Alice
二番煎じにもなれない紛い物
「つまらない」
嘆息とともに、少年は苦々しく吐き捨てた。それを受けてか、或いは月明かりが遮られたためか、少年の眼下で一人の男と一人の少女が首をもたげた。
「……ジョニー」
少女は少年の名を口にする。
ジョニー・ザ・コップ。
「こんばんは、ヴァローナお姉ちゃん」
ジョニーはひらひらと手を振ると天窓をすり抜け、ヤハタとヴァローナを一瞥した。そのまま落下する。彼が床に足を着けたとき、存在の実証をほのめかすように、埃がふわりと舞い上がる。抱き締め合ったままの二人と、ヴァローナの右手の拳銃、左腕の銃創を認め、彼は再度「つまらない」と否定した。
「知り合いか?」
「……ジョニー・ザ・コップ。教会で出会った、神様の迷子。私とヤハタの間に未練があることを、教えてくれた」
ヴァローナの瞳が、知らず知らずのうちにクローゼットへと向けられる。暗闇に紛れ込んだ真っ黒な過去と、真っ赤な殺意に眩暈がする。
「それで? 博識な神様の迷子とやらがどうしてここに現れたんだ」詰問するような口調。
「
ジョニーはヴァローナの眼差しを辿り、ベッドの横を通り過ぎるとクローゼットの中を覗き込んだ。視線を迷わせることはなく、すぐに目当ての写真を見つけ出すと手を伸ばす。褐色の肌と煤けた銀髪の子供の死体を鼻先にかざし、静かに息を吸った。
「神様の迷子、か」
嘲るようにジョニーは独言して、喉の奥をクツクツと鳴らす。
「……何がおかしいの」
「少しくらいは疑問に思わなかったのかな、ヴァローナお姉ちゃん。全知全能と謳われ、森羅万象を司るとされる神が〈迷子〉なんて取りこぼしをするはずがないだろう?」
「ヴァローナに嘘を告げたのか」
「あぁ、そうだね。さすが、〈大人〉は察しがいい」
悪びれる様子もなく少年は答え、指に摘まんだ写真を放り投げた。ヤハタとヴァローナは写真に気を取られ、一瞬きの間だけ、ジョニーを認識の外へと追いやった。
そして、もう一度ジョニーを認識したとき、彼の髪は豊饒な麦穂を思わせる金色から月光のような冷たい銀髪へと、彼の肌は透き通るような白磁から浅黒い褐色へと変貌していた。
投げられた写真は床の上を滑り、ヴァローナの爪先にぶつかる。少女は写真の中で息絶えた子供と眼前の少年を見比べ、感じたままのことを、言葉にした。
「……似てる」それでもまだ疑うように揺れる言葉を、
「当然、それはぼくだ」褐色の少年は嬉々として肯定する。
「ジョニー・ザ・コップなんて所詮は偽物、二番煎じにもなれない紛い物……こっちが本物だ」
少年の背部、肩甲骨の辺りが急激に膨らみ、服を裂いて真っ白な翼が姿を現す。それは天井を掠めるほどに巨大で、美しく、彼を〈天使〉と形容するに相応しかった。けれど、
「お前は〈悪魔〉か」
ヤハタは訊ねる。そう錯覚せずにはいられぬほど、美麗な白翼とは対照的に、少年の貌は酷悪な微笑を宿していた。
「そこまで〈神〉に近くはない。デューイ・マルカルと名付けられた元人間。平凡に生まれ、少しだけ危なっかしい街で育ち、ホワイトもどきのジャパニーズに未来を奪われた人間だ」
デューイと名乗った少年は半歩だけヤハタとの距離を詰め、
「ぼくが背負っていたリュックの中身は、何だった?」
ヤハタと、彼が殺した子供しか知り得ない〈過去〉を問うた。
「ぼくのことを忘れずにいようとしていたみたいだけど、元から知らないことなんて覚えられもしない。よく視て、よく憶えて。これがヤハタ・エインズワースに殺された子供の末路だ」
己の非運を誇示するかのようにデューイは両腕を真横に広げる。喉の渇き、異音を鳴らす思考、ヤハタは少年に目を奪われていた。そして、腕の中でヴァローナが身動ぎしたことで疑問を懐く。
「……なら、ヴァローナは何だ」
そう、ヴァローナは誰か。デューイの未練がヤハタに通じているならば、体に刻まれた記憶としてヤハタと通じているヴァローナの存在は、どこに位置付けられるのか。
「ぼくが本物で、」デューイは然したる感情も見せずに自分を指差し、
「お姉ちゃんが偽物」ヴァローナへと指先を移した。
「簡単だろう」
馬鹿なことを訊くなとでも言わんばかりに、デューイは呆れ口調で言葉を続けた。
「ぼくはヤハタ・エインズワースを殺したかった。それがぼくの未練であり、ぼくの腫瘍だ。だけど、それを果たしたらぼくも終わってしまう。クソッたれな
だから、とデューイはうそぶく。些細なことだと、狂気を紛らわす。
「だから、殺してもらうことにした。ぼくの代わりに、ヴァローナお姉ちゃんに。そのためにぼくはヴァローナお姉ちゃんの魂を引き抜いて、ぼくの記憶を埋め込んだ」
そこまでを平然と告げ、デューイは口先を両手で覆い隠した。
「それなのに、絆されちゃってさ」
苛立たし気に、悪意とは全くの無縁であってもおかしくないほどの年頃の少年は、ヴァローナに対して身勝手な嫌悪を露わにした。
「ぼくの憎悪は抗いようもないくらい荒れ狂っていたはずなのに、どうして堪えることができたのかな。ちっぽけな金属片も引けないほどに、ヤハタは好みだった?」
「……偽物の憎しみを、本物の愛情が凌駕しただけよ」
「愛情なんて、不確かなもの、すぐに壊れるよ」
へらへらとデューイは笑い、二人に背を向けた。ちっぽけな背中からは諦念と見紛うほどの放散した気迫が漂っていた。復讐を諦めたのかとヤハタが考えた刹那、
「ヴァローナお姉ちゃんが誰なのか、そろそろ気になってしょうがないんじゃないかな」
挑発するように、怒れ、と煽り立てるかのように少年は言う。
「復讐は失敗した。ヴァローナを巻き込んだ責任を取れなんて真人間らしいことを、お前は言い出すのだろうね。もう喉まで出かかっているのかもしれない。けれど、まだだ」
背を向けていたデューイは再度ヤハタに向き直る。褐色の少年は、無垢であるべき小さな右手には似合わないものを、ヒトを殺すための武器を握り締めていた。
「まだ、ぼくの復讐は終わってない。禁忌に触れてぼくが消えるのが先か、お前が死ぬのが先か、試そうじゃないか」
銃口がヤハタの額に向けられる。それを握った少年の貌には、自分が消失することへの恐怖など一抹たりとも見いだすことができなかった。
「さぁ、因果律に楔を放とう」
立て続けに二発、乾いた銃声が鳴り響いた。
一発はデューイ・マルカルの銃から、一発はヴァローナの銃から。デューイの弾丸はヤハタの耳朶を掠めるようにして背後の扉に減り込み、ヴァローナの弾丸は背後の窓を粉砕した。滑稽だった。銃口を相手に定めることもできないのに、殺意だけは一人前に研ぎ澄まされて。
老獪なヤハタがデューイに生じた一瞬の隙を見逃すことはない。その手に銃がなかろうと、子供を組み敷き、脆弱な肢体を痛めつけることなどたやすかった。前に踏み出したヤハタだったが、果たして、ヴァローナがその邪魔をした。ヴァローナの背中に白翼が広がる。力強い飛翔、窓を破り、ヴァローナはヤハタと共に身を躍らせた。
「ヴァローナ、戻ってくれ!」
「あの部屋にはヤハタの大切な思い出があるのに、戦うなんてダメ!」
それに、とヴァローナは背後を窺った。
「すぐに追ってくるわ」
彼女の言葉通り、背後に迫りくる影があった。銃声が鳴り響き、月夜に一筋の火線が
「ヤハタ、しっかり捕まってて」
手首が強く握られたことを確かめると、ヴァローナは右に舵を切った。視界が急速に横へ流れる。背後を窺う。先程まで自分がいた場所に、二本の火線が引かれる。疑念は確信へと。デューイはヤハタを殺そうとしている。違うことなく、ヴァローナさえも。
前を睨み付け、翼を空に叩き付けるように無心で加速する。上昇と下降、旋回と失速、再加速。とめどなく、一心不乱に繰り返す。射線に捉われないよう、三半規管がイカれようとも少女は止まらない。たとえ一瞬でも気を緩めようものなら、デューイの凶弾が襲いかかることを知っているから、少女は止まることができなかった。
けれど、彼女の焦心を嘲笑うように彼我の距離は詰められつつあった。切り返しが間に合わない。デューイの照準は、確実にヴァローナを捉えつつあった。
どうしよう、殺されてしまう、失ってしまう、ヤハタをこの手から、取りこぼしてしまう。
狂騒が少女を蝕み、焦燥が思考力を奪い始めたとき、
「ヴァローナ、翼を閉じろ」
ヤハタの声が耳に届いた。繋いだ手のひらの先、両腕に圧しかかる重みを意識したことで僅かばかりの冷静を取り戻し、同時にヤハタの真意が分からずにいた。
「でも、そんなことしたら、」真下に広がる闇にうろたえ、
「下を見ろ、大丈夫だ」ヤハタの眼に映るものがヴァローナには分からず、
けれど、信じようと、頷いた。
煩いをかなぐり捨て、ヴァローナは変幻の魔法を解いた。白翼はコバルトブルーの光とともに消え去り、揚力を失った二人は夜空を切り裂くように落ちていく。落下線の先では、闇夜に紛れて運河が広がっていた。みるみるうちに近付く真っ黒な水面を見据え、ヴァローナはヤハタの体にしがみついた。運河に没する瞬間、少女の姿はヒトの形を留めておらず、ヤハタを包み込む〈緩衝膜〉へと化していた。
巨大な水柱が空に突き上がり、ヴァローナとヤハタはデューイの視界から消えた。
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