縁――未練――腫瘍

 切り取られた真円から覗ける世界が、男にとっての全てだった。迷彩のために体に被せた布へと晩夏の陽射しは降り注ぎ、じわりと全身に汗が浮かぶ。暑さのために浮かび上がった汗を緊張のせいだと勘違いするほどには、男は平静から切り離されていた。

 荒い鼻息を繰り返しつつ、片目だけの視界に意識を凝らす。視えているものは廃墟同然になるまで破壊された街並み、種々の色は戦火に炙られて薄らいでいる。

 ゆっくりと舐めるように視界を横へ滑らせていき、彼ははたと動きを止める。凝視するのも束の間のこと、心臓の拍動と呼吸が重なり、全身が静止する瞬間を見計らい、指先に触れさせていた金属片を手前に引いた。手中に走る振動、炸裂の反動、抑制された開放音が耳を劈く。

 戦果を確認した観測手スポッターが「命中」と端的に告げる。男は止めていた息を細く吐き出し、耳栓代わりに詰めていた布を耳から抜くと、小さく丸め直して再び詰めた。

 あまり効果はないな、と諦めるように嘆息。

 鼓膜は未だに揺れていて、三半規管の調子が少しだけ悪かった。

 制圧完了の報せが入り、男はようやくスコープから目を離した。狭められていた真円の視界が三六〇度にまで急激に広がり、視覚情報の増加に眩暈を覚えた。

 今日は何人を仕留めたか。男の周囲では取り留めもなくそのような話題が沸き起こり、屈強な男達は誇らしげに数字を口にする。ある者は誠実に、ある者は誇張して。

「おい、ネクロ。今日は何人、愛人を増やしたんだ」

 巨漢のホワイトカラーが嘲笑とともに訊ねる。ドーベルマンのように削ぎ落とされた肉体、黒髪に白い肌のホワイト&イエローは沈黙を維持、首周りに巻き付けたぼろ布を鼻まで引き上げた。別に愛してるわけじゃない、抗議の声は噛み殺されて誰にも届かない。

 ネクロと呼ばれた男はウィンチェスターM70――狙撃銃、ボルトアクション式ライフル――を肩に担ぎ、そそくさとその場を切り上げる。不干渉が彼のスタイルというわけではなかったが、脳みそよりも筋肉を発達させたタフガイとの会話はどうにも苦手だった。

 男の首にかけられた識別タグには、ヤハタ・エインズワースと刻印。珍しい名前。

 壁にもたれかかるようにして階段を下りつつ、懐中から潰れた煙草を取り出す。金髪のカウボーイみたいなタフガイから教えてもらった「最も効果的に、かつ合法的に恐怖と興奮を忘れる方法」は、ヤハタにとってコカインやモルヒネと同等に無くなってはならないものだった。

 ヤハタ・エインズワースは狙撃兵、戦争家、ヒトを殺すことで報酬を得る人間。

 先程までの張り詰めた空気はどこに霧散したのか、ヤハタがビルを降りきったときには、辺りは今日を生き抜いたことへの祝賀と、明日を失ったことへの嘆きで満たされていた。

〈パーティー〉をよそに、彼は記憶を頼りに廃墟を徘徊する。あまり部隊から離れることはよくないと自覚しながらも、足運びに乱れはない。残党に襲われるかもしれないといった恐怖は肩に担いだウィンチェスターと、ポケットの中で握り締めたリボルバーが和らげてくれる。

 民家の角を曲がり、それを見つける。

 感嘆の再会。右胸を大きく損傷した死体。

 ヤハタの弾丸によって終わりを告げられた死骸が、道の中央に転がっていた。

 自分で終わらせたものに関しては、そうだと分かる。殺した側の波長と殺された側の波長はぴったりと重なり合い、増幅する。加害者と被害者、醜悪な未練を孕んだ関係は堅牢な鎖となって二者を結び付ける。望もうと、望まなかろうと、因縁は楔となって撃ち込まれる。

 戦場に固定、解放されない魂の坩堝。

 死体を見下ろすこと数十秒、ヤハタはポーチから小さなカメラを取り出した。シャッターが切られる。被写体は死体、彼が終わらせた人間。殺人ポルノも驚きの、リアルな死骸。

 彼が死体性愛者ネクロフィリアと揶揄される所以はここにあった。ただひとつ齟齬が生じているというならば、彼の行為が性的興奮によらないことだ。彼はただ残したかった、忘れたくなかった。異国の地に赴いてまで、己が犯した罪の全容を。曖昧な正義を印籠として、殺した人間の姿を。

「………………」

 発しようとした弔いの言葉は、何を口にすればよいのかまるで分からず、硝煙と腐臭を食むだけに終わる。とつおいつ、思考を回して、空転。

「すまないな」

 彼はようやく喉を震わせた。赦して欲しかったわけでもなければ、懺悔のつもりでもない。それは形式ばった常套句、音を連ねただけの響きでしかなかった。

 言葉はすでに、意味を喪失していた。

 ふと、ヤハタは思考する。いつになれば、自分もこのようになるのだろうと。英雄でもなければ、英傑でもない。数多ある雑兵のうちの一人でしかなく、征野に入り乱れる人々のうち、名声が轟くだけの人物でもない。故に、彼も終わるはずなのだ。誰かの美談を類稀なる物語として飾り立てるために、誰かの英雄譚を確固たるものとするために。

「どうせ、俺も、明日にはお前のようになっている」

 だからそんな怨めしそうな顔をするなと、彼は見開かれたままの死体の瞼を下ろした。

 そのまま、死体の額へと唇を重ねた。塩辛い汗の味は、眼前の死体が先刻まで生きていたことをひしひしと物語っていた。

「地獄で会ったなら、ぬるいシャンパンでもご馳走しよう」

 ネクロフィリアはネクロフィリアらしく、愛人に背を向ける。

 ワン・ナイト・ラブならぬ、ワン・タイム・ラブを終わらせて。

 明日は誰を恋人とするのだろうか、或いは、自分が誰かの恋人になるのだろうか。

 煩悶はそうなったときに抱けばいいと、彼はウィンチェスターを担ぎ直した。



 翌日、部隊は戦線を北上させ、敵ゲリラの潜伏地とされる街を急襲した。ヤハタは変わらず狙撃兵として戦闘に参加した。狙撃ポイントに定めたビルの外壁は、砲弾を食らいでもしたのか大きく抉られ、強風が容赦なく吹き込んでくる。昨晩からせり上がってきた寒冷前線の影響で辺り一面は曇り空に覆われ、ただでさえ良好とは言い難い視界は悪化の一途を辿っている。

 観測手の報告を手がかりに、狭められた視界を少しずつ動かしていく。自軍の先遣部隊の背中を捉え、そこからさらに先へと視界をずらす。

「敵影四、先遣隊より九〇ヤード南」

 観測手が言葉を発するのと同時に敵影を照準に収め、慣れ切った体は自動的に狙撃に向けて整えられた。心拍によるぶれが抑えられ、視界が固定される。けれど、彼は発砲を躊躇った。

「子供がいる」端的に報告。

『こちらも確認した。民間人か?』先遣部隊のリーダーが応じる。

「武器の所持は認められない」

了解コピー。我々は先行する、判断は一任する』

 クソッたれ。ヤハタは盛大に舌打ちして、スコープから覗ける景色を凝視する。

「男が子供に何かを渡している。リュックだ、あまり大きくはない。子供がそちらに向かった。手ぶら、だが、リュックの中身は視えない」

 冷静に報告しているつもりだった。それなのに、言葉を発するほど口調は速まり、呂律が回らなくなっていく。彼の胸中を占める疑惑があった。子供が背負っているものは、爆弾ではないか。判断は委ねられた。命を預けられた。爆弾か、否か。保護を求める民間人か、悪意を孕んだ敵兵か。どちらだ。気付けば彼我の距離は五〇ヤードを切っていた。

 ここで実行しなければ、撃ったところで撃たなかったところで、間に合わない。

「クソッたれ」

 叫びとともに迷いを切り捨てた。トリガーを引き絞る。射出された7.65ミリ弾は銃声よりも先に到達し、子供の頭蓋をずたずたに引き裂いた。撒き散らされた血飛沫が霧のように舞い、痛みを認識するまでもなく即死した子供がゆっくりと倒れていく様子をスコープの中心に捉えながら、排莢と装填を一息に行う。慣れた手付き。爆発が起こるとすれば、今。

 だが、いくら待とうとも爆発は起こらず、子供の死体だけが道の真ん中に残された。

「間違えたのか」

 空疎な響きを孕みつつ、彼は平坦な口調で独言した。後悔も嘆きも彼にはなかった。無関係の子供を殺害したというのに心が動かないとは、いよいよ自分は壊れかけているのだと思う。

「すまないな」

 惰性で口にした言葉も、また、冷え切っていた。

 再生プレーバック。けれど、現実はそこで終わらない。過剰な猜疑心を、見誤った自分のことを卑下するヤハタの前で、子供にリュックを手渡していた男が走り出した。迸る咆哮、子供の名前を呼んでいるのとは明らかに違う。伸ばされた腕は、子供を抱き寄せるのではなく、リュックを剥ぎ取った。走り出す、三〇ヤード。〈伏せろ〉端的な警告、ヤハタから、先遣部隊へと。

 その場に伏せる兵士達、その頭上を火線が横切った。間断なく、銃声。二発目。

 一発は、男の腹から腹腔へと侵入し、内臓を破滅させ、背中から飛び出した。

 一発は、男のもつリュックに到達、炸裂、爆炎と火炎の渦。爆発したリュック、中に詰められていたのだろう爆弾――男の敵意の象徴。背負わされたリュックの中身を子供が知っていたのかどうかは分からない。何も分からぬまま、大人の勝手な都合を押し付けられたのかもしれない。どちらにせよ後味は悪い。

 子供を捨て駒とした敵兵、子供を撃ち殺した自分。人間の残酷性は度し難くとも、他ならぬ自分が生殺与奪に関わったことだけは理解していた。

 その日の戦闘は夕方まで続き、ヤハタは変わらず〈ネクロ〉と嘲笑されながら、憔悴した体を引きずって自分が殺した子供の元まで向かった。小さな骸を前にして屈み込む。咥え煙草から零れた灰が血溜まりに落ちる。子供の貌は、もう判別が付かなかった。

 ヤハタはカメラを取り出して、もはやルーチンワークとなった行為に明け暮れる。シャッターが乾いた音を立て、罪の投影を切り取った。褐色の肌と煤で汚れた銀髪を携えた子供は、ヤハタの罪の証明に初めて加えられる子供の死体となった。

 時は移ろい、場所を変え、褐色の子供はヤハタ以外の人間の眼に触れる。

 写真は手に取られる。褐色の子供を凝視するのは、褐色の肌の子供、ヴァローナ。

 一人にさせてくれと部屋を追い出された。けれど、少女の裡では写真に対する思いがとぐろを巻き続け、ヤハタが寝入った頃合いを見計らい、少女をクローゼットへと向かわせた。

「似てる……」

 写真を見つめ、不意に言葉が口を突く。

「――似てる――」

 写真から読み取れる情報は、その子供が褐色の肌を有していること、煤に汚れた銀髪であり、年端も行かぬ子供であること。そのどちらもが、ヴァローナに似通う。

 胸がずくりと疼き、鈍痛が彼女を襲った。

 頭を抱え、目を見開き、彼女は見たことがないはずの光景を眼窩の裏に見る。

 レコードは歪な音を立てて回り始める。一枚の写真を引き鉄にして記憶が再生される。

〈神様の子供〉ヴァローナと、〈罪人〉ヤハタ・エインズワースの間に繋がりが生じる。抑え切れない鼓動の高ぶりに顔を顰め、ヴァローナは苦しみに掻き立てられるままに手のひらを胸にあてがった。その場で崩れ落ち、震える瞼の裏側に、終わりの光景を見る。

 自分の右眼窩へと飛来してきた弾丸の影、脳漿と脳髄が混ぜ合わされる感触、認識するまでもなく死へと叩き落された刹那の記憶。全てが、キネマを眺めているかのように想起される。

〈だからさ、気を付けなよ、ヴァローナお姉ちゃん〉

 ジョニーの言葉が耳の奥で反響する。

〈人間の縁ってのは、悪いものだってあるんだから〉

 ヤハタとヴァローナの縁――未練――腫瘍へと辿り着く。

「殺された」

 ヴァローナはポツリと呟く。

「全部、勘違いだった」

 蹲ったままで瞳だけを持ち上げ、少女はヤハタを見つめる。

「全部、全部――偽物だった」

 剥離していく。全てが崩れていく。ヤハタに感じた懐かしさ、温もり、愛おしさの全てが泡沫へとすり替わっていく。そこに親愛はなかったのだと突き付けられる。

「――――い」

 静かに立ち上がり、ヴァローナはヤハタを見下ろす。

「――――憎い」

 噛み締めるように、ヴァローナは呪詛を吐き出す。殺された。奪われた。私を殺した人間が眼前にいる。私から未来を奪った人間がすぐそこで息をしている。

「憎い、憎い、憎い」

 頭をぐちゃぐちゃに掻き毟り、少女は心を狂わせた。憎しみは殺意へと変貌する。

「殺して、やりたい」

 叫びとともに、少女の心は外れてしまった。魔法が発動する。少女の手中に拳銃が現れ、発動の証として、少女の瞳は炯々と朱く輝く。

 本当だ、とヴァローナは苦い感情を噛み締めた。ヒトを傷付けるのに、ヒトを殺すのに、これほど便利な力はない。傷付けるときには躊躇いがあるのだと思っていた。殺そうとすれば体が震えに襲われるものだと思っていた。だが、果たして自分はどうなのだろうかと考え、見つめてみれば、躊躇いも震えもないことに気付く。

 それは彼女が真に狂っていたためではなく、僅かながらも平静を残していたためだった。ヴァローナの中で、ヤハタ・エインズワースが生きているためだった。

 ヴァローナは二つに乖離する。ヤハタによる殺人の被害者であり、復讐に心を窶すヴァローナと、ひとりぼっちの自分を見つけ出してくれたヤハタを愛おしく思うヴァローナに。

 手中で拳銃が音を立てる。彼女はようやく震えに襲われ始めた。

 ヤハタが憎らしくて、憎らしくて壊れそう。彼が愛しくて、愛しくてはち切れそう。

 殺されて、慰められた。奪われて、与えられた。

「……うぅ、あぁ……」

 ヴァローナは呻吟する。貌をぐしゃぐしゃに歪ませ、嗚咽で喉を詰まらせる。

「殺したく……ない、よ」

 少女の中枢は殺してしまえと叫ぶ。赦すことなどできないとがなり立てる。

 けれど、少女の上澄みの部分、殺害と怨嗟ではなく愛情と慰めでヤハタと繋がった〈ヴァローナ〉はそのような終焉を望んでいなかった。醜悪な感情を認めたくなかった。

 吐息が次第に荒くなっていく。目が眩み、水に垂らした絵の具が広がるように、瞳に映る光景が歪んでいく。胸が痛くて、心は暴走していて、手中の拳銃だけが静かだった。

 指先に力がこもる。ちっぽけな金属片は滑らかにスライドして、乾いた銃声が響いた。

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