理性を擲つための理由

 濃厚な緑の森を、額から一本の角を生やした駿馬が駆けていく。空間を寸断しているかの如き疾駆。常人であれば残影さえも捉えることのできないだろう、驚嘆すべきその速度。ただでさえ曲がりくねった無秩序な山道。僅かでも判断を狂わせたならば跋扈した樹々に激突するだろうが、騎手は速度を緩めようとはしない。さらに速く、と駿馬の脇腹を擦る。

「ディアドラ、少しの間任せる。そのまま駆けてくれ」

 ドクガ・ハインリッヒは唐突に告げると手綱を緩め、無謀にも瞑目した。意識を凝らして〈神の輝き〉を探る。高貴なる魂の輝き、蜜のように地上に垂らされた残り香を嗅ぎ分けようと。

 闇夜の北斗七星、或いは嵐の中の灯台。神の威光は、時に導きとして人々に与えられる。

 見紛うことなく、その輝きに意識を凝らした途端、ドクガの肌は一斉に粟立った。

 確かに近付いているが、まだ遠い。

「もう少し無理をしてもらえるか?」

 ディアドラのたてがみを撫で付け、手綱を手のひらに絡ませた。空気の抵抗さえも惜しく、ディアドラの胴に密着するようにして、ドクガは樫木の森を駆け抜けた。

 楢の生い茂った森、泥濘の広野、偉観の大河、小さな集落へと景色は移り変わり、赤茶けた大地の荒野に踏み込む。神の輝きは何にも増して冴えわたり、肌を刺されるようだった。

 思わず息を呑み込む。そうしなければ、今にも叫び出してしまいそうだった。

 神ボナパト・アルムヘルク。敬愛する主君が確かにこの先にいる。一刻でも早く駆け付け、その胸の痞えを取り除きたい。助けを求める手を取ることすらできなかった従者ではあるけれど、その不名誉は、望みに応えられなかった失態は、安寧を取り戻すことでしか返上できない。

 ふと、赤茶の大地に鮮やかな異色が視えた。原色の赤と青。派手な色合いには、あり余るほどの見覚えがあった。反射的に手綱を引き、速度を緩める。惰性で走り続けること数十メートル、急勾配の坂を登り切った矢先、ドクガはボナパトの姿を認めた。

 道化服の少女は、大地の上に直接、膝を抱えるようにして蹲っていた。寒さのためか、それとも怯えからか。ボナパトの肌はどこか青褪めていた。

 俯いたままの主君にどのような言葉をかければよいのか、ドクガには分からなかった。無事を祝福するべきなのか、軽率な行動を窘めるべきなのか、それとも乱れた心を慰めるべきなのか。

 鞍から降りる。ディアドラはその場に残し、ドクガは急いた心を抑え付け、ゆったりとした足取りでボナパトに歩み寄る。武骨な甲冑が騒々しく鳴らされているというのに、ドクガの巨体によって陽の光が遮られるまで、ボナパトは終ぞとして貌を上げようとはしなかった。

「遅くなりました」

「ばかね。早すぎるくらいよ」

 差し出された手のひらに、ボナパトはおずおずと右手を重ねる。それからドクガへと身を寄せると、少女は空いている左手でドクガの額をパチリと弾いた。いたずらに、笑みながら。

「心配かけたわね。私の騎士ナイトさま」

「……揶揄わないでください」

 額を擦り、ドクガはボナパトを立たせる。

「ディアドラを使ったのね。道理で早かったわけだわ」

「褒めてやってください。随分と無理をさせましたから」

「ありがとう、ディアドラ。あなたは最高のユニコーンよ」

 ディアドラの首筋に抱き着き、たてがみに指先を掻き入れながら少女は笑う。褒められていることが分かるのか、ディアドラも首を下げて応える。

「あなたもよ、ドクガ。よくぞ来てくれました」

「もったいないお言葉です、ボナパト様」

 恭しく一礼をしてから、ドクガは途端に気色を尖らせて「お聞きしたいことがあります」と紋切り型に口を開く。ボナパトは僅かに瞳を揺らめかせ、躊躇いがちに頷いた。

 神への叛逆者となったヤハタ・エインズワースに関する情報。人相とその目的。蛮行に至った動機と背景。デューイ・マルカルとの関わり。神ボナパトとの関わり。全てを聞き出し、デューイの証言との齟齬がないことを認め、ドクガは確信へと至る。

「ヤハタという男は、憐れむべき愚者だ」

 心からヤハタの不遇を悼み、残念だと嘆きながらドクガは切り捨てる。

「そこで踏みとどまっていれば、摂理を受け入れてさえいれば叛逆者として扱われることもなかっただろうに」

「元は人間なのだから、あなたにだって憶えはあるでしょう? それにね、ドクガ。人間は他者との関係や己の理性によって踏みとどまれるほど、容易な習性ではないの。ヒトの内側には杯がある。容量も異なれば、対象によって形さえも変える不定形の杯。愛情とか憎悪、不条理や屈辱、そういうものが杯から溢れ返ったとき、ヒトは初めて罪を犯す。踏みとどまれるというのは、言い換えれば、その程度の刺激しか受けなかったことなのよ」

 踏みとどまれる人間などいない。ただ、進む理由が足りなかっただけなのだ。

 理性を獲得した獣が、理性を擲つための理由が、過小だっただけだ。

「あの人にとっては、娘を失うことは堪え難い苦痛だったのよ」

 ドクガは見たことがないけれど、彼はその場に居合わせなかったけれど。娘の終わりを告げられたときの凍て付くようなヤハタの貌は、克明にボナパトの胸に残っている。

 忘れたくとも、忘れられない絶望のカタチ。

「それで、どうするの? 私と一緒に神殿に帰るのか、あの男を追うのか。あなたのことだから聖別の泉には他の人を送っていることでしょうし、そちらに任せてもいいのよね?」

「そうするわけには参りません」

 毅然として、一方で覚束ない声音でドクガは首を振る。

「ボナパト様の無事は確かめました。なれば、我が身は天界の摂理を守らねばなりません。奴には〈神威の車輪〉があります。ディアドラなくしては、奴よりも先に泉へと達することは不可能でしょう。……私は、奴を追わねばなりません」

 ボナパトの表情に憂いが混じったことを、ドクガは確かに認めたが言及はしない。未熟な神は黙したまま、ディアドラの手綱をドクガに握らせた。

「行きなさい」

「感謝します」

「そんなのはいいわ。私は、あなたに汚れ役を押し付けただけなんだから」

 汚れ役を背負うことが己の役割だと返しそうになり、ドクガは慌てて口を噤む。神の御手は高貴なままでなければならない。そのようなことを、むざむざ意識させる必要もなかった。

 身軽な挙措でディアドラへと跨り、ドクガは己が進んできた方角を示す。

「道なりに六キロほど進んだところに小さな集落があります。お送りできない不手際をお許しください」

「はいはい。散歩くらいなら私にもできるから心配しないの」

 さっさと行きなさいと追い払うように手を振り、ボナパトは背を向ける。最後まで悟らせず、引き留めることもせず。己が唆した男を、己の忠臣が討ち取りにいく。

(私はやはり、神としては相応しくない。魔女とでも罵られた方が、きっと胸はすくのだろう)

 その慰めさえも自己満足の類でしかないけれど。

 最期に一度、嘘を塗りたくった顔をドクガに向ける。

「帰りは送ってちょうだいね」ドクガは帰ってくると、呪いのように。

 騎士は頷き、一角獣を進ませる。少女は前を向き、足を持ち上げる。二人の間には隔たりが生じ、徐々に広がっていった。

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