大罪人の言葉

 神が人間に攫われたという報せは、様々な憶測を交えながら神殿内を駆け巡った。半狂乱の騒ぎは留まるところを知らず、遂にはそのような俗事が届くべくもないところ、神殿の地下にまで及んだ。

 贅と趣向が凝らされた地上の聖堂からは想像もできないほどに陰気な地下施設。冷たい岩肌と鉄格子で区切られた小部屋の数々。照明も最低限しか焚かれず、薄暗く、嫌に静かだった。

 そこには一人の少年が収容されていた。

 鋼鉄の手枷と足枷を填められ、目に蔽いアイマスクを被せられた少年は銀髪と褐色の肌の持ち主だった。死んでいるのではないかと疑うほどに少年の吐息はか細く、もう随分のこと身動ぎもしない。看守はしおらしく悔恨に沈んでいるのだろうと思っていたが、その実、少年は虎視眈々と機を窺っていた。視覚を奪われ、体を拘束されたが、聴覚と嗅覚は生きている。

 そっと鼻から息を吸う。無臭。音を探る。静寂。

 こうやって拘束されてからどれほどの時が過ぎたのかも分からない。半日かもしれないし、一日かもしれないし、まだ数時間しか過ぎていないのかもしれない。

 時間の経過を知るための手段は、ことごとく断たれていた。

 体を横たえさせた床の冷たさと硬さ以外に、刺激は何もなかった。それは〈内側〉についても同様で、心臓が脈打つ感覚も、腸が蠕動する感覚も、空腹や渇きさえも一向に訪れない。意識があるだけの時間、あるいは半ば強制的に意識だけを継続させられている時間。

 眠りに逃げることも許されない。常人であればすでに狂気に襲われていただろう。

 だが、少年に悲歎の色は見えない。彼はひどく穏やかで、落ち着いていた。

 そっと瞼を持ち上げる。目隠しをされているために何も見えないが、心なしか暗闇が和らいだように思えた。瞳を動かす。上下、左右に。眼球と眼窩が擦れ合う感触さえも鮮烈だ。

 腹を圧し潰すように息を吐き出し、少年は意識を研ぎ澄ませる。紅瞳がウィスタリアに染まり、目隠しの裏側に光が燈る。瞳孔が拡散する。チリチリとウィスタリアが揺らめき始め、光の外縁が一筋の閃光となって弾けたとき、少年の脳髄を凄烈な痛みが貫いた。

 堪らず背を仰け反り、呻き声を漏らす。痛覚は消えることなく残留する。

(あぁ、クソ。やはりそうか)

 乱れた呼吸を整えながら、痛覚の残滓を噛み砕いた。

 それからまた、どれほどの時が過ぎたか。音が生じた。話し声だ。随分と離れていたため、話の内容までは分からない。次いで足音が響く。慌ただしく。静謐そのものであった地下の牢獄が騒々しくなるまで、さほどの時間は要さなかった。騒ぎの中心は徐々に少年のいる場所へも移っていく。断片的ではあるが、会話の中身が聞こえるようになった。

 ひどく焦りを滲ませた声。あるいは嚇怒を滲ませた声。そのほとんどは悲鳴に近しいものだったけれど、会話には〈神様〉というフレーズがひっきりなしに登場する。

(神、あの奇怪な姿をした少女のことか)

 道化服の神様を思い出すと、少年はなんだか愉快な心持になった。少年も他人のことを笑えるような外見をしていないが、あんな未熟な少女に世界が委ねられたのかと思うと、自分のような綻びが生じたのも納得できるというものだ。

(それで、神に何が起こったんだ)

 悲鳴――神が攫われた。

 悲歎――ボナパト様が卑しい人間の手に落ちた。

 憤激――これほどの悪逆はかつてなかった。

 少年はうるさいものだと耳を背け、はたと、神に害を為すなどと大それた罪を犯した人間とはどんなものかと気に留めた。

 確証はないが思い当たる節がある。その人物に動機があることも知っている。そもそもの火種は少年が起こしたのだ。どのように燃え広がったのかは知らないが、もしも面白い方向へと延焼していたなら、アイツこそが渦中の人物に違いないだろうと少年は微笑んだ。

「なあ、誰かいないか」

 少年は声を上げる。ついでに手足をばたばたと動かし、枷の鎖を騒がしく鳴らしてみせる。

「うるさい! こっちは一大事なんだ、お前にかかずらっている暇はない」

 声変わりの終わっていない青年が苛立ちげに応える。

「事件が起きたことは知ってるよ。神が攫われたんだろう」

「お前みたいな大罪人には関係ないことだ」

「そんなに無碍に扱うなよ。ひとつ、面白い推理を披露してやろう」

 少年はいもむしのように床をのたうちながら、声の聞こえてきた方角、牢獄の入口へと這い寄る。鉄格子に頭をぶつけたことで前進をやめ、少年は胡乱げに首を振る。

「……こっちだ」

「あぁ、そっちか」

「それで、何を聞かせてくれるって言うんだ」

「神を攫った大罪人。あぁ、ぼくが言えた立場じゃないが、その不逞の輩の正体だ」

 失望というより呆れ果てたという感じだった。視覚を封じられているからこそ他人の雰囲気に敏感になっている少年は、まあそうなるだろうな、と唇を尖らせた。

「あほなことを言い出すくらいならお前は自分の心配でもしてろ」

「いいから聞いておけ。まず、その大罪人は男だ」

「世界の半分は男だ。そんなのは当てずっぽうでも当たる」

「そうか、じゃあ続けるぞ。男は黒髪で肌は蒼白。背丈は百九十センチほどの偉丈夫。年齢は四十近く。武器を持っていたとすれば高確率で狙撃銃ウィンチェスター。それから男は一人じゃない。もう一人、金髪の女の子を連れているはずだ」

 捲し立てられたことで圧倒したのか、看守の青年は暫し言葉を失い、

「俺は直接見たわけじゃないから、分からねぇ」とだけ返した。

「それなら上に行って、目撃したであろう奴にぼくの言葉を伝えてよ。それが一致していたなら戻ってきて、ぼくをここから出してくれよ」

「だ……誰がそんなこと。神を裏切った、大罪人の言葉を鵜呑みにするなんて……」

「ぼくは鍵を握っているかもしれないぞ。大罪人の言葉だからと一蹴することは結構だが、アンタの勝手な判断で鍵が失われたとして、神様が傷付けられたら責任を取れるのかなぁ」

 青年の気色が揺らぐ。迷っている。戸惑っている。

「ぼくだって反省してるんだ」心にもないこと。

「神様のために何かしたいんだよ」もう一押し。

「お願いだ、償わせてくれ」誠実そうに装って。

 青年の呼吸が乱れたことで、折れたなと確信する。

「…………分かった。確認だけはしてみよう」

「その必要はない」

 間髪入れず、声が割り込む。驚いた様子はなく、少年は機械じみた動きで首を捻る。

「アンタは?」

「ドクガ・ハインリッヒ。神に仕える元老の一人だ」

「元老様か。アンタなら件の罪人の姿を見てるんじゃないか? どう、当たってる?」

 返事はない。だからこそ、少年は確信する。奴が来たのだ。

「男の名前はヤハタ・エインズワースだ。ぼくをここから出してくれよ」

 手枷を胸の前で揺らし、禁則事項の逸脱者、デューイ・マルカルは訴える。

「天界の汚点かもしれないが、この件に関してはぼくは役に立つよ、ハインリッヒ殿」

 保身のためには何もかもを利用しよう。少年の復讐は、まだ完遂していないのだから。

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