の底。閉塞感が己を揺らがせているのだろうか。張り詰めさせた息を逃がすように襟首を緩め、ヤハタは戦車を上らせた。

 峡谷の頂へ。断崖絶壁の最上部、吹き荒ぶ風で均されたのか道のように形成された岩盤へと接地させ、徐々に減速していく。鉄製車輪が岩肌を削る音が響く。揺れは激しく、ヤハタは娘を抱き上げた。

(こんなに揺れてるというのに、よく眠ってる)

 その寝顔は微笑ましくも、それは眠りが深いというより衰弱の裏返しのようだった。

 実年齢は十二歳だが、今のアリスは随分と幼く見える。その言葉遣いはたどたどしく、目を合わせることを怖れ、虚ろで静か。とてもちぐはぐだ。妻と共に別れたときの年相応の姿、ヴァローナとして再会したときの不相応に大人びた姿、本来のアリスとして再会したときのあまりにも未熟な姿。どれが本当のアリスなのか分からなくなる。

 目を逸らすように、ヤハタは前を向いた。戦車はすでに惰性で走っているに等しく、周囲の風景の詳細を認められるようにまでなっていた。

 ふと、奇妙な音が耳を打つ。蹄鉄と岩が打ち合わされる、硬質な音。

 どこから聞こえるのだろうかと音のする方角を探り、けれど見当は付かない。

 左手は、二百メートル下まで足場さえもない断崖。右手には、ここよりも僅かに高く聳える岩壁。前を睨み、背後を窺ったが何も見えない。影さえも見えず、ただ蹄の音だけが響く。

 訝しみながら戦車を進ませる。蹄の響きは次第に増していき、突如として視界が開けた。それまで右手に続いていた岩壁が途切れたために。

 同時に、ヤハタの眼には赤錆びた甲冑の騎士が映された。

 男の姿を、ヤハタは憶えている。

「見つけたぞ、ヤハタ・エインズワース」

 追い付かれた。危機感が鎌首をもたげ、ヤハタの胸に深々と突き刺さる。

「進め!」背筋を伝った嫌な汗を感じ取り、手綱を振るった。逃れるために。

「止まれ、貴様の罪は確定した。おとなしく我等が軍門に降れ」

 当然ながら、従うつもりなどなかった。この騎士に屈することはアリスの未来を擲つことを意味する。そこに己の未来を擲つことが含まれていることには気付かないまま、ヤハタは戦車を加速させる。流石は神獣と謳われるだけのこと、二頭の牡牛は瞬くうちに最高速度へと達したが、ドクガを振り払うことはできない。赤銅の騎士が跨った駿馬も、違うことなく神獣として列挙される一柱なのだ。

 振り切れない。岩盤を削り、砂塵を巻き上げて戦車は奔走するが、ドクガは間断なく真横につけてくる。ヤハタは最高速度で、無我夢中で駆けている。暴走していると表してもよいほどに。それなのに、ユニコーンを操る騎士は涼しげな顔を保っていた。

 不意に、騎士と瞳が交錯する。ドクガは冷めた風情のまま、腰の剣を抜き払った。詰め寄られる。余すところ、僅か。大剣の間合いに入る寸前で、ヤハタは手綱から手を離した。肩に提げていたウィンチェスターの銃口が旋転し、ドクガの眉間へと向けられる。躊躇う、などと悠長な選択肢はなかった。逡巡は介在せず、引き鉄は絞られた。

 硝煙と銃弾が同時に射出される。硝煙は風圧に抗えず掻き消され、銃弾は音に迫る速度で中空を駆ける。間違いなく着弾すると、優秀な狙撃手は予想した。

 だが、赤銅の騎士はヤハタがそうすると分かっていたかのように、銃撃と同時に背を折り曲げた。銃弾は何にも当たらず、背後へと吸い込まれた。片手では排莢も装填もできない。迫り来るドクガに対し、ヤハタは反撃の術を失ってしまった。

 ユニコーンの巨躯が僅かに沈む。直後、軽やかに、思わず嘆息がこぼれるほどの鮮やかな挙動でユニコーンは跳躍した。軽々と戦車を飛び越していく。美しい跳躍だ。切迫した状況など忘れ、思わず、見惚れてしまうほどに。

 雷牛のチャリオットと漆黒のユニコーンが立体的に交錯する。その一瞬を縫うように、ドクガは大剣を投擲した。狙いは戦車と牡牛を繋いでいるながえだった。それもまた、神の至宝を傷付けまいと配慮しながら、敵対者には一片の慈悲もかけることのない一撃だった。轅は一太刀の下に断ち切られ、すでにその時点で走り続けることなどできなかった。

 咄嗟の判断だった。横転寸前の戦車にしがみつくことはせず、ヤハタはアリスを抱え上げると車体から飛び降りた。硬い地面に落ちる。衝撃で息が詰まった。空と岩がめまぐるしく視界を過ぎり、最後は岩壁に背中を強打する形で止まった。奇跡としか言いようがない。時速二百キロで疾走する戦車から飛び降りたというのに、意識を繋ぎ止めているのだから。

 視界は揺らぎ、鈍痛が体を蝕む。だが、それでもまだ息絶えてはいなかった。口内に血の味が広がる。生臭い、鉄の味。喀血しながら、ヤハタは何度か噎せ返るように息をする。

「息があるか。さすがに、神に逆らっただけのことはある。その胆力は称賛に値する」

 赤銅の騎士はユニコーンから降り、大剣を拾い上げた。悠然とした足取りで、なおかつ一切の隙を見せることはなくヤハタへと歩み寄る。娘を守るように抱きかかえた男を前にして、心を痛めないほどに冷徹というわけではなかった。仮にヤハタが神へ反旗を翻すなどといった大罪を犯していなかったなら、杯を差し出し、茫漠とした彼の心と、酸鼻に耐え難い彼の無念を労ることくらいはしていただろう。

「至極、残念だ。このような形で、貴様を終わらせなければならないことが」

 大剣の切先がヤハタに向けられる。ヤハタの息は荒かった。背後には岩壁が聳え立ち、一歩でも前に踏み出したなら、そこには白銀の刃が控えている。

「貴様は道を違えたのだ」静かな糾弾、罪の宣告、忠実なる神の代弁者として。

「違えた、か。アンタからすれば、俺は愚か者なのかもしれないが、娘を失い、取り戻せる道が残されていると知りながら進まなかったとすれば、それこそが愚かな選択だっただろう」

「悔悟は抱いていないと?」

「あぁ、娘のために生きる。それは父親として本懐だ」

「ならば、悔悟に溺れる前に軍門に降れ。貴様の罪を拭うことはできずとも、その娘に関しては温かな未来を保証してやろう」

「そいつも結構だ、騎士殿。俺とアリスは、離れていたくせに似通ってしまったからな。与えられた未来など、享受するどころか、唾棄することだろうよ」そもそも、とヤハタは言葉を続ける。乱れた胸元から、翡翠のペンダントが覗く。お人好しで、迷ってばかりいて、そして誰よりも人間の幸福を願う神様から授けられた反撃のための一矢。ボナパト・アルムヘルクの至宝のひとつを感謝の念とともに握り締め、ヤハタは赤銅の騎士を見据えた。

「俺はまだ、足掻きを止めるつもりはない」

 ヤハタの瞳が蒼く輝きを宿す。ヴァローナの瞳が朱く染まったように、デューイの瞳がウィスタリアに燃え盛ったように、それの意味することは〈魔法の発現〉だった。誰かに教えを受けたわけでも、説明書があったわけでもない。されど、魔法とはその者の魂に刻み込まれた異能だ。何を為してきたか、何を成し得たいと欲するか。魂が希求する、そのカタチのままに。

 存在を認識し、発現を望んだその瞬間から、魔法はその者の手足となる。

加速アクセラレータ

 一際大きな鼓動の高鳴りとともに、ヤハタの視界はコマ送りのキネマと化した。緩やかに、あまりにも緩慢に時が進む世界の中、ヤハタは立ち上がる。突き付けられた刀身へと自ら触れ、押しやり、赤銅の騎士のすぐ傍を通り過ぎる。ヤハタの挙動の全てに、ドクガは反応することができなかった。認識はしていた。肉体は意識するまでもなく反応していた。だが、追い付くことができない。自分にとっての一秒が、相手にとっては十数秒もの時間に相当するのだろうと冷静に見極めつつ、たかがその程度かとドクガは見做した。

 ドクガから数百メートルは離れたところで魔法が切れた。時間の流れは正常へと戻り、そして、魔法を発現する前と比してヤハタの動悸はさらに荒くなっていた。胸を掴みながら膝を突き、アリスを地面に寝かせる。苦悶を噛み殺しながらウィンチェスターを握り締め、ヤハタはドクガを振り返った。

「魔法を発現するとは、さしもの俺も驚いたよ。そのペンダント、それも神から奪ったか。つくづく罪を重ねることが好きな男のようだ」

「死罪が確定されているなら、罪の上塗りにも寛容になれるだろう?」

「だからこそ、戦では相手を追い詰めすぎてはならないと言われるわけだ。だが、それにしても、罪を上塗りしておいて得た魔法が〈加速〉か」騎士の哄笑。神の忠臣として永らく仕え、そして、あらゆる魔法に精通してきた男の評価――臆するに値せず。

「どうした、そのまま逃げ続ければよかっただろう?」揶揄うようにドクガは訊ねる。ヤハタがそうしなかった理由など、そうできなかった事情など明察しているというのに。

「アンタ、しつこそうだからな。ここで倒しておかないと泉まで粘着されそうだ」

「その見立ては正しい。泉に辿り着きたければ、俺を斃していけ」

 咆哮、ドクガは大剣を振り払い、巨躯を躍らせた。

 アリスの眠るところで戦うわけにはいかなかった。真横へと駆け出し、ドクガを誘引する。いくらドクガが精強であるといっても、鎧を着込んでいない分、ヤハタの方が俊敏性では優れている。アリスから充分に離れたところで地に膝をつき、ウィンチェスターを構えた。

 優秀な狙撃兵の成せる技。スコープを覗き込んでから発砲するまでに、タイムラグはほとんど生じなかった。轟音と硝煙の渦の中、なめらかに排莢と装填を終え、立て続けに二発目を撃ち出す。そのどちらもが鎧に弾かれ、撃たれた本人の足取りには些かの乱れも生じない。

 これでは弾を消費するだけだった。ヤハタは狙いを変える。ドクガの顔面、兜によって覆われていない目に照準を合わせ、引き鉄を引いた。針の糸を通すような精密な狙撃、捉えたと確信した直後、弾丸はドクガの大剣によって斬り落とされた。

 スコープの中央で橙赤色の火花が弾ける。八ミリにも及ばない弾丸の中心へと、蜘蛛の糸ほどの誤差もなく正確に叩き込まれる白刃。目で捉えることなどできるはずもない。そして、それもまた信じられないことに、ヤハタが引き鉄を引くよりも先に、大剣は弾丸の着弾点へと向けて振るわれている。火花で身を飾り立てる騎士の、人間として埒外の動き。

 目を狙っていると分かっているからか?

 ウィンチェスターの銃口を僅かに動かして狙いを変える。装甲の薄い箇所を狙っていると思われているならば、その裏をかき、最も頑強な胸部を狙撃した。

 初めの狙撃で、弾かれることは分かっていた。だから、薙ぎ払われなかったとしても、それはドクガに防ぐ意志がなかったことだけを表す。故に、ドクガの行動は、ヤハタの戦意を挫かせるためだけに特化していた。

 大剣に叩き落された弾丸が、大地を穿つ。嘘だろう、己の錯覚であることを願うかのようなヤハタの独言。眼前の騎士に向けられた畏怖の念。

「気は済んだか? 今度は、此方の手番だ」

 騎士の大剣はすでにヤハタを捉えていた。袈裟懸けに振るわれた大剣を認識しながら、ヤハタは加速した。コマ送りの世界の中、半身を翻すことで剣を避ける。避けられることを読んでいたのか、ドクガは振り切る前に、剣の軌道を真横へと変えた。

 片足を地面から離していたため、反応が間に合わない。思わずヤハタは地に這い蹲り、白刃が彼の頭上を通過する瞬間、ドクガは柄から右手を離した。続けざま、左の手甲が柄を打ち上げる。大剣は空中でぐるりと向きを変え、刃先を真下へと向けた。

 右手で剣を掴み直し、突き下ろす。渾身の一擲。ヤハタは大地を転がり、横に逃れる。大剣は岩の大地に刃先を十センチ以上沈め、数多の砂礫を撒き散らした。

 そして、ヤハタの魔法が途切れた。加速時の意識からすればあまりにも急激に流れる時間の中、ヤハタの眼前には鋼で固められた足が迫っていた。胸を蹴られ、息が詰まる。仰向けに横転する刹那、不意にウィンチェスターの銃口がドクガを捉えた。ヤハタは構えてすらいなかった。単なる偶然として銃口の先にドクガの巨躯があり、ヤハタの指先は引き鉄にかけられたままだった。排莢と装填も済んでいた。だからこそ実現した、偶然の一射。ドクガにとっては不意を突かれたに他ならなかっただろうに、それさえも外れる。

 またもや発砲よりも先にドクガは回避を始めていて、それで、ヤハタは確信する。

「――……気付いたか」赤銅の騎士は、兜の内側でワインレッドの目を細める。「俺の目は特別性でな、この世の〈未来〉が視えるんだよ」

 遠目では分からなかった。兜で隠されていたから詳細が分からなかったが、間近でやり合い、初めてヤハタは気付いた。ドクガの視線の先にあるもの、彼が視ているものは現在のヤハタ・エインズワースではなく、これから彼が経験する出来事であることを。

 赤銅の騎士が下を視れば、コンマ数秒のタイムラグを挟んだ後にヤハタが移り込む。経験と洞察から相手の挙動を予測しているなどといった領域ではない。

 あれは確定した未来の俯瞰だった。

 ヤハタが時を刻むのだとすれば、ドクガは刻まれたその一瞬さえも見通す。

 排莢と装填、それでもヤハタは銃口を下ろさない。未来を読まれるならば、さらにその先、未来を読んだドクガが選択するだろう未来を予測すればいいだけだと、己を奮い立たせる。諦めていい理由など、もう彼にはないのだから。進み続けることしか彼にはできない。

 ドクガの額に照準を合わせる。撃つ。大地から引き抜かれた大剣は真上へと斬り上げられ、その峰で弾丸を弾く。半ば、称賛したくなるほどの膂力だった。身の丈に迫るほどの大剣を片腕で振るっているというのに、ドクガはよろめきもしないのだから。

 もう一発、袈裟切りに振るわれた大剣によって弾かれる。同じペースで、さらに二発。そして、ヤハタはペースを転じて五発目を撃った。四発分、同じペースで大剣を振るっていたドクガはそれに釣られた。慣らされてしまった体は、突如として緩急を孕んだ弾丸を前に硬直する。薙ぎ払うことはできそうにもなかった。それならば避けなければ。ドクガの右足に反射的に力が込められた。

 ヤハタは無表情のまま、内心、狡猾に笑む。五発目はペースを変えただけでなく、照準もずらした。すなわち、ドクガが回避行動を取った後に、彼が移動するであろう場所に。

 ヤハタに〈未来視〉などといった異能はない。それでも彼は、動く標的を狙い続けてきた元狙撃兵だ。人間がどう動くか、動く標的を殺めるためにはどう撃てばよいのか。それだけに執着してきた過去を持つ。経験があり、洞察力を養った。

 ドクガのように未来を俯瞰することはできずとも、未来予測に迫ることはできた。

〈さぁ、避けろ。そこがアンタの死地となる〉言葉なき、ヤハタの甘言。死をもたらすための計略に慈悲などなく。けれど、ドクガ・ハインリッヒが期待に応えることはなかった。

 騎士は僅かにも動かず、弾丸が甲冑に当たり、跳弾する音だけが空疎に響いた。

「惜しいな。発想は悪くない。為し得るための実力も伴っていた。だがな、これは結局、貴様にとって利することの決してない鼬ごっこなのだ。貴様が俺の未来視の先を予測したとして、さらにその先を俯瞰するのが俺の〈先見〉だ。人間の地力に頼っている程度の読み合いで凌駕できるほど、魔法とは易くないと肝に銘じておきたまえ」

 忠告とも嘲笑とも取れるニュアンスで言葉を並べ、ドクガは大剣の柄紐を握り、ぐるりと体の横で回転させた。投擲される。大気を圧し潰して迫り来る、殺意を模った鋼の塊。

 加速――世界の色が反転した。

 赤銅の騎士と距離を取るように駆け出す。世界は緩やかだった。音も、光も、何もかもがあまりにも緩やかに動く世界。排莢と装填、身に沁みついた動作を行い、ウィンチェスターを胸の前で構える。心臓は今にも破裂してしまいそうだった。キリキリと飽和していく思考を奮い立たせ、スコープを覗いた。

 未来の読み合いで負けてしまうなら、凌駕すべきところはそこではない。行動を。未来を俯瞰したところで対処できないほどに、ドクガが認識できないほどの〈加速〉を。

 ヤハタは喉を唸らせながら、翡翠のペンダントを握り締めた。

 呼吸はすでに、止まっていた。気管に脂を詰められたかのようだ。魔法の代償に体を蝕まれながらも、ヤハタはスコープの中央にドクガを収める。その挙動は、ドクガにとって認識の外にあった。刹那の出来事、あるいは過程の消失に他ならなかった。

 例えば、彼等が徒競走をするとして、ホイッスルが鳴らされてドクガが走り出したときには、ヤハタはゴールラインを越えている。何が起こったのか、その間に何が行われたのか把握することはできない。ただ、結果だけを示されるのであり、果たしてドクガにとってはそれで充分だった。過程は彼に牙を剥かない。彼に関与し、その身命へと害を及ぼそうとするのは〈結果〉のみだ。故にヤハタの行動を把握できないとしても、彼の行動が何を成そうとしているのか、その〈目的〉については、ドクガの認識は過剰なまでに及ぶ。

「憐れみを示そう。追跡者が俺でなかったなら、あるいは貴様の願いも叶ったやもしれん」

 騎士の瞳が僅かに細められ、嚇怒の熱が薄らぐ。これだから〈先見〉は無粋で、世界を痩せ細らせる。神に仕える騎士とは、別の見地からの問題。戦場での高揚感、命を凌ぎ合うことに対する渇望感、弱者が淘汰される極地に於いてさえ、ドクガの心は僅かにも揺らがない。

 未来視とは最強にして、孤高の魔法。

 それに抗える魔法を、自分を凌駕してくる存在を、ドクガは未だ知らない。神に身命を捧ぐと決めたその瞬間から、彼の世界は停滞した。未来を想像して胸を高鳴らせることも、不安を抱くことも、それが実現したときに喜びを抱くことも、悔悟に駆られることも無縁となった。

 今もまた、ドクガは未来を見透かす。

 その瞳は煌々と輝き、ドクガを起点として見渡すことのできる限り、世界を埋め尽くすように深紅の光の円環が広がった。円環の内部では光の膜が幾重にも重なり合い、小石を投げ込まれた水面のような様相を呈する。美しくも、不穏と妖しさを孕んだ円環に猜疑を抱きながらもヤハタが退くことはなく、構えた銃から弾丸を叩き出した。

 7.65ミリの弾丸の軌跡、はたまた立ち昇った硝煙の揺らめきさえも受けて、光の膜に歪みと乱れが生じる。螺旋状に切り裂かれていく膜を見つめ、ドクガは右手を無造作に振るった。

 大剣で斬り捨てるわけでなければ、避けるわけでもない。亜音速で迫り来る弾丸を、ドクガはその手で掴み取った。それは、子供が投げたボールを受け止めるかのような容易さで。

「無力で、矮小で、それでも神に挑まんとした貴様の蛮勇に敬意を表し、上澄みを啜るような真似はやめよう。未来俯瞰と、領域内のあらゆる出来事を把握する分析、それらを併せることで俺の〈先見〉は真価を発揮する」

 手のひらを開き、ドクガは弾丸を大地に落とした。そして、赤銅の騎士は魔力で構成された鎧を脱ぎ捨てた。鎧による守護ではなく、軽装になることを厭わずに心身の軽快さを優先する。実情から鑑みれば、もはや彼にとって、身体を守護することは無用になっていた。

 ワインレッドの髪を無造作に掻き上げ、ドクガは大地を蹴った。驚きのあまり、ヤハタは反射的に〈加速〉を発現させた。ドクガの挙動に「駆けている」などといった表現は似つかわしくない。大地すれすれを飛翔しているかの如く、彼の足が大地を捉える時間は刹那的であり、そして軽やかだった。時を切り刻んでなお、速いと感じられるほどに。

 両者の間隙はたちどころに失われた。近接戦闘に於いて、狙撃銃は、その長い銃身がネックとなる。ヤハタはウィンチェスターの構えを解き、腰から刃渡り15センチの小刀を抜き払った。

 右半身に重心を預け、小刀を突き出す。埃っぽい大気を切り裂き、黒鉄の刃はドクガの眼窩へと向かう。首を捻り、顔を僅かに背けてドクガは直進する。刃先がドクガのこめかみを掠めた。薄皮一枚の断裂、それでも大きく飛沫した鮮血を振り払うように、ドクガは手掌を真横に振るった。

 手掌の中心でヤハタの腕を捉え、そのまま押しのける。左足を起点とした踏み込み、ドクガは右足を垂直に蹴り上げた。胸を仰け反らせるようにヤハタは後方へと体を傾ける。

 先程まで顎があった場所を、ドクガの足が通り過ぎた。倒れ込むことを止めず、バク転の要領で後方へと飛び跳ね、再び正対したときに小刀を投擲する。そして、その軌道を辿るように猛然と駆け出す。僅かでもいい、避けようと、刃に意識を注いでくれることを願いつつ――

 けれど、相手は弾丸を掴み取った男だ。児戯をあしらうように、黒鉄の刃は指で挟み込まれる形で受け止められる。届かないことへの失望を噛み砕き、ヤハタは手を伸ばした。

 敵わないこと。それもまた、想定内だった。

 指先が小刀の柄に触れる。そのまま指を滑らせていくと、手のひらの中に、わずかに温かな樹脂製の柄が収まった。握り締める。刃先はドクガの指に挟まれていたが、せめぎ合うとすれば、騎士に勝ち目はない。体重が乗せられ、刃は指の間を滑り始めた。

 ドクガの判断は早かった。後方へと足を進め、せめぎ合いから離脱する。ヤハタは追い縋り、小刀を突き出しては引き寄せ、また突き出す。ドクガは最小の動きで刃を避け続け、換言すれば、真に迫ることなく、ヤハタと相対し続ける。

 なぜ。ヤハタの胸中に焦りが芽吹いた。

 なぜ届かない。なぜあしらわれる。彼は兵士だった。人間を殺すための技術を磨き、実際にその手腕は評価され、無慈悲な生と死が入り乱れる世界に導かれた。そして彼は決定的な死をその身に受けることなく、他人の命を刈り取り続け、心だけを壊死させながら帰還した。ヴァローナの支援があったとはいえデューイの脅威も退けた、真なる益荒男と呼ばれるべき彼は、人外の異能さえも手に入れた。〈加速〉、何者にも追い付かれず、何者をも追い越していける魔法を発現したというのに、

「なぜ、たった一人の男を引きずり下ろすこともできない⁉」

 平淡かつ希薄。ドクガ・ハインリッヒは片時も焦慮を浮かべることはせず、退屈な芸を眺めるように、半身を翻しながら後方へと進んでいく。赤髪の騎士にとって、ヤハタの剣技は子供の遊びと変わらない。どれだけ熟達していても、先が読めてしまえば児戯と変わらない。

 手のひらが汗ばみ、吐息も途切れ途切れに、ヤハタは動き続ける。

 僅かでも覚えたドクガの血をもう一度味わいたいと言わんばかりに、刀身は乾いていた。そこにはただ、血潮がこびりついた跡だけがうっすらと残されていた。気迫は充分すぎるほどに込められていた。殺意は過剰なほどに迸っていた。それでも、ドクガの心胆を寒からしめることはできない。命を、未来を強奪されるかもしれないと怖れを抱かせることができない。

 苛立たしげにヤハタの唇が震える。ドクガへの怖れを掻き消すために叫ぶ。

 息が上がり、視界が濃霧で覆われたようにぼやけ、疲弊が心身を蝕むにつれて「到底及ばない」と意識させられる。もう諦めろと、現実が耳元で囁く。摩耗した精神と肉体をそれでも奮い立たせながら、泥沼にはまっていく感覚は増していく。もう、戻るには遠くまで来てしまった。進むことしかできず、進もうとする先には何もないことを自覚していた。

 腹の底から吐き出された、言葉とも呼べぬ叫び。呻きながら、ヤハタは小刀を突き出した。体幹のコントロールとか、次へ繋げるためのバランスとか、そういったものは全てかなぐり捨てた。〈加速〉する男が、さらなる〈加速〉を求めた精神と渇望による一撃。

 矮小な刃は空を切り裂き、風を生む。ドクガの知覚するところに於いて、ヤハタはもはや残影に過ぎなかった。陽炎のように、そこにいると思いながら、そこには何もない。ドクガの認識は全て凌駕されていた。ヤハタが何をしているのか、何をしようとしているのか、彼には分からなかった。

 それでもなお、ヤハタが何をするのか、その結果だけは明瞭に示されていた。

 ドクガは最後に一歩、後ろへと歩み、右足を大地に踏み下ろした。凌ぎ合う両者を分かつように、はたまたヤハタの視界を塞ぐように巨大な影が立ちはだかる。それはドクガの大剣だった。小刀の刃先が、大剣の刀身へと突き立てられる。ちんけな火花と耳障りな擦過音、小刀が僅かに撓む。撓みは徐々に度合いを強め、やがて、断裂した。

 ヤハタは目を瞠り、陽光を反射させながら輝く小刀の破片を肌に受け、

「……クソッたれ」

 血に濡れながら、抑え切れない哀しみに溺れた。己の無力を思い知らされたためか、肉体が限界を迎えたからか、ドクガが大剣へと手を伸ばす光景を目の当たりにしながら、ヤハタは微動だにすることができなかった。

「生者であることが、貴様の敗因だ」

 騎士によって大剣は握られ、間断なく銀鏡の刃は操られ、ヤハタの右腕に沈んだ。腕が一瞬にして捥ぎ取られたようだった。肌を裂かれる感触も、骨肉を断たれる感覚もなく、気付けばヤハタの腕は飛んでいた。粉々に砕けた小刀を、握り締めたまま。

 役目を思い出したのか血潮が腕から噴き出したが、傷口に手をあてがうこともできなかった。斬られたこと、血が迸っていることを認識して、遅ればせながらの痛みが生じたと同時に蹴り飛ばされていた。空と大地が激しく入れ替わる。横転しながらどうにか前を向くと、一足飛びで近付いてくるドクガの姿が見えた。

 立ち上がることは諦め、右足で大地を蹴る。逃げようとして、それは許されなかった。左足に激痛と熱を覚え、前に進もうとしていた上体が泳ぐ。覚醒と虚脱を繰り返す意識で何が起こったのか確かめようとして、串刺しとなった足を見て、見なければよかったと後悔した。

 大剣でヤハタを大地に縫い付けておきながら、ドクガは彼を見下ろす。

「その苦痛は、俺には理解できないものだ。我等に対抗するために掠め盗った魔法が、結果として貴様の肉体を脅かす。生者であることが貴様の敗因だ。時を刻む魔法、時を飛躍する〈加速〉、そんなものに生身の人間が耐えられるはずもない」

「生きていることが……罪だとでもいうのか」

「違う、生は祝福だ。ただ、魔法は生者にとって過ぎたる異能だったということだ」

 時を切り刻もうと〈加速〉を続けた結果、全身の筋繊維は断裂し、酷使された心臓は衰弱し、脳を起点とする神経回路は損傷を受けた。誰かと戦うどころか、今のヤハタは、立ち上がることさえも困難だった。

 虚ろな影に満たされた目を動かし、アリスの姿を探す。血が流れ込み、赤くぼやけた視界の中に娘を見つけることはできなかった。

「魔石で発現される魔法など上澄みに過ぎない。本質から乖離したものに希望を託し、託したものに終わりを告げられる。これを皮肉と言わずして、何と言う」

 赤髪の騎士によって大剣が動かされる。胸の直上で刃は構えられる。真昼の月を想起させていた銀鏡の刃は、ヤハタの血と脂にまみれて濁っていた。

「俺は……アリスを生き返らせるために……」

「因果律の崩壊を願うものは、世界の抑止力によって淘汰される。世界は寛容とは程遠い。慈悲はなく、神の統治する世界にあるものは厳然たる法と秩序のみだ」

 神の秩序から外れた貴様は、すでに存在が許されない。貴様の罪は、ただその一点にのみあったのだと騎士は宣告した。

 大剣は下ろされる。肌の決壊、肉と肋骨の間に刃が滑り込む。肌で覆われ、肉で隠され、肋骨で庇護された人間の要――心臓は貫かれた。一瞬、全身が硬直し、すぐに弛緩した。喉を血潮がせり上がってくる。嘔吐にも似た不快感を覚えることもできず、ヤハタの魂と心は墜ちていった。後悔と無念は失墜の中になく、激しく燃えていた感情の奔流さえも、終わってみれば静かに眠りに就いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る