切り札《ジョーカー》

 現世は終わりを迎えた。けれど続きがあることをヤハタは知っている。

 ヴァローナと邂逅したことで死後の世界の存在を知り、

 干渉を拒まなかったためにデューイと出遭い、

 愛娘であるアリスを破滅へと至らせ、彼自身もデューイによって殺された。

 何ともくだらなく、胸のすかない、安っぽい三文芝居のような脚本シナリオだ。救いも希望もありはせず、ただ未練だけが残された。ヤハタを破滅へと導く、デューイへの未練の胤が。

 行き場のないやるせなさを嘆息とともに吐き出し、ヤハタは意識を覚醒させた。硬直した瞼の筋肉を僅かに痙攣させ、眼球がゴロゴロと転がる感覚に若干の気持ち悪さを抱きながら目を開ける。暗闇にやわらかな光が射し込み、見上げた先は、知らない天井だった。

 曼珠沙華を想起させる紅塗りの天蓋と、薪がくべられただけで火種のない暖炉。鉄格子を通された窓の外には、夜の帳が降りている。この部屋も、外の景色も、まるで見覚えがない。

 ここが死後の世界なのだろうか。どこか浮世離れした空気が流れているようにも思えたが、想像していたものと比べれば、どうにもそれらしくない。平凡なのだ。魔法などという〈逸脱〉が横行する世界だ。たとえば路傍の石を拾い上げただけでも現世との差を感じられそうなものだが、この部屋は絢爛であることを除けば特に際立ったものがない。

 ブランケットを払い除け、ベッドから降りる。一緒に終わったのだから目覚めも同じ場所だろうと思っていたのに、室内にアリスの姿は認められなかった。

 それとも、と嫌な疑惑が脳裏を過ぎる。禁則事項によってもたらされる終わりには続きなどないのではないか。その先には晦だけが犇めいているのではないか。

 全てが終わった後には、虚無だけが残されるのではないか。

 なぜならヴァローナは〈消える〉と表現したのだから。

 疑惑が焦燥へと移り変わるのにそれほどの時間は要さなかった。ヤハタは足早に部屋の扉へと歩み寄り、乱暴に押し開く。微かな蝶番の軋みとともに扉は驚くほどなめらかに開き、

「あぅ……っ」

 何かにぶつかって止まった。舌たらずな声の悲鳴に訝しみ、扉の裏を除く。

 そこには何とも珍妙な着飾りをした、十六歳ばかりの少女が両手で額を押さえ付けながら悶絶していた。一般に想像されるような天使の清廉な衣でも、出遭った当初のヴァローナが着ていた擦り切れた衣服でもなく、少女の衣装は道化そのものだった。鈴の付いた帽子を被り、右半身は赤と白の縞模様、左半身は青地に白抜きの星を散りばめた模様のワンピースを身に付け、上半身の模様を左右で入れ替えた柄のタイツを履いている。

 珍妙も珍妙。サーカスの楽屋にでも迷い込んだのだろうか、と疑う。

 不躾に注がれる視線を感じ取ったのか、少女は小さな瞳をくりっと回してヤハタを見上げ、

「初めまして、ヤハタ・エインズワースさん」

 当然のように名前を呼んだ。知っていて当然だろう、と誇るように。

「……アンタは?」

「私ですか? おや、御存知ない?」

「……悪いが知らないな」

「それでは自己紹介といきましょうか。訊かれなくても、名乗るつもりではありましたけど」

 チリンチリンと頭の鈴を鳴らしながら、少女はぐっと背を反らす。

「私の名前はボナパト・アルムヘルク。あなたの応対を仰せつかりました」

「……誰から?」

「神様です。天使は神以外には従いません」

「天使にしては、変わった格好だ」

「前衛的でしょう?」

「奇怪だ」

「お褒めいただきありがとうございます」

 皮肉が響いた様子もなく、ボナパトと名乗った少女は仰々しく頭を下げた。煌めくようなブロンドの髪が一斉に帽子から溢れ出し、少女の目を覆い隠した。

「美麗について談義を咲かせたいところではありますが、ヤハタさんの胸中には積もる話もあることでしょう。まずは、先にそちらを片付けることとしましょう」

 ボナパトは静かに頭を持ち上げ、真下から窺うように、ヤハタを覗き込んだ。妖しく、囁くように。事実を告げる。ヤハタの誤解を正し、デューイの失敗を嘲弄するために。

「あなたはまだ死んでいません」

 耳を疑う。息を詰まらせる。

 終わったとばかり、思っていた。デューイの魔法を前にして確信した。覚悟した。

 あぁ、もう終わる、と。もう死を避けることは適わないと、諦めた。

 何かしら言葉を返そうとして、驚きで潰されたためにおかしな呻き声としかならなかった。

「生きています。ヤハタさん、あなたは確かにまだ続いています」

 念を押すようにもう一度告げ、気持ちを整理するための猶予を与えるためにボナパトは閉口した。まだ生きている、まだ終わりを迎えていないと告げられ、ヤハタの心臓は高鳴る。寒け立ちながら、全身に巻かれた包帯と、体中を支配する熱と疼きの正体を知る。

「生きているから、俺はまだ傷を負っているのか」

「はい。死因が死後の肉体にも影響を与えるようなエラーを、神はお見過ごしになりません」

「俺が生きているのなら、アリスは」

「娘さんも生きています。肉体を有さない魂のみの残留が〈生存〉と呼べるのならばですが」

 胸を占めた、火傷しそうなほどの熱。視界がぼやける。

「失われていないなら、」アリスがまだ虚無の向こうに落ちていないなら「すべて僥倖だ」

 前向きですね、とボナパトは頷き、

「けれど、あなたの望むような結末には辿り着けないでしょう」

 とても冷え冷えとした声音で続けた。チリン、チリンと鈴の音が空疎に鳴り響き、少女の眼窩に深い影が落ちた。唇を尖らせながらはにかむ少女の面貌は、どこか魔性という表現が似つかわしいように思えた。天使どころか、神様の子供と表現することも相応しくない。

 ボナパトの胸中に渦巻く、真っ黒な謀略。

「どういうことだ」

「娘さんのところまでご案内します。少しばかり歩きますので、道中、説明します」

 その場では決して応えず、ボナパトはすたすたと歩き出す。諦めたのか、ヤハタも煩悶を抱えたままで少女の背中を追った。

「初めに断っておかなければなりませんが、人間の想像する〈全知全能の神〉と、実際の神との間には歪みが生じています。天界、人間界は言わずもがな、この世界のどのような存在よりも為せることの絶対量が優れているだけで、数多の命への権限を有しているだけで神にも不可能なことはあります。その最たるものが人間の管理です」

「そんなことも、できないのか」

「はい、不可能です。数の暴力とでも表現しましょうか。神は一人、神に仕える天使は数億、しかし過去と未来を合わせれば管理すべき人間の数は計り知れません。かつて神は〈産めよバース増えよインクリース地に満ちよフィル・ジ・アース〉と宣言されました。私からすれば産みすぎです、増えすぎです」

 ボナパトは左手をひらひらと降り、後ろ手に何かを放った。反射的に受け止める。どこから取り出したのか、開いた手のひらの中にはチェスの駒があった。

「人間の管理とはチェスのようなものです。自分の駒は管理できます。神ならば相手の駒にも干渉できます。けれど、そもそも盤上に乗り切らない駒にまで手は及びません。やるかやらないか、そんな問題じゃありません。単純な人手不足、実力の限界です」

 ボナパトはまたも手を振り、今度は溢れ返るほどの駒をバラバラと床に落とした。手を振るだけで無際限に駒を生じさせていく後ろ姿は、まさに道化師そのものだった。

 廊下はたちまち白と黒のまだらに染まっていく。

「あぁ、拾わなくていいですよ。後で片付けますから」

「拾えと言われたところで、拾い切れない」

 ボナパトの言動に呆れる一方で、なるほど、と納得する。拾い上げることもできないほどに手に余る。管理できないというのは、これに近しいことなのだろう。

「話を戻しますね。これは神が〈全知全能〉と謳われる所以にあたるのですが、神はチェスの棋士プレーヤーではなく、チェスというゲームそのものの創始者でした」

「すなわち、ルールの制定者だと?」

「えぇ。すでにお気付きのことと思いますが、神は人間を管理するために禁則事項を制定しました。一人ひとりを監視するよりもシステムを定める方が合理的だと判断したのです。事実、禁則事項は大変よく機能しました。しかしながら、」反語とともにボナパトの表情が引き締まる。常の剽軽さも失せて眼光は鋭敏となり、後悔ともしれない〈罪に酔う〉雰囲気が湧き上がる。

「此度のことが起こりました」

「デューイ・マルカルの暴走か」

「はい。あなたには私達の怠惰を咎める権利があります。私達は禁則事項システムを過信していました。依存していました。蒙昧に信仰していたのです。絶対者である神が定めたシステムに、エラーなど起こるはずもないと。デューイ・マルカルなどという、禁則事項の戒めから逃れることのできた存在など想定にもありませんでした」

「……デューイはどうなった」

「我々の拘束下にあり、審議会にて裁きを受けることになっています。会いたいですか?」

「いや、聞いてみただけだ」

「それで結構です。元より、望んだところで会うことなどできませんから」

「禁則事項に抵触するからか」

「いいえ。もっと単純に、報復の可能性を拭うためです」

 淡々と答えた神の遣いであるボナパトには、特に悪びれた様子もなかった。

 神に近しい存在だからそのように感じているのか、それともかつてはヒトだったからなのか、ボナパトにとって人間はそのように定義されるらしい。

 野蛮で、理性に欠けると。

 右の頬を叩かれれば左の頬を差し出すのではなく、相手の頬を叩き返すのだと。

 それで正しい。聖人君子のような扱いをされるよりは理に適っている。

「おや、珍しい。人間なんてそんなものだと言ったら、怒りだす人が大半なのに」

 チリチリと鈴を鳴らし、ボナパトは艶然と微笑んだ。

「デューイ・マルカルの暴走を私達が察したのはあまりにも遅く、あなたが致命傷を負い、娘さんが消滅の危機に瀕するまで、私達は傍観者に過ぎなかった」

 システムの信奉者だった、とボナパトは歯切れの悪そうに付け加えた。

 沈痛な雰囲気を後ろ姿に浮かべながら、少女は押し黙り、ヤハタの先を歩く。随分と歩いた。右には窓のない緋色の壁、足下には毛足の長い絨毯が敷かれ、左には樫木の扉が等間隔で設置されている。いくつの扉の前を過ぎてきたのかは分からない。変わり映えのしない景色に、らせん階段を上るかのような、同じ場所を彷徨っているのではないかといった錯覚さえ抱く。

 ところが、唐突に変化は訪れた。長くまっすぐな廊下の果て、突き当りが見えたのだ。

「あちらで娘さんが休まれています」

 訥々と告げられた言葉に、走り出したくなる衝動に襲われる。同時に、不安で足が萎える。

 ボナパトはヤハタに〈望んだ結末にはならないかもしれない〉と告げた。失われなかった、未だこの世にしがみついている。それを前提として、彼の望みとどのように乖離するのか。

 答えにはとうに辿り着いている気がする。ヤハタは〈望まない結末〉とやらがどのような姿をしているのか、とっくに気が付いている。けれど、アリスをこの目で見るまでは、そんな悪夢はどうにかして遠ざけたかった。思考の外に追いやっていたかった。

「娘さんに会うのが、怖いですか?」

「……まさか、」

「えぇ、あなたはそんな臆病者ヒトじゃない。どうぞ、扉を開けてください」

 廊下の端に寄り、ボナパトは扉を指し示す。僅かばかりの逡巡を挟み、ヤハタはドアノブに触れた。真鍮の安っぽい冷たさが手に沁みる。横目でボナパト・アルムヘルクを窺う。少女の目は伏せられていた。こちらに向けられていない。それは、とても極まりの悪そうに。

「大事なことをはぐらかされていた」

「何でしょうか」

「デューイ・マルカルに肉体を奪われ、アリスは魂のみで生きる存在となった。強奪が可能なら――奪われた肉体に魂を戻すことはできるのか?」

 しっちゃかめっちゃか。

 ボナパト・アルムヘルクの貌は正視に堪えないほど歪められた。

 あぁ、やはりそうなのか、と絶望する。心は重く凍り付き、視界は暗転する。

「……不可能なのか」否定を望んだ訊ねは、やはり肯定される。

「はい。アリス・エインズワースの魂と肉体を繋ぐ糸は断ち切れました。それは死と同義であり、解れた糸に結び目を作るなど因果律の崩壊そのものです。生命の流れは不可逆なのです」

 うな垂れる他に、ヤハタにできることがあっただろうか。言葉を絞り出す気力さえも湧かない。家族を取り戻すこと、ヤハタの生きるための言い訳は、因果の末に掻き消された。

 あの戦場での行為への、これが罰だと言うのなら、世界はなんと残酷なのだろう。お前は散々奪ってきたのに、奪われた途端に被害者ヅラかと追及されれば、そうなのだけれど。

(だが、違うだろう。アリスには、何の罪もなかったはずだ)

 唇を噛み締め、取り繕い様もないほどに失望で胸を満たしながら扉を押し開けた。

 扉の向こうは、緋色の廊下とは対照的に雪国のような装飾が施されていた。床一面に白妙の絨毯が敷き詰められ、白塗りの壁には、雪山を表しているのか灰色の墨で樹木に似た模様が描かれている。部屋の中が妙に明るいのは、天窓から眩いばかりの陽光が射し込んでいるためだった。天窓の真下、陽光が降り注ぐ中心に三脚の椅子が置かれ、座面の上で膝を抱えるようにしてアリスが座っていた。

 瞼の裏にちらつく鮮血にまみれた姿ではなく、清廉な白衣に包まれながら。

「アリス!」

 駆け寄る。僅かな距離も、もどかしく。アリスの前で膝を突き、細腕を取る。アリスは切迫した表情のヤハタをちらりと窺うと、少しばかりの感動も興味も示さずに俯いた。

「……アリス?」

 肩を揺する。されるがままに上半身を前後させ、頭をふらふらと揺らし、アリスはようやくヤハタの方を向いた。けれど、その唇が父親の名前を形づくることはなかった。

「だ……ぁ、れ」

 眩暈と酩酊。言葉は見つからない。

 これは何だと自問する。夢か、妄想か、空想か。――現実だ、と答えは返ってくる。

 肉体を奪われた。憎悪を植え付けられ、魂を改変された。ヤハタを殺すための駒として弄ばれ、父親とは知らぬまま、ヒトを守るために己が命を擲った。

 その結末に待ち受けていたものが、これか。

 命だけでなく、生前の繋がりさえも否定されるなど。

 アリスは空疎な瞳でヤハタを見つめ返す。不思議そうに首を傾げ、もう一度訊ねを繰り返した。だぁれ、と舌足らずな言葉で。

「ヤハタ……エインズワース。お前の父親だ。憶えてないか?」乾いた喉を開き、訴える。

「おとう、さん?」

 アリスはヤハタをまじまじと見つめ、小さく呻き、知らなぁい、と首を振った。

 殴られたような衝撃。眦に熱が押し寄せ、よろめきながら、不意に視界がぼやけた。

(どこまで落ちればいいんだ。どこまで奪われれば、俺の罪は贖われる?)

 アリスを引き寄せ、抱き締める。触れられる。肉体と見紛うばかりの存在感がある。息遣いを感じられる。けれど、熱はなかった。鼓動の響きはなかった。

 アリスは明らかにヤハタと異なっていた。骨肉から成る体を持っている生者とは――

「泣いてるの?」

 腕の中でアリスは身動ぎ、恐る恐るとヤハタの頭を撫でた。慰めるように。

(教えてくれ、これは誰の策略だ? この結末はどうやって導かれた? 神の試しが存在したためか。デューイ・マルカルが禁則事項の戒めを破ることができたからか。俺が〈ヴァローナ〉を使うことを選択したからか)

 列挙、後に気付く。それもまた、初めから知っていたことではあったけれど。

(あぁ、何もかも違う。因果の源泉は、すべて俺に帰結する)

 ヤハタがデューイ・マルカルを殺したから、この結末は産み落とされたのだ。

 情けなくとも、心の決壊を押し留めることなどできなかった。嗚咽が喉を震わせ、涙が瞼を押し開く。ヤハタはなおいっそう力を込めてアリスを抱きしめ、娘の肩を濡らしていった。

(すまない、すまない、赦してくれ。俺はアリスの父親であるべきではなかった。アリスの父親となるべきでなかった。少なくともアリスを授かった時点で、戦場から離れるべきだった)

 後悔に意味などない。過ぎ去った事象と別の可能性を考えることは無価値だ。それでも後悔に意味を見いだそうとするならば、未来が残されているとき、可能性が存在するとき、未来を戒めるための指標としてのみ。けれど、ヤハタとアリスの未来は潰えてしまった。

 途絶えた。

 アリスがヤハタの元に帰ってくることはない。父親のことさえも忘れてしまった。

 どれほど足掻こうともここで行き止まり。もう、この先には進めない。


「取り戻せるとしたら、どうしますか?」


 閉ざされた思考は、ボナパト・アルムヘルクの言葉で切り開かれた。

 顔を上げる。縋るように。

 少女は蠱惑的な笑みを浮かべていた。愉悦に溺れながら、人間へと〈果実〉をぶら下げる。

「アリス・エインズワースを取り戻す手段が残されているとしたら、あなたはどうしますか」

「不可能だと……」

「嘘は吐いていません。因果律を崩壊させるから不可能なのであって、禁止されているのであって、崩壊を甘んじるならば生命の復活など簡単なことです。それに、考えてみてください。人間を復活させることさえもできないならば、神など烏合の衆にも劣ります。不可能が可能である、それこそが全知全能である神の存在定義ですから」

 呆気に取られながら苦笑する。キリストは、復活することで神の子供であることを知らしめた。前例はすでに与えられていたのだ。たとえそれが、聖書の一節だったとしても。

「反故が生じているぞ」

「反故くらい生じますよ。不完全であることも、神の定義です」

「言葉遊びだ」

「えぇ、神は遊びが好きなんです」

 ケタケタと喉を震わせ、ボナパトは指を弾いた。乾いた音が響き、何もなかった場所に瀟洒なテーブルと椅子、ティーセットが現れる。道化の少女はポットの蓋を外すと顔を近付け、立ちのぼる芳香を胸いっぱいに吸い込むと顔をほころばせた。

「どうぞ、座ってください。お茶でも飲みながら、ゆっくりとご説明します」

 慣れた手付きでカップに紅茶を注ぎつつ、ボナパトは椅子に座る。促されるまま腰かけたヤハタの前に、ティーカップは音もなく差し出された。なみなみと注がれた紅茶にはボナパトの影。アリスへとカップを差し出す横顔。慈愛の裏に見え隠れする、澱んだ何か。

「ミルクと砂糖は? レモンもあります」

そのままストレートでいい」

「む、大人ですね」

 滑らせかけたシュガーポットを留め、ボナパトは自分のカップにたっぷりと入れていく。鼻歌交じりの横顔を見つめながら、ふと、ヤハタは取り留めもない疑問を懐いた。

「なぁ。あんた、本当は何者だ?」

 砂糖を放り込む手を止め、ボナパトは上目遣いでヤハタを窺う。嘘を見破られた子供のように極まりの悪そうな面持ちを浮かべ、何者とは、としらばっくれる。

「私は天使です」嘘だ。即座に否定される。

「なぜ、嘘だと思うのですか?」

「人間でないことは確かだろう。だが、天使ではない。あんたは、神に対して不遜に過ぎる」

「ふふ、さすがに度が過ぎましたか」

 愉快そうに笑みながら、少女は背筋を伸ばす。

「端的に申しますと、第八十七代神権継承者、すなわち――」

 チリ、チリ。鈴が妖しげに鳴る。道化服の少女は紅茶で喉を湿らせ、そっと息を吸う。

「私は神です」

 僅かばかりの宣言を終えたボナパト・アルムヘルクには異質な気配が宿っていた。何も知らないアリスでさえ、思わずティーカップを取りこぼしてしまうほどの重圧。それは神の矜持、神の尊厳と表現されるもの。未熟な少女の姿をした神は、目を覆いたくなるほどの眩さに包まれていた。

「ヤハタさん」神に名を呼ばれることが、こんなにも恐ろしいとは。

「ヤハタ・エインズワースさん。あなたには続きが残されています」

 飲みかけのカップに指を浸けると、ボナパトは紅茶で濡らした指を机に走らせる。

「ただし、その道は因果律への叛逆そのもの。一度、場に出したならば神々の軍勢を敵に回す切り札ジョーカーです。それを承知したうえでなお、あなたはそこに可能性を見いだしますか?」

 賭けるならすべてを賭けてもらうオールオアナッシング生も死もハイリスク未来も過去もハイリターン

 ボナパトの指が机から離される。紅茶でしたためられた文字。ただ一言、端的に。

〈Ready?〉ヤハタを試すように。

「…………俺はアリスの父親だ」

「父親という基準で物事を考えるのは危険です。血の繋がりがあろうと、現世の絆があろうともあなたと彼女は独立した命です。無謀に挑むための理由としては、最も浅はかです」

「ボナパト・アルムヘルク。神の目に人間の機微がどのように映っているのかは分からない。けれど、愚行を犯すのが人間であることくらいは身に染みているんじゃないか?」

「確かに……」

 紅茶に指を浸し、ガラス机に走らせる。

〈Ready?〉問いかけの隣に、ヤハタは書き連ねた。

〈YES〉

「案内してくれ、神ボナパト。そこに一縷でも希望があるなら、立ち止まるわけにはいかない」

 蛮勇だと笑われようと、貫き通せば、それは覇道だ。

「案内しましょう、ヤハタ・エインズワース。叛逆の道を――」

 もう、立ち止まることは許されない。

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