誇り高き復讐者

 運河へと通じる工業用排水路の奥まったところに、二つの影が座していた。雲の移ろいによって時折射し込む月明かりを除いて視界を照らすものは何もなく、寄り添わせた肌を通して伝わる熱だけが、ヤハタがまだ生きていることを唯一証明するものだった。

 守り通せた、とヴァローナは安堵する。

「巻き込んでしまい、すまない」

「昨日とは立場が逆ね。ヤハタを巻き込んだのは、私のはずだったのに」

「あぁ、ほんとうに、悪い冗談だ」

 ヤハタの髪先から落ちた雫がヴァローナの頬を伝う。

〈冗談〉事実から目を背けるような言葉の余韻が、ヴァローナの胸を搔き乱す。

「ヤハタはどうするの?」絞首台へと上るつもりなのかと、おずおずと訊ねる。

「さて……、難しい問いかけだ。デューイの怨嗟、憎悪は真っ当だ。俺が咎めを受けなければならないことも、確かだろう。だが、死にたくはないな」

 俺はまだ言い訳を見失っていない、とヤハタは続けた。

 ヤハタ・エインズワースはデューイ・マルカルから未来を奪った。可能性を強奪し、幸福を簒奪した。それは取り繕い様がないほどに真実であり、過去は変えられず、事実として残る。今を生きるヒトにできることは過去を隠すことでも、なかったことにすることでもなく、どうやって事実に折り合いを付けるべきか、探ることだけだ。けれどそれはあくまでも一方が純然たる被害者であり、他方が紛うことない加害者であることを絶対の条件とする。被害者が好ましくない方法で過去に決別しようとしたならば、神の裁きは被害者にも降される。

 それが禁則事項ゴーストルールの本質であり、デューイ・マルカルはそこに抵触した。

「もしも、デューイが一人で俺の前に現れ、怨嗟を告げたなら、俺は彼の願うままに従っていただろう」

 嚇怒の標的になることを受け入れ、その命を擲てと言われたならば。

「そんな顔をしないでくれ。俺だって、ずっと、贖罪を望んでいたんだ」

 非難するような眼差しの少女を宥め、ヤハタは「けれど」と言い淀んだ。

「デューイは禁忌を犯した」

「ヤハタは……私が巻き込まれたことに怒っているの?」

「そうだ」

「私、そんなの嬉しくない」

 ヴァローナは悲しそうに首を振り、抱えた膝の間に額を埋めた。

「私が、ヤハタの憎しみの種になりたくない」

「もう手遅れだ」

 即断の一蹴。縋る言葉も、少女の悲哀も、ヤハタの心を動かすことはなかった。

「それなら、ヤハタはどうするの。デューイを殺すの?」

「同じ人間を二度も殺したくはない」

 ヤハタは排水路の外を睨んだ。

「ヴァローナをもとに戻す方法を聞き出す。そのために少しばかり荒っぽい手段に訴えざるを得ないかもしれないが、まぁ、そのくらいなら神様も大目に見てくれるだろう」

 僅かに肩を竦め、ヤハタは立ち上がる。

「すぐに戻る。ヴァローナはここで待っていてくれ」

 返事はなかった。ただ、瞳が伏せられたことで了承されたのだと受け取り、少女に背を向ける。けれど、ヤハタがそのまま進むことはできなかった。

 進路を塞がれた。ヴァローナの〈変幻〉によって。

「格好つけないで」

 その言葉は鋭く、ヤハタの脳裏で幾重にも反響する。

「どちらが先かは関係ない。私はもう巻き込まれている、今さら部外者扱いしないで。私がもとに戻るため、ヤハタが生き残るため、デューイに立ち向かうというなら隣に立つわ」

 反論の言葉は封殺し、ヴァローナはヤハタの手を取った。

「私を使って、ヤハタ。あなたの剣として、あなたの銃として」

「そんなことをすれば、ヴァローナが禁則事項に抵触してしまう」

「ヤハタを守るためよ。大丈夫、きっと『神様も大目に見てくれる』わ」

 繋いだ手のひらは固く握り緊められ、振り解くことはできそうになかった。

 ヤハタは迷いとともにあった。ヴァローナの手を借りるか、それとも突き放すか。拭い切れない〈ヴァローナが消えてしまう〉可能性を自覚しながら、それでも少女の魔法に頼るのか。

「お願い、ヤハタを守らせて」痛切なささやき。ヴァローナに呑み込まれていく。渦に巻かれていく感覚。巻いているのは、果たして、どちらなのか。

「お願い、ヤハタが守ってくれたように」それでもまだヤハタの決心を揺らがせるには足りないと悟り、賢しらなヴァローナは二人にだけ通じる切り札ジョーカーを出した。


「それが、私の生きるための言い訳よ」


 静寂に刺されながら、ヤハタは濡れた髪を何度となく掻き分けながら荒々しく息を吐いた。迷いをかなぐり捨てるというよりは、考えることを放棄するかのように。

「頼む」

「任せて」

 ヴァローナは微笑み、濃い闇の排水路にコバルトグリーンの煌めきが湧き上がる。

 煌めきが消失した後には、ヤハタの手中にウィンチェスターが握られていた。肌になじむストックの感触、懐古心をくすぐる銃身の重みに、ヤハタは目を細めた。

「行こう、ヴァローナ」

 ヴァローナを肩に担ぎ、ヤハタは今度こそ排水路の外へと歩を進めた。


 顔だけを覗かせ、辺りの様子を窺う。視認できる限りの範囲に、デューイの姿はない。

「ヴァローナ、単眼鏡スコープになってくれないか」

 その言葉一つで、ウィンチェスターは単眼鏡へと姿を変える。ヤハタは如実な吃驚を表しつつ、単眼鏡を目に当てがった。デューイがいるのであれば空だろうと睨み、傾げた首を動かしていく。月は出ており、街灯も夜空の闇を淡いでいる。視界には事欠かないはずで、それでもデューイの姿を認めることはできなかった。

「川を出よう。ここじゃ戦えない」

「気を付けてね」単眼鏡はウィンチェスターへと。鋼の内部で弾丸が生まれ、装填される。

 排水路から半身を覗かせた瞬間、ヴァローナの忠告が色褪せるよりも早く、妙な風切り音にヤハタは足を止めた。音が聞こえてくる方向に視線を滑らせ、ちょうど真上の空を仰いだところで褐色の少年を見つけた。少年の右手には拳銃、狙いはすでに定められている。

「待ち伏せか……っ」

 ヤハタは唸り、デューイはその様子に哄笑を漏らしながら引き鉄を引いた。タッ、タッ、タッと軽快な発砲音が連なる。数グラムの鉛玉が音速に迫り、殺傷力を研ぎ澄ます。ヤハタの肉を撒き散らそうとした凶弾を、楯と化したヴァローナが受け止める。再度、ウィンチェスターへと変幻。ヤハタは躊躇うことなく照準を合わせた。狙ったものはデューイの白翼であり、違うことなく着弾する。欠けた翼では空に留まることができず、デューイはぐらりと落下する。

〈まだよ、幽霊ゴーストは空を歩ける〉

 ウィンチェスターに触れさせた指先を伝わり、ヴァローナの言葉がヤハタに届く。

「厄介だ」

 悪態を吐きながらもヤハタの挙動は冷徹だった。落下するデューイの姿を見据えながら駆け出す。傾斜六十度に達するであろうコンクリートの堤防を怒涛の勢いで這い上る。その姿、虎狼の如く。デューイが空中で姿勢を制御したときには、同じ高さにヤハタの姿があった。

 堤防を踏み蹴り、ヤハタは宙に踊る。全身はしなやかに捻られ、鞭のように振るわれた下腿がデューイの下腹部に減り込み、さらに薙ぎ払われ、デューイは運河に墜落した。水柱が上がり、褐色の少年は水を飲む。噎せ返りながらも立ち上がれば、見下ろす視線を意識する。

「厄介だな、人間」

 自分が人間ではないとでも言うかのような口調で、事実、少年は乖離している。

「諦めろ。いくらお前が神の子供だとしても、経験の差は埋まらない」

「何の経験だ。人を殺したことがあるかどうかか、それとも殺人の技術を磨いた時間か」

「両方だ。たとえ拳銃を握っていたとしても、大人が子供に敗ける道理はない」

 説得が意味をなさないことなど知っている。無駄であり、意味なんてない。降りかかる火の粉は揉み消さなければならず、ヤハタにとってそれはたやすかった。

 それでも、デューイを二度も殺すことはしたくなかった。

「やだね」

 案の定、デューイは舌を突き出した。

 腰に吊り下げたホルダーから小刀を抜くとデューイは駆け出す。その目は眩み、何も見えていない。デューイは復讐の化身、未練に憑りつかれた獣だった。

〈ダメよ、ヤハタ。獣に人の言葉は通じないわ〉

 その言葉だけを残すと、ヴァローナは刃渡り二十センチばかりの小刀へと変幻ターンする。

 ヴァローナを握り締め、迫り来るデューイの姿、炯々と輝く胡乱な瞳、月明かりを反射する銀鏡の小刀を見つめ、ヤハタは歯軋りした。

「終われ、ヤハタ・エインズワース!」

 デューイとヤハタは切り結んだ。打ち合わされた小刀から火花が散る。ヤハタの右胸、頸動脈、眼窩へと向け、デューイはでたらめに刃を振るう。その体捌きは拙く、刃を押し込める力は弱く、けれど殺意と憎悪だけは燃え盛るほどに込められていた。

 ヤハタは憂いのあまり目を細める。殺人によって身を立てていた日々、正義の代行者と謳いながら征野を闊歩した日々、人間の邪悪を目の当たりにした闘争の日々、その末路がこれだ。己の罪が一人の復讐鬼をを生み落としたことに、痛いほどの悔恨を抱く。

(デューイ・マルカル。お前は正しいのかもしれない。俺はお前に殺されることでのみ、償いを果たせるのかもしれない。それほどまでに俺の罪は重く、強奪したものは大きい)

 ヤハタの胸中はそのような思いばかりに満たされる。けれど、

「ここで終わるわけにはいかない」

 脳天へと振り下ろされた刃を受け止め、デューイを蹴り飛ばす。白目を剥いて気絶しそうになりながら、唾液と胃酸を吐き出しながら、デューイはそれでも立ち上がる。

「俺からは……奪ったくせに。俺は終わらせたくせに」

 咆哮。デューイは小刀を握り直す。理性はすでに、焼き切れていた。

「殺す、絶対に殺す」頭蓋を叩き割り、首を絞め上げ、肉を削ぎ落とし、完膚なきまでに「殺すことでしか、俺は生きる意味を見いだせない!」

 少年の目は血走り、言葉は怨嗟に塗れ、決して諦めというものを知らなかった。殺意が姿を得たかのように鬼気迫る。ヤハタは気圧された。たかだか十二歳の子供に、恐怖した。

 恐怖は刃を鈍らせた。決して技術が拙くなったという意味合いではなく、それまでデューイの凶刃をあしらうだけだったヤハタは〈ヴァローナと自分を守るため〉ではなく、〈デューイを殺すため〉に刃を振るった。

〈殺しちゃダメ!〉

 ヴァローナの叫びが指先から伝わる。殺したか否か、ではない。どのように殺したか、それが神の裁きの対象であり、恐怖の根源を排除するというヤハタのやり口は致命的だった。

 デューイの頸動脈に向けて小刀は横薙ぎに払われた。硬質の刃と、筋張った少年の首との間隙は瞬くうちに詰められていく。肉体はすでに殺人のための装置と化していた。

 残された間隙も僅かとなり、一寸でも刃を押し込めば届くところまで肉薄したとき、ヤハタは己の目を疑う。デューイ・マルカルは死の間際に微笑を浮かべていた。何よりもヤハタの脳髄を逆撫でにするのは、その微笑が諦念に寄り添うのではなく〈悪意〉を宿していることだった。何かを企てていると気付いたが、すでに遅かった。

 小刀ヴァローナが首に沈む。刃と触れ合った肌は柔く沈み込み、程なくして皮膚に裂け目が生じる。赤黒い鮮血、噴水のように湧き出す。血に濡れたことで滑りをよくした刃はさらに肉へと沈んでいき、致命的なまでに首を胴体から切り離していく。それでもなおデューイの表情に苦悶は現れず、清々しさと履き違えてしまうほどの〈悪意〉を浮かべていた。

 ゴトリ、と。首が落ちる。ヤハタの吐息は荒げ、瞳孔は激しく痙攣する。飽和した頭の片隅で、彼はしかと認識する。ヤハタ・エインズワースが〈ヴァローナを用いてデューイ・マルカルを殺した〉という事実を。言い逃れようのない、ヴァローナの罪を。

〈アァ……ッ、アアアッ〉

 耳を突き抜ける、泣き喚くような悲鳴を、ヤハタは自分が上げているのだろうと思った。けれど喉が震えていないこと、どす黒い暗雲のように濁った心中にさえ悲しみがないことに気付き、指先の嫌なあたたかみに訝しみを覚えた。

「……ヴァローナ?」

 彼の手の中で、小刀は血を流していた。粘度を誇張するような緩慢な動きで、真っ赤な鮮血がとめどなく溢れてくる。血を流す刃、それはまるで罪を吐露するように。

〈ダメ、ヤハタ……離して、狂う、離れて、触れないで〉

 微弱な震えが指先から伝わる。

〈ダメ、ダメよ、殺しては……殺すために、もう、コロシテハ〉

 ヴァローナは狂乱の最中にあった。ヤハタの理解は及ばず、拒絶されようと、彼はただヴァローナを握り締め続けた。小さな刃からは想像もできないほどに溢れ出した大量の血潮は、すでにヤハタの足元に小さな池を作るほどになっていた。

 憔悴と混乱に揺れながら、ふと、ヤハタは禁則事項を思い出す。たとえそれがヤハタの殺意だったとしても、行為の担い手が彼女になかったとしても、ヴァローナは禁則事項を犯した。

〈禁則事項とやらを犯したら、ヴァローナはどうなる〉

 その問いかけに、ヴァローナは〈消える〉と答えた。彼女はまさしく消失の渦中にあり、流血は消失の序章であり、次章の幕開けは魔法の崩壊から始まった。

 小刀が僅かに撓み、ひと際激しく噴き出した血潮がヤハタの貌にかかる。思わず瞑目して、握り締めた小刀の形が変わったことを感じ取り、目を開く。

 赤い霧の向こうに、変わり果てたヴァローナの姿を認めた。少女の矮躯が血まみれであることはさしたる問題ではない。その吐息が乏しいこと、瞳が暗く澱んでいること、四肢が弱々しく痙攣していること。どれもこれもヤハタの心を奪いはしない。

「どうして、……なぜ、お前がここにいる」

 褐色の肌がボーンチャイナを想起させるような乳白色であること、白髪がライ麦畑に似た金髪であること、何よりもヴァローナの容姿が見知ったものであることに戦慄する。

 そこに〈ヴァローナ〉はいなかった。少なくとも、ヤハタは己が掻き抱く少女に対して〈ヴァローナ〉よりも相応しい名前を知っていた。

「――――アリス」

 アリス・エインズワース。

 ヤハタが抱き締める少女は、紛うことなく彼の娘だった。

「殺したね?」

 甘ったるく、舌足らずな声に促され、ヤハタは貌を上げる。鋭く吊り上がった唇、垂れ下がった眦、そこではデューイ・マルカルが涅色の嘲笑とともにヤハタを見下ろしていた。

「殺したね、ヴァローナを使い、ぼくをもう一度」

 事実を確かめるようにゆったりとした語調でデューイは唱え、傍らにある死骸を示した。そう、デューイ・マルカルの屍体を、デューイ・マルカルその人が指し示す。

「アハハ、」弾ける笑い。無邪気に、凍て付くように。

「不思議そうな顔をしてるね。信じられないって目だ。いいね、とても素敵だ。落ち窪んだ眼窩の影も、擦り切れた眼も、その絶望は――とてもぼくが見たかったものだ」

 劣悪と醜怪、目を背けたくなる冷笑を前に、ヤハタは己の娘を抱き寄せた。少女の肌の感触、ほのかな熱、微かに響く鼓動がアリスの存命を知らせていたが、それらすべてが如実に弱まっていく様子に、焦燥へと駆られる。

「アリスに何をした」

「言っただろう、これは復讐なんだ。血で血を洗い、怨嗟で怨嗟を上塗りする、終わることのない復讐劇なんだ。アリスの魂を引き抜き、容姿を改変して、記憶を捏造して、心を侵害して作り上げたのがヴァローナという復讐鬼だ。ヤハタ・エインズワースが実の娘に殺されること、それがぼくの願った結末だけれど、もしもそれが達成されなかったとき――ヤハタ・エインズワースに実の娘を殺してもらおうと決めた」

「禁則事項はどうした⁉ 俺に関与するよりも先にアリスを殺したというなら、お前は消えているはずだ」ヴァローナがいま、アリスがいま、こうして消えゆくように。

「禁則事項なんてものはね、代替品を用意できる奴には何の効果もないんだよ」

 愉快で堪らないと浮かれながら、デューイは毛髪を抜き、無造作に放り投げた。目で捉えることも厄介なほどに希薄な一本の毛髪は、ウィスタリアの閃光に包まれながら形状を変える。現れたのは褐色の少年、劫火に心身を窶した復讐鬼、デューイ・マルカル。

「震えたよ」

 粟立った肌を擦り、己の胸を絞め上げる情動に、デューイは言葉を詰まらせる。

「奪われたと思ったら、与えられていた。終わったと嘆いたのに、続きが用意されていた。それから、神様に感謝した。〈複製〉なんて復讐にお誂え向きの魔法を授けてくれたことに」

 晦冥を晴らされた少年は歓喜する。彼の頬には、細く、涙の跡が刻まれていた。

「そいつも、そいつも、ぼくも、みんな〈デューイ・マルカル〉だ。オリジナルなんてどこかに行っちまった! 消えて、消えて、消え失せた。何度となく禁則事項というふざけた鎖に首を絞められ、数え切れないくらいに終わり、それでもぼくは存在している! この世にまだ存在している! 全て、ヤハタ・エインズワースに報いるために!」

 月夜に咆哮を轟かせ、デューイ・マルカルは牙を剥く。一人、二人、それ以上に。復讐鬼の群雄割拠、悪夢はここに顕現した。魔法で無際限に増え、誰の心も怨嗟でがんじがらめにして、ただひたすらに、ヤハタを殺すため。

「楽しいな……ぁ、嬉しいねぇ。もう終わってくれよ、ヤハタ・エインズワース!」

 誰もが熱に酔っていた。一人は小刀を、一人は拳銃を、一人は大太刀を、ヤハタを殺すために握り締める。満願成就の時来たれり。復讐鬼はここに完成した。

 対照的に、心にぽっかりと孔を宿したかのように、ヤハタは戦意を喪失していた。夜空を仰ぐ視界の片隅にはデューイの姿、腕の中には冷めつつあるアリスの温もり。

 ふと、指先にじくりとした痛みが落ちる。指を手前に引くだけのことで、彼の視界は真っ赤に染められてきた。苦悶を垣間見ることはあれど、悲鳴を聞いたことはない。ウィンチェスターの震えは知っているけれど、ヒトの肉の感触は知らない。殺人の記憶は心に深々と根を張っているのに、肉体の記憶という意味合いではあまりにも希薄だった。

 ただ結果だけが突き付けられる。狙撃数スコアだけが伸びていく。

 積み上げられた屍の数は、ある意味で、ヤハタとは無縁だった。

 それでも結果は結果のまま、事実は事実としてヤハタの首を絞め上げる。

 たとえばデューイ・マルカルの存在。晦冥に行き着くはずの生命の終わりに、続きがあるという事実。神が〈死後の試し〉と称して悪戯を画策していたこと。デューイ・マルカルに与えられた魔法が禁則事項の戒めを解いてしまったこと。

 偶然が積み重なり、奇遇が絡み合い、ヤハタを裁くための道筋が踏み締められた。

 もう、潮時なのかもしれない。裁きを欲していたことは、確かなのだから。

 瞑目。終わりが近付いてくる。感覚が鋭敏になり、肌を掠める風さえも読み取れる。首を落とされるのか、心臓を貫かれるのか、頭蓋を撃ち抜かれるのか。己の終わりを想像しながら、ふと、ヤハタはこの復讐劇に投じられた〈イレギュラー〉の存在に思い至る。

 ヤハタ・エインズワースは、なるべくして裁かれるべきだろう。

 デューイ・マルカルは、復讐の末に滅びるべきだろう。

 それでは、アリス・エインズワースは?

 アリスは、殺されなければいけないほどの罪を背負っているのか?

(あぁ、そうだ。この子をこのままにはしておけない)

 失われていた戦意が再燃する。死灰ばかりと思っていたが、そこには火種が残されていた。ただひとつ、ちっぽけだが、アリスの父親であるという〈生きるための言い訳〉が。

 開眼。それはちょうど、小刀が振り下ろされる瞬間だった。前を睨む、デューイと瞳が交錯する。迫り来る銀鏡の刃には、朧月が落ちていた。娘を抱き寄せ、ヤハタは動き出す。

 点火、燃焼、生き残るために。

 デューイの手首を掴み、捻り上げる。関節を極められたために、小刀はデューイの手から滑り落ちる。ヤハタは即座に手首から手を離し、落下する小刀を空中で握り締めた。一度、小刀を胸に引き寄せ、次いであらん限りの膂力で以って少年の矮躯を袈裟懸けに斬る。刃が過ぎ去ったところを辿るように鮮血が噴きこぼれ、ヤハタの頭上に血の雨を降らす。

 刃をデューイから抜き、少年の肩を掴むと己の体に被せる。直後、乾いた銃声が間断なく鳴り響き、六発の弾丸が死にかけの少年に着弾する。

 少年の体は撃たれるたびに微かに痙攣し、悲鳴の溶け込んだ吐血とともに絶命した。

 不要になった〈盾〉を傍らに擲ち、アリスを抱えると大地を蹴る。少女とはいえ人間を背負っているというのに、ヤハタの挙動はデューイとは比べ物にならないほど機敏だった。

 少年の胴体トルソーが決壊する。ヤハタは小刀を逆手に握り直し、デューイとのすれ違いざまに、軽快な動作で少年の胸から腰にかけての肉に小刀を沈める。紅瞳から生気が失われたことを認める。死者への礼節など、蚊帳の外。死骸を地べたに打ち捨てると他のデューイに詰め寄る。

 ヤハタの呼吸は浅い。全身の筋肉が励起して、神経の一房に至るまでが〈殺人〉に集中する。考えていることは眼前の敵を排除することだけ。余計な思考は挟まず、感情は抑制され、抵抗心は塵芥と化した。殺さなければ殺されるから。一瞬の躊躇が己の首を絞め上げ、一抹の油断が娘の灯火を揉み消してしまうから、ヤハタは〈人間〉であることをかなぐり捨てた。

 アリスのためなら、子供だって残酷に殺してみせよう。

 小刀を頭上に振りかぶり、叩き付けるように斬り下ろす。赤橙色の火花が散る。噛み締めた奥歯を鳴らしつつ、デューイはどうにか小刀を受け止めた。鍔迫り合い。デューイは両手で柄を握り締め、ヤハタは片腕だというのに、均衡はいともたやすく破られる。

 技術も技巧も関係なく、単なる力押しでデューイの大太刀は下げられる。触れ合わせたままで大太刀の柄まで小刀を滑らせ、ヤハタは素早く刃を離す。くるりと弧を描き、小刀はデューイの手首に沈んだ。皮膚を裂き、肉を断ち、骨に打ち合っても刃は止まらない。

 その場に留まろうとした少年の手首と、斬り落とそうとする小刀との鬩ぎ合い。結果は明白だった。大太刀を握り締めたままでデューイの右手は飛ばされる。

(よく斬れることだ)

 感嘆するヤハタはすでに血まみれで、殺人鬼とは、彼のような姿をしているのだろう。

 呻吟しつつデューイは後退り、ヤハタは追撃の手を緩めない。デューイの意識、血まみれの小刀へと。脇腹に衝撃。蹴られた、と理解しながら少年は横転する。

 ヤハタはなお止まらず。デューイの矮躯に馬乗りで跨り、少年の額へと小刀を突き下ろす。脳を貫かれそうになり、デューイは反射的に右腕を刃の前にかざした。彼にとって幸いだったのは、ヤハタの武器が小刀だったことだ。腕を貫かれ、けれど、刃の切先は頭蓋に届かなかった。喉に詰まっていた息を噎せ返るように吐き出し、デューイはヤハタを見上げる。

「とっくに……、心は折れたと思っていた」

「俺だけなら折れていた。デューイ、お前の過ちはアリスを巻き込んだことだ」

「愛する娘のためならお父さん頑張っちゃうよってか? ハッ、くだらない」

「唾棄されようと、父親とはそういう生き物だ」

 アリスを抱え直し、さて――、と紋切り型に開口する。

「どうしてアリスを巻き込んだ。返答次第では、」

「殺すか? いいのか、アリスをもとに戻す方法はぼくしか知らないぞ」

「そうだったな、それは困った」

 大根役者のような嘆く芝居とともに、ヤハタは冷めた目をデューイに注ぐ。アリスを傍らに寝かしつけると、デューイの右肘を掴み、小刀を逆手で握り直した。

 そこで、ようやく少年の気色に恐怖が混ざる。

「おい、待てって、エインズワース」

「大人を舐めるな、ガキ。死なない程度にいたぶる方法なんて、ありふれている」

 小刀が真横へと引かれる。腕を貫いていた刃は外側へと、腕を縦に裂いていく。

「ギ――イァアアアア!」

 絶叫が起こる。鼓膜を劈く〈騒音〉にはさほどの感慨も示さず、ヤハタは親指をデューイの右目に押し付けた。

「次は眼球を潰す。答える気があるなら早くしろ」

 荒んだ呼気の向こうに、デューイは人間の本質を視た。

 どこまでも残酷で、どこまでも悪逆を尽くせる。〈言い訳〉があれば、その狂熱と蛮行を後押しする〈理由〉があれば、人間は理性から外れられる。少年が〈ヤハタに殺されたこと〉で復讐鬼と成り果てたように、少年はすでに、ヤハタにとって〈言い訳〉となっていた。

「どうしてアリスを巻き込んだ?」

 デューイは抗いようもなくヤハタに怯えていた。屈していた。

「……ただ殺すだけじゃ足りなかった。ヤハタ・エインズワースには、俺が味わった苦しみの何倍もの苦しみを味わわせながら、殺したかった」

「そんなことのために?」

「お前だって、近寄っただけのぼくを殺したじゃないか」

「リュックの中身は何だったか、そう問うたのはお前のはずだ」

「あぁ、確かにぼくは爆弾を背負っていた。だが、背負わされていただけだ。ぼくはリュックの中身など、お前に殺され、死後に未練を詳らかにされるまで終ぞ知り得なかった」

 やはり、知らなかったのだ。

 警戒心を削ぐ子供を犠牲に、諸共を噴き飛ばすことを前提に、彼等は背負わせたのだ。

「大いに同情しよう。お前は利用された。人間の悪意に絡め取られただけだった」

 だが、それでも、敵側の事情を斟酌する余地など、爆弾の運び屋に仕立て上げられた哀れな少年を〈彼には罪がないのだから〉と見逃す余裕など、あの場所にありはしなかった。どうせ死んでいた子供が癇癪を起こしているだけだ。誰が手を下したか、そこに差異はない。

「過程がどうであれ、それが本人の意思に依らなかったのだとしても、武器を持っているならば子供であろうが女であろうがすべからく敵でしかない。それが戦場のルールだ」

「あぁ、そうだよ! そんなクソッたれのルールのせいでぼくは殺されたというのに、お前は罪にも問われず英雄扱いだ! あのガキ、爆弾を背負ってやがった。俺達を殺すつもりだったんだ。ありがとうヤハタ・エインズワース、守ってくれてありがとう! 理不尽だろう⁉」

 昂った感情を抑え付けようと、デューイは咳き込むように掠れた呼吸を繰り返す。

「……なぁ、ヤハタ、ぼくは間違っているか? ぼくはお前の被害者じゃないのか?」

 世界を恨む理由が、少年にはあった。世界を見限る理由が、少年にはあった。

 人間の残虐性、〈正義〉を語らいながら〈巨悪〉に明け暮れる人間のシステムの中に無力な少年は巻き込まれた。知恵を持たなかったことが罪なのか。利用されるだけの存在であったことが罪なのか。その果てに殺されることに、異議を唱えることは許されないのか。

 違う。断じて違う。

 少年は、デューイ・マルカルは奪われた。他人の都合のために。他人の利益のために。他人の自衛のために。自由に咲くべきであった花は毒を注がれた。

 あの瞬間まで、頭蓋を撃ち抜かれたあの終わりまで、少年は被害者でしかなかった。

 ヤハタには答えられない。それでもなお恨むことは間違っていると、彼は言えない。

「ぼくは〈神〉に見放された。見捨てられたんだ」

 そして、デューイは微笑んだ。その瞳に嚇怒を浮かべながら、けれど、と己を定義する。

「ぼくは――ぼくが加害者だってことをちゃんと知っている」

 ひとつ、ヤハタが思い違えていることがあった。デューイ・マルカルはヤハタ・エインズワースに屈してなどいなかった。たとえその体が陥落しようとも、彼の心だけは、怨嗟で塗り固められた彼の真髄だけは〈誇り高き復讐者〉のままだった。

 苦痛に怯えていたはずの少年に、もはや弱さは見られない。空を見上げ、高らかに謳う。

「デューイ・マルカルは途絶えない。だけど、ぼくはお前の旅路に付き合ってやるよ」

 始め、雲によって月が遮られたのだと思った。突如として月明かりを欠いた川縁は遠くの街灯にのみ照らされ、目を凝らさなければ手元さえも見ることに事欠く。それでもデューイの貌は視えた。デューイが何を視ているのか、ヤハタには分かった。

 空を仰ぎ、絶句する。雲のようであって雲ではない。蠢く影が天蓋となり、空を支配する。見渡す限りに広がり、その数を把握する努力を嘲笑うかのように無数の人影が広がっていた。

 復讐鬼の軍勢はここに顕現した。死を恐れぬ狂気の兵団はここに完成した。

「一騎当千なんて耳あたりがいいだけの妄言だ。ヒトは、数の暴力には敵わない」

 決して及ぶことのない魔法の脅威を目の当たりにして、ヤハタの胸中に芽吹いた感情は諦めだった。これは無理だ、と武器を取りこぼす。引き延ばしてきた断罪の時は、この瞬間にあった。抗うことも、もはや馬鹿らしい。

 アリスの魂を引き抜き、ヴァローナへと改竄。アリスに父親を殺すよう教唆。ヤハタに娘を殺すよう誘導。そして、ヤハタへと銃口を突き付ける。

「これでようやく、ぼくはヤハタの未練になれた!」

 死後の先の終わりまでも、ヤハタに与えたくて。

 ヤハタは茫然としながら立ち上がるとデューイの元から離れ、アリスを抱き上げた。空の軍勢を見上げ、愛娘の双眸を見つめ、その場で蹲る。その様子は娘とともに終わろうとしているようにも、己の体を楯として娘を守ろうとしているようにも見えた。

 かつて、ヴァローナがヤハタの楯となったように。

 終わりへの門扉は開かれた。天蓋の端が動き出す。無数の人影はひとつの濁流となって天上から落ち、怨嗟と狂騒の中にヤハタとアリスを呑み込んだ。轟音とも、騒音とも、はたまた静寂とも判別の付かない濁流の中で、すれ違い際に皮膚を裂かれ、肉を削がれ、ゆったりと痛めつけられていく。死へと歩み寄っていく。ヤハタは無我夢中でアリスを抱き締め続けた。

 もう、意識を凝らさなければ娘の鼓動を感じられない。

 胸中の〈未練〉を語りかける。未練の楔をデューイに穿たないように。

 守ってあげられなかったこと。巻き込んでしまったこと。アリスを終わりへと導いたのが、自らの行為に依ること。そして、よい父親であれなかったことを――謝る。

 もしも、とヤハタは回顧する。

 もしもあのとき引き鉄を引かなかったならば、もしも自分が狙撃手ではなく他の役割を担った兵士だったなら、もしも自分の部隊が前線へ派遣されなかったのなら。

 もしも、あの場所にいなかったなら。

 デューイとの未練さえなかったならば、と悔いる。

 けれどすべては覆しようのない過去の事実。ヤハタが選択した結果であり、ヤハタが切り捨てたことの代償だ。今さら嘆いたところで何も変えられない。

 神は人間に選択する自由を与えたが、その結末を選び取ることだけは決して許さなかった。


 何分間、経っただろうか。

 濁流は過ぎ去り、周辺は禁則事項に抵触したことで消失の道を辿ったデューイで溢れ返り、ヤハタはアリスとともに倒れていた。惨憺たる有り様、地獄はここにあった。

 視界はぼやけ、すでに指先さえも動かせない。それでもまだ息をしている。まだ熱はある。たとえ、あまりにも微かなものだったとしても。

(すまなかった、アリス。俺なんかが、父親で……)

 アリスの父親であることを悔やみながら、ヤハタは晦冥へと引きずり込まれた。

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