Yahata

御身のために戦うはいつか

 絢爛と清廉を兼ね備えた白磁の部屋の中央で、身の丈が二百センチに達そうかという偉丈夫は野太いため息を吐いた。積年の苦労を象徴しているのか、男の顔には深い皺が刻まれている。瞑目したままうな垂れる姿はまどろんでいるようにも見えるが、直立不動の姿勢からは覇気が滲み出ていた。

 身に付けた赤錆色の甲冑をギシギシと軋ませつつ、男は部屋の最奥へと歩みを進める。部屋の左右では、中腹から上に向かうにつれて細くなっていく様式の柱――エンタシスの柱――が等間隔で並べられ、八メートル上空の天蓋を支えている。あまりにも広大な聖堂。ステンドグラスをすり抜けてきた光により、聖堂は淡い虹色に染まっている。

 ビロードの絨毯を進んだ先、部屋の最奥には大理石の玉座が寂しそうに置かれていた。その椅子に座しているべき御方が不在であること、それが男を悩ませていた。

「本当に、困ったものだ」

 苦々しく、呻くように愚痴をこぼし、甲冑の男は背後を振り返った。

「いるのだろう、エウロパ」

「ばれていましたか。さすが〈先見の明〉を持つだけのことはある。容易には騙すことなどできませんね」軽薄がカタチを得たような調子で、柱の影から栗毛の男が姿を現す。

「……その目は何だ。ニタニタと、軽薄さに磨きをかけおって」

「いえいえ。元老院を治めるドクガ殿も姫様相手では形無しだな、と思いまして」

「姫様などと呼ぶな。あの御方はすでに神であらせられる」

「ドクガ殿がそう思われようとも、小生は姫君であったボナパト・アルムヘルク様に忠義を誓い、また養育を仰せつかっておりましたからな。やんちゃであった盛りは忘れられそうにもない。こうして玉座に座られようとも、小生にとっては姫君のままなのですよ」

「ふん、勝手にしろ」

 半ば諦めるように視線を逸らしたドクガは、空っぽの玉座を愛おしそうに擦る。

「姫様はまた下界遊びですか?」

「そうだ」

「御伴はいるのですか?」

「シモンとトロルをつけたが、目を眩ませられたようだ」

 エウロパは愉快そうに口笛を吹いた。

「シモンとトロルを撒いたと! いやはや、追跡の魔法を打ち破るとは姫様も成長なされた」

「笑い事ではない。神に大事があれば、首を落とされるのは我々だ」

「元老に処罰を下せるのは神のみという掟でしょう? 小生はともかく、ドクガ殿には縁遠い悩みだ。何せ、姫様は心優しい御方だ。臣下の命を奪うことなど望みますまい」

「裁きによって道を定めることなどしてはいけない。ヒトであった頃ならばそれも許されただろうが、我等は神に仕えているのだ。信念を貫き通した道の先に裁きがあるのだとしても、足を鈍らせてはならない」

「小生はドクガ殿のようにはなれそうもない。元が打算的な人間ですからね」

 エウロパは肩を竦め、ステンドグラスの天窓を仰いだ。

「今宵は、月が並びましたか」

 常時であれば謁見の間を照らしているはずの太陽は視えず、月が空に孔を開けていた。月の外縁から僅かばかりに滲み出た陽光は、陽炎を思わせるほどに揺らめく。

「不気味な空だ。このような日は、どこか不安になる」

「ドクガ殿でも空からは読めないのですか」

「可能だ。だが、使わなくて済むならば、魔法になど手を染めるべきではない」

「おや、これは意外だ。ドクガ殿ほど魔法を好いている御仁はいないと思っていましたが」

「好いてはいるが、それは神に仕えるからこそだ。私的に使うのは好まない」

「……それは、元老の矜持というやつですか」

「いや。俺の魔法は――……世界をつまらなくしてしまうからな」

 そう答えたドクガの表情には、退屈を嘆くような憂いが影を落としていた。

 なるほど、とエウロパも茶化すように話をたたみ、瞳を伏せさせる。〈先見の明〉を神より与えられた偉丈夫は、神の守護者となる代わりに人間としての愉悦を失ったのか。

 常々、高みに在り続けるとは、基礎的な欲求を削ぎ落とすことなのだ。

「それに、心配せずとも神は間もなく帰って来られる。魔法で探るべくもない」

「どうして分かるのですか」

「分からんか? 貴様の魂に一点の翳りを感じられるように、あの方の魂には眩いばかりの輝きが宿っている。こちらに近付いているときには、自ずと肌が粟立ち、胸が高揚するものだ」

「酷い喩えですが、なるほど、その感覚には覚えがあります。とすれば、すでに……」

 何気なくエウロパが聖堂の天蓋へと首をもたげたとき、見計らったように神の帰還を告げる鐘が鳴り響いた。死者の眠りを揺り動かすように長く響く鐘の音とともに、聖堂はにわかに慌ただしくなっていく。活気づく、と言った方が正確か。神の気紛れに振り回される臣下達は異口同音に嘆いてみせるものの、内心ではボナパトの破天荒な性格を微笑ましく思っている。ドクガもエウロパも、僅かに頬を赤らめ、苦笑を浮かべてみせた。

「さて。それではお出迎えに参りましょう」

 エウロパは足取りも軽く謁見の間を後にしたが、ドクガの足取りは重かった。意図して、ではあるが。ドクガの立場上、何よりも先に苦言を呈さなければならないが、愛しき姫君は「耳タコだよぉ」などと頬を膨らませ、ドクガの言葉を遮っては土産話に花を咲かせるのだろう。

 ドクガも呆れた風に首を振り、二度目はありませんぞと何度も繰り返してきた言葉を告げ、そっとボナパトの話に耳を傾ける。

 神である前に、天界の姫君である前に、ボナパトは長らく仕えてきた主君なのだ。

 主君の見聞が広がることに、どうして不満など抱けようものか。

「エウロパ、一度は拳骨を落としてみようかと思うのだが、どうだろうか」

「それはいいですな。姫様がどんな顔をされるのか、小生も見てみたい」

 軽口を交えながら、二人の忠義に厚い臣下は神の御許へと馳せ参じる。

 聖堂の最奥、玉座の直上では、月に蝕まれた太陽がなおいっそう揺らめいていた。



 広大な神殿の最南端には石膏の橋が架けられている。橋は本来あるべき姿の半分しかなく、ちょうど真ん中の部分で終わっていた。橋の手前側、ドクガとエウロパがいる方には神殿が控え、橋の向かう先、その正面には蒼穹が広がっている。絵の具でも垂らしたかのように空は均一にコバルトブルーに染まり、綿毛のような雲が淡くかかっている。

 橋の手前には五百を超える人々が犇めき合っていた。甲冑で身を固め、聖槍を掲げた兵士。廉恥のステラを着た女官。司祭服と司教服の老人。子供の姿もちらほらと見える。

「我等が姫君は愛されているようですね」

 群衆の最前列でエウロパは感嘆しつつ、頑張ってください、とドクガの肩を叩いた。

「また女官から反発を買ってしまう」

 ボナパトを諫める立場にあるドクガは、役目を全うしようとすればするほど女官に冷徹な男だと見做されるのが常だった。元老であるにもかかわらず伴侶が見つからない現状は、九分九厘、ボナパトに責がある。残りの一厘はドクガの不愛想さに由来するけれど。

 ラッパが吹き鳴らされ、神の凱旋を知らせる。

 人々は揃って口を閉ざし、それまでの騒めきは消え失せ、すっかり静まり返る。静寂の中、蒼穹に亀裂が生じた。横一文字に走った亀裂は細かな網目模様を描きながら広がっていき、甲高い破砕音とともに大空に孔が開く。

 孔の向こう側は嵐に見舞われていた。夜闇の中で稲妻と思しき閃光が駆け回り、流砂が風を可視化する。内腑を揺さぶる轟音は、幼子の悲鳴のようにも聞こえる。

「これは……、どうしたことだ」

 神の凱旋のはずだ。森羅万象が平伏して然るべき、安寧の象徴である神が踏み締める道が、どうしてこんなにも荒れ果てているのか。ざらり、と砂を食むような感覚に襲われる。

 何かが起きたのではないか。神の御身に、不忠者が歯牙を突き立てたのではないか。

 焦燥と猜疑に苛まされながらも、嵐の渦中に人影が見えたことで人々は平伏する。ボナパト・アルムヘルクだと誰もが信じようとした。その人影が愛すべき主君であると断じた。

 だからこそ、反射的に跪き、頭を垂れた。敬意と忠義を示すために。

 ただ一人、ドクガ・ハインリッヒを除いて。

「エウロパ……、面貌をあげよ。あれは俺の見間違いか」

 ドクガに促され、エウロパは伏せさせた瞳をもたげ、信を置く元老の視線を追いかける。

 そして、彼も事の異常性に気付いた。

「二人、いる……?」

 どのように目を凝らそうとも、見える人影は二つあった。小さく、線の細い人影シルエットと、寄り添うように大きな人影。

「誰だ。あれは何者だ⁉」

 誰何の叫びに促され、臣下達は次々に顔を上げ、騒めきは伝播していく。誰が発したのか、悲鳴が遠く聞こえる。一千の瞳に注視されながら姿を現したのは、初めに道化服の少女ボナパト・アルムヘルク、次いで夜闇のような黒髪の男だった。ドクガに勝るとも劣らない偉丈夫は背中にウィンチェスターを吊るし、右腕で金髪の少女を抱え上げ、原罪の手ひだりてで握り締めたナイフを神の首元にあてがっていた。

 理解などできようはずもなかった。そんなことがあり得るのか、と疑う。

 神の庇護を受ける人間が、神へ叛意を露わにするなど。

 つと、ボナパトが声を絞り出す。助けてくれ、と悲痛な響きでドクガへと請う。

 触発され、醒める。己の責務を思い起こし、ドクガは黒髪の男を睨み、耳を塞がずにはいられないほどの大音声で叫び上げた。

「貴様、その手を離さんか。その御方を誰だと心得る」

 今にも斬ってかからんばかりの剣幕。だが、天界への闖入者は少しも動じる様子を見せず、眼下の人波を睥睨した。その瞳は、ドクガの心胆を寒からしめる。この世の何もかもに見切りをつけ、己の身命を擲つことにも、神を傷付けることにも些かの躊躇を抱いていない。

 あの男に届く言葉など、果たしてあるのか。

「要求はただひとつ」囁くような声だったが、明瞭に響く。

「俺にかかずらうな。俺の行動を見逃せ。不干渉さえ約束されるならば、危害は加えない」

 見せつけるように、銀鏡の刃が煌めく。発言さえも許さないと示す。そして男はボナパトの耳元に口を寄せた。何を告げられたのかドクガには分からなかったが、ボナパトは怯えた様子を見せながら銀の笛を取り出した。震える唇で笛を咥え、強く、息を送り込む。

 ピィ――――ッ!

 甲高く笛は鳴り、鮮烈に雷鳴が轟いた。蒼穹は瞬くうちに雷雲に覆われ、猛牛の嘶きとともに鋼造りの戦車が姿を現す。戦車に繋がれたのは雷電と火炎を纏った牡牛。

神威の車輪ゴルディアスホイールだと⁉」

 ゴルディアス王がオリュンポスの主神に捧げた供物。

 イスカンダルが〈結び目〉を断ち切ったことにより一度は人間の手に渡り、世界の果てを夢見た王をインダス川まで至らせた〈開拓のチャリオット〉。神速と絶対の踏破を誇る秘宝の存在を、神話の続き、ボナパトが所有していることをどうして人間如きが知っているのか。

 行かせてはならない。ここで留めねばならない。

 ドクガは音もなく、しかして猛然と動き出す。橋を渡り、空を駆け上がり、主君の元へ。

 だが、急襲をかけるドクガにはにべもくれず、闖入者は戦車へと乗り込む。

「待て!」

 腰の剣を抜き払い、男のこめかみ目掛けて投擲する。ドクガが駆けるよりもはるかに速く剣は男の元に到達したが、その切っ先が血を躍らせることはなかった。

 一秒にも満たない僅かな隔たり。動き始めの差が、状況を男の利へと傾けた。

 戦車が動き出す。助走などという概念はなく、牡牛が空を踏み蹴った瞬間には、戦車は百メートルの彼方にあった。転移そのもの。空間が捻じ曲げられる。

 一度は迫った。剣の切先は、神に仇なす不忠者の脳髄を貫いていたはずなのだ。

 前を睨む。遠ざかる男の貌を、一片の慈悲もなく誅伐すべき咎人の貌を焼き付けるために。他色の共存を許さない濃厚な黒髪、蒼白の肌、世界の理不尽を嘆くかのような光を失した眼。

(忘れてなるものか。貴様の首は、神を穢したその腕は、俺が必ず斬り落とす)

 殺意を研ぎ澄ますドクガへと、闖入者の男は一度だけ振り返った。唇が微かに動かされ、男は手綱を振るった。神威の車輪は一流れの光となり、ドクガの視界から消える。

 戦車の残影を眺めながら、ドクガは憤怒のあまり拳を握り締めた。

「安心しろだと⁉ 慰めのつもりか⁉」

 去り際に、男はそう言い残した。そのような言葉、皮肉としか受け取れない。或いは侮蔑か。父王リンガー・アルムヘルクの統治するときより神に仕えてきた自負は叩き割られた。

「ドクガ殿!」

 呼びかけに振り返る。おそらく自分も同じような様子なのだろうと思いながらも、エウロパの焦燥に満ちた貌を見て、ふと気持ちが和らぐ。冷静になった心は動き始める。

「エウロパ。我等は人間を傷付けてはならないと定められていたな」

「えぇ。それが神の制定した摂理です」

「では、神に対して罪を犯した者を裁くことは――その魂に終焉を迎えさせることは我等の禁じられた事柄か?」即応で、否と返る。

「答えよ者共」聖別された軍勢を見渡し、最も義に厚き者として賛美される男は問いかける。

「斯様な要求に従う道理が我等にあるか」大音声で、否。

「御身のために戦うはいつか」聖槍が掲げられ、石突が大地を打つ。今こそ!

「なれば追え。方々に散れ。武威を示せ。必ずや後悔させてやろうぞ」

 鬨の声が上がり、雪崩を打ったように眼下の軍勢は動き出す。

 狂乱と見紛うばかりの喧騒を見下ろしながら、ドクガは静かに胸の前で十字架を切る。

「名も知らぬ人間よ、神に仇なした愚か者よ。心より貴様に同情を示そう。貴様の叛きは神々の軍勢を敵に回した。貴様の首は、貴様が貶めた神によって落とされるであろう」

 禁則事項システムに保障された殺人、神に認められた魂の略奪。ドクガ・ハインリッヒは大義名分を手に入れた。これは誅伐、神の安寧を取り戻すための正義の執行であると。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る