あなたの敵
「やっちまったな……」
「やっちゃいましたね!」
牡牛に牽かれて空を行く
「疲れてたんですね。よく眠ってる」
「……すまないな。まがりなりにも神であるアンタに子守りの真似事なんてさせて」
「まがりなり、は余計です!」
頬を膨らませてそっぽを向いたボナパトは、膝の上で眠る少女の髪をそっと梳いた。
「いいんですよ、別に。今度のことは私の慢心、私の至らなさが招いた事態なんです。本当に、お父様とは違って、私は立派な神様になんてなれませんね」
とても、穴だらけ、とボナパトは薄く笑った。
「すまない。責めるつもりで言ったわけじゃない」
「えぇ、分かってます。言葉のあやですよね」
気丈に振る舞うものの、ボナパトの瞳には憂いと後悔が深い影となって落ちていた。責めないなんて、言わないで。責められないことが辛いのだと、少女の背中は語る。
アリスの髪を梳くこともやめ、慈雨のような眼差しを注いだ。
「この子もこんな体になってしまいました……」
自責の念に駆られ、罵倒を欲するボナパトを、それでもヤハタは無視した。
「俺は――自業自得だと思っている。アリスが巻き込まれたことにこそわだかまりは残るが、元はといえば俺とデューイの確執が生んだ出来事だ」
「生前の罪は死後にこそ清算されるべきです。人間の規律があなたを裁かなかったなら、死後の存在によってあなたが脅かされることなどあってはありませんでした」
「そうだとしても、俺はアンタを責め立てるつもりはない。大体、アンタはアリスを取り戻す手段を示してくれた。それで充分だ」
進むべき道がまだ開けていたことは、何よりもの救いだった。
「……いっそのこと罵られた方が、私も強気に出れるんですけどね」
小声で囁くと、ボナパトは戦車の向かう先へと目を凝らす。途切れることのない雲海と山々の先、地平線の彼方よりはるか先へと進んだところにある泉を見透かさんとするばかりに。
「……聖別の泉、か」
「聖別された、なんて穏やかなものじゃないですけどね。神の定めた摂理を覆し、因果律を搔き乱す不穏分子。神の権能を投げ入れられて変質した泉は、もはや根源の渦に他なりません」
「何であれ縋るさ。それしか道はない」
「はい。そのために神々の軍勢をも敵に回したんですからね」
「名演技だったよ、お姫様」
「光栄です。あなたこそ大した
互いに肩を微かに震わせ、笑みを噛み殺すと、ヤハタは牡牛の手綱を軽く引いた。二頭の牡牛は揃って首を振り、歩みを減速させるとなだらかな弧を描きつつ空を降りる。
「……ヤハタさん?」
「本当に感謝している。だが、ここでお別れだ」
「私がいなくなったら誰が道案内をするんですか?」
「方角は分かっている。進むくらいなら、案内がなくともできるだろう」
「でも……」
半ば腰を浮かしかけたボナパトを視線で留め、ヤハタは静かに首を振る。
「ここでお別れだ、神様。天界の最高権威者、ヒトの世を統べる象徴が、自分から〈規律の破却〉を唆したなんて知れたら不味いことくらい分かるだろう?」
「でも、だけど……」
納得し切れずに反駁の言葉を探そうとして、けれど、ボナパトは最終的にうな垂れた。
「私は不運にも人間に攫われただけの被害者で、悪いのはヤハタさんだけ。そうですよね?」
「事実確認は充分だな。降りるぞ」
赤茶けた大地へと戦車は衝撃もなく滑り降り、一対の轍を刻む。空を駆けている間は感じることのできなかった、噎せ返るような緑の芳香が鼻腔をくすぐる。空気も生温かく、どこかねっとりと絡み付くようだった。ボナパトは名残惜しそうにアリスの髪をもう一度だけ撫でると、少女の体を起こした。すぐには立ち上がらず、座ったままでヤハタを見上げる。
「アンタは魔性だな」
泣き出しそう、悲しそう、哀憐を誘う。
ヤハタの男としての理性を刺激する表情を、ボナパトは見せる。そう、それこそ本当にかどわかしてしまいたくなるような蠱惑的な魅力が、幼い神には宿っていた。
それもまた、人間に愛される神にとって必要な条件なのかもしれない。
「魔性だなんて……、神様は〈神聖〉だから神様なんです」
それもまた言い訳だと思いながら、ボナパトは腰を上げる。砂と塵を払い、ヤハタを正面から見つめた。
「とんだお人好しですね」
「似合わないよ、その言葉は」
ボナパトは小さく笑うと指を持ち上げ、空中に三本の線を組み合わせた〈F〉に似た幾何学模様を描いた。光の線はそのままの形状で残留し、次いで翡翠のペンダントへと変貌した。
「お別れする前に、私からの餞別です」
ペンダントのチェーンを外し、背伸びをしながらヤハタの首に何とかかけると、ボナパトは「似合ってますよ」と称賛を添えた。
「これは?」
「魔石、とでも表現しましょうか。その名の通り、魔法が込められた石です。ヤハタさん。あなたはデューイ・マルカルとの抗争で身をもって知ったはずです。魔法を持つ者と持たざる者、両者が交わったときの格差を、過剰なまでの辛酸を」
「これを持てば、魔法が使えると?」
「ヤハタさんが優れるとは限りません。それでも、同じ舞台に立てるようにはなれます」
胸元のペンダントに指を添える。小さくてほのかに冷たい翡翠の石を指先で転がし、ヤハタは大切そうに握り締めた。
「感謝する」
ボナパトは一度だけ頷き、戦車から降りる。そのまま軽い足取りで戦車の横へと回り込み、縁を掴むとヤハタへと顔を近付けた。
「気を付けてください、ヤハタさん。神々の軍勢は安寧と秩序のために、必ずやあなたの命を刈り取ろうとするでしょう」
「大丈夫だなんて虚勢も張れないが、一端の父親として娘のためにしてやれるくらいのことは貫き通してみせるさ。これも、預かったからな」
翡翠を指で弾き、ヤハタは朗らかに笑う。覚悟を決めた男の貌に、曇りなどなかった。
「預かった、ですか。まるで返しに来るような口振りですね」
「そのつもりだ。魔法なんて、人間である俺には必要のない代物だ」
ヤハタが手綱を握ったことを認め、ボナパトは戦車から離れる。雷電と火炎の牡牛が身震いする。白青色の稲妻が空を伝い、ボナパトの鼻先でパチリと弾けた。
「聞き忘れていた。これは誰の魔法が込められているんだ?」
「あなたです」
「俺の?」
「はい。ヤハタさんが死んだ後に授けられるはずの魔法を前倒しで持ってきただけです。……ですから、正真正銘、ここからはあなただけの力で踏破していただくことになります」
「上等だ」
「……困難に立ち向かうときでも、あなたは笑うのですね」
ボナパトの問いかけにヤハタが応えることはなかった。ただ静かに目配せをして、戦車を進ませる。轍が再び刻まれ、数メートルも進めば、その両輪を大地から離した。遠ざかっていくヤハタとアリスを、その姿が空の彼方に掠れるまで見送り、ボナパトは帽子を脱ぐ。
「私の道化はここでおしまい。ここからは、神に仇なす異端者を誅伐する正義として、神であるボナパト・アルムヘルクに戻らないと……」
帽子を握る手に力が込められる。虚ろに鳴り響いた鈴の音さえも、今は煩わしく。
「神様だから正義だなんてとんだ思い上がりなのに、世界はそれを許してしまった。ヤハタさん、あなたの敵は私であり、全ての天使であり、この世界そのものです」
魔法を得たところで、たかが人間ひとりで立ち向かえる未来など想像もできず、結局自分は、またも傷付くはずのない人間を戦場に担ぎ出しただけなのだと、気付く。それでいい。進んだ果てに掴めなかったことと、進むことすらできなかったのでは、比べようもないのだから。
願っている。彼が泉に辿り着くことを。
それと同時に、ヤハタ・エインズワースの目が早く醒めることを、期待している。
「あぁ。私はやっぱり未熟だ。未来さえも、視ることができない」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます