復讐劇の末路

 地下牢からは連れ出されたが、足枷を外されただけでデューイ・マルカルは依然として自由とは程遠い状態にあった。視界も変わらず閉ざされており、ここが神殿のどこに位置するのかは見当もつかない。首を傾げ、息を吸う。部屋の中には甘い蜜の香りが漂っている。

(香を焚いているのか。……それにしても)

 あまりにも濃厚に焚かれすぎているためか、鼻が曲がりそうだった。吐き気さえ催す。

「酷い臭いだ。加減というものを知らないのか?」

「ただのまじないだ。香りづけなら、もう少し品のあるものを使う」

「魔法封じの呪い?」

「好きに解釈しろ」

 ドクガは紋切り型に応じ、デューイも特に問い詰めるつもりもないのか「そっか」とだけ返した。それよりも、と背もたれに預けていた体を起こし、デューイは身を乗り出す。

「話を始める前に、外してくれないかな」

「下界で言うところの司法取引か?」

「そこまで大層なものを求めるつもりはないけど、少しくらいは恩恵がないと滑る舌も滑らないし、浮かぶ思い当たりも浮かばないんじゃないかな」

「貴様の口を割らせることはたやすい。我等には魔法がある」

「簡単に割れると思わないでよ。矮小であろうと、ぼくだって神に楯突いた人間だ」

 軽薄な笑みを浮かべつつデューイは手枷を掲げる。

 神に背いた不埒者が神を楯にする。己を誇張するための理由とする。そんなものは滑稽としか思えず、ドクガはデューイの浅ましさに侮蔑の念を抱く。一方で、とうの昔に捨て去った人間の下賤さを前にして、このような強かさを失くしたことに後悔を抱く。

 思慮深さと無気力、敬虔と無欲は別の感情だ。

「……いいだろう。神の安寧と引き換えに、貴様の罪を帳消しにしてやろう」

 懐から鍵を取り出し、手枷と目隠しを外す。少年は手枷がなくなったことで軽くなった手首をほぐすように回し、続いて手庇をつくり、照明の眩しさから目を覆った。

「お世話様」

「結果を出せなければ、それはまた貴様にかけられるものと心得よ」

「そうならないように努めるよ。さて、何を知りたい」

「ヤハタ・エインズワースの目的だ。理由もなく神に反旗を翻したとは考えられない。ヒトの身でありながら天界に押し入り、成し遂げようとする目的があるはずだ」

「その答えは簡単だ。死者の復活だよ」

「……なぜ、そう言い切れる。ヤハタ・エインズワースはまだ死んでいないはずだ」

「ぼくの罪状は把握していないのかな。禁則事項の綻びを利用してヤハタ・エインズワースへの復讐を誓い、その過程として、アリス・エインズワースの魂を肉体から剥ぎ取った。魂と肉体の乖離は死と同義だ。ヤハタはアリスを溺愛しているようだったから、生き返らせる手段があるのなら生き返らせたいと願うんじゃないか?」

「……見下げ果てた屑だな」

「誹りは受けよう。今度はぼくから質問だ。この天界に於いて、神の摂理に反するとしても死者を生き返らせる方法があるとすれば、それは何だ」

 答えはすぐに浮かんだが、腑に落ちないことがある。デューイ・マルカルの一件を通じて関わりを持ったとはいえ、天界の摂理に無知であるはずのヤハタ・エインズワースが如何様にしてその存在を知り得たのか。眼前の少年が伝えたのか。

「答えろ。貴様は〈聖別の泉〉を知っているか」

「……知らないけど、それが死者を復活させるものなのか?」

 嘘は吐いていない。だからこそ、ドクガは沈思する。

 天界の最北端、不可侵領域を進んだ先にある泉こそ、ヤハタの願いを叶えるものだ。父王リンガー・アルムヘルクは世界の摂理に反する力を神自身が持つことを是としなかった。そこで復活の権能を泉へと託し、その地を神域とした。生者の如何なる罪も拭い、死者には復活をもたらす聖別された泉、それこそが死者を生き返らせる唯一の手立てだった。

「聖別の泉とやらがそうだというなら、まず間違いなく、ヤハタはそこに向かっただろうさ」

「その存在をどうやって知った」

「ぼくを捕らえたのは神ボナパトだ。ヤハタとアリスの対処も神が行ったのならば、知り得る機会はあっただろう」あるいは強引に吐かせたか。ヤハタの拷問を回想。

「だが、なぜ神を人質に取ったのだ。表立って神々の軍勢を敵に回す利点は何だ」

「好んでしたわけじゃないだろうさ。それしか手段がなかったんだ。泉への案内役という意味でも、天界に這入り込むためでも。アリスは死者だが、ヤハタはまだ生きてるんだろう?」

 どこか悔しそうに、デューイは言う。

 憎んだ男は、殺したいと願った男はまだ生きている。

「生者が天界に入るためには、こちら側の誰かに招き入れてもらうしかない」

 だからといって神を選ぶとは、意想外だったけれど。

「他に何か知りたいことは? 禍根があるからね、ぼくがヤハタを庇うことはないよ」

「もう充分だ」

 ドクガは席を立つ。

「追うのか?」

「無論だ」

「ぼくはどうすればいい」

「貴様はもう自由だ。好きに生きろ」

「ぼくの〈複製〉はなかなか強力な魔法だと思うけど、力添えはいらないかな。……ヤハタは手強いよ、とても」認めるのは癪だけれど。

 ドクガは足を止め、一度だけデューイを振り返る。

「見縊るな。魔法も持たない人間に後れを取るほど、神の軍勢は易くない」

「……アンタの面構え、正義って顔じゃないよ」

「世迷言もほどほどにしておけ。神に仕える我々が、正義でないはずがないだろう」

 扉が閉ざされ、軍靴の音も遠ざかっていく。その場に残されたデューイは張り詰めていた糸を切らせ、背もたれに体を預ける。疲弊と倦怠に襲われ、意識が朦朧とする。

「……これで、自由か」

 運がよかった。この騒動がなければ裁きは免れなかっただろう。その意味ではヤハタに救われたのだが、感謝の念は、当然ながら湧いてこない。

「それにしても、ヤハタ、ぼくはアンタを尊敬するよ。神の目を掻い潜ることくらいはぼくにもできたけど、神の喉元に刃を突き付けるなんて、アンタも大概壊れてる」

 不思議な気分だった。あれだけ燃え盛っていたヤハタへの怨嗟は跡形もなく消え去り、畏敬の念だけが胸中にあった。

「どうしてだ。どうして、ぼくはヤハタへの怨嗟を忘れた?」

 手のひらを天蓋へと伸ばす。濃厚な蜜の香りに思考が溶けていく。

 どうしようもなく、眠い。目を閉じれば、もう開けられない。

「ぼくは……ヤハタを憎んだ」確かめるように、かつての殺意に触れる。

 ふと、デューイはあの夜を思い出す。連綿と組み上げてきた復讐劇の末路を思い返す。

〈ヴァローナ〉を代行者としてけしかけ、失敗した。

 ヤハタに娘を消滅させようとして、失敗した。

 この手でヤハタを殺そうとして、失敗した。

 最後の手段、人智では到底敵うはずのない魔法に訴え、それでも失敗した。

 ことごとく、少年の復讐劇は失敗の連続だった。

「あぁ、ぼくは諦めたのか。納得して、認めてしまったのか」

 腕を目に被せる。暗闇の中、ヤハタの姿だけが遠ざかる。

「ぼくにはヤハタを殺せないんだ」

 悔しいわけではなかった。ただ、涙を落とした。



「奴は聖別の泉に向かった。目的は娘の復活だ」

「その情報は確かですか。デューイ・マルカルが我等を誑かしている可能性は?」

「虚言封じの呪いをかけておいた。奴の言葉は真実だ」

「そうですか。少年はどうしました? 自由にしてやったと伝え聞きましたが、また神に叛く可能性はないのですか?」

「それこそ要らぬ心配だ。虚言封じとともに忘却の呪いをかけた。奴を復讐に駆り立てていた未練は消え去った。神に叛くだけの意志も、動機も残されていない」

 未練によってのみ繋がりを持つことのできる〈神様の子供〉から未練を奪ったら、その魂はどうなるのか。末路を知っているからこそ、エウロパは眉根を寄せた。

「いやはや、ドクガ殿も情がない」

「消失を免れたのだ。その程度の喪失、安いものだろう」

 その言葉が本心から出てきたとは思えなかった。この身は神々の軍勢の一角なのだから、誰かの喪失に心を痛めるくらいはあるだろうと思いながら、僅かばかりの感傷も湧き上がってはこない。ドクガ・ハインリッヒの敬愛の対象はボナパト・アルムヘルクであり、彼女に牙を剥いた者については、一片の存在さえも許しておけない。

 狂気とも呼べる神への信仰は、ドクガにとってデューイを唾棄すべき存在へと変えた。

 自由を与えるつもりなど初めからなかった。

 未練を奪い、歩み続けるための意志を挫かせた。

 あの少年は無意味で、無価値で、存在に能わない。

 エウロパを付き従えたまま、ドクガは神殿内の厩舎へと向かう。

「貴様は部隊を編成して聖別の泉へと向かえ」

「……ドクガ殿はどうされるのですか」

「俺はすぐにここを発ち、奴を追う」

「一人では危険です。行き先が分かっているならば部隊の編成を待つべきです」

神威の車輪ゴルディアスホイールに追い付くためには一角獣ユニコーンを使うしかあるまい。あれは一頭のみだ」

「しかし、」

 なおも食い下がるエウロパを振り返り、ドクガは声色を柔和に染めた。

「分かってくれ、友よ。俺はただボナパト様の恐怖を拭いたいだけなのだ」

 正面から見つめられ、エウロパは言葉を失う。禁則事項システムの代行者となるために己の感情を封じてきた友の言葉に、反駁することなどできなかった。

(姫様、あなたは今、苦しんでおられますか?)

 相手のいない問いかけに、ひそかに、そうであろうとエウロパは思う。

「…………我々もすぐに追いかける。姫様を頼んだ」

「無論だ。神の安寧を保つために俺がいる」

 ドクガが厩舎に姿を現すや否や、従僕が駆け寄る。その傍らに、駿馬を引きつれながら。

 神話に語り継がれる白馬ではなく、そのユニコーンは黒馬であった。雄々しい巨体と額から反り立つ一角。天界の至宝はドクガと正対し、鼻息も荒く巨体を震わせた。

「久しいな、ディアドラ」

 ディアドラのたてがみへと触れ、ドクガは阿るように告げた。

「神の危機だ。神獣としての貴様の膂力を貸してくれ」

 ディアドラは言葉を解さない。代わりに頭を下げ、ドクガへと鞍を向けた。

「頼む」

 確かめるように呟き、ドクガは鞍に跨る。手綱を握り締めると数歩だけディアドラを進ませ、眼下のエウロパを一瞥した。

「たかが人間とはいえ、侮らないでください」

「心配するな。俺にはボナパト様より賜った〈先見の明〉がある」

 魔眼を示し、ドクガは彼方を睨むと、みなぎらせた覇気とは相反するほど静かにディアドラの脇腹を足で揺すった。合図としては、それで充分。騎手の静寂を吹き飛ばすかのようにディアドラは雄叫びを上げ、大地を砕かんばかりの勢いで猛然と駆け出す。

 一歩、進むごとに全身が熱くなる。鼓動は極度に高鳴り、視界は加速する。委細の風景は消滅して光の帯としか捉えられない。呼吸もままならないほどの風圧。瞳はたちどころに乾き、振り落とされないようにと手綱を強く握る。肉体は減速を嘆願したが、聞き入れはしない。

 速く、速く、一秒でも速く神前へ。

 大地を蹴る音も高らかに遠ざかっていくドクガを見送り、エウロパは胸中で語りかける。

(油断されるなよ、ドクガ殿)

 熱はエウロパにも乗り移っていた。従僕へと短く告げる。

「戦士長を呼べ。我々も出るぞ」

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