罪の投影
暖かで、重く、纏わり付くように。揺さぶられる。朝の目覚めは泥沼のようだった。ヴァローナは小さな目を重たそうに開き、何度か瞬きを繰り返すと体を起こす。ベッドのスプリングが軋み上がり、彼女にかけられていたブランケットが床へずり落ちた。
「やぁ……はた?」
呂律の回らない言葉でヤハタに呼びかけ、部屋に誰もいないことを認めると、少女はふるふると仔犬のように首を振った。白髪が左右に揺れ、彼女の頬や首筋を優しく撫でる。
ヤハタのアパートメントの一室。ヴァローナにとっては大きすぎるダブルベッドの上で、少女はゆったりと背中を伸ばした。胸を反らしながら、そのまま後ろに倒れ込む。
ぼふり、と枕に頭を受け止められ、彼女は天窓を仰いだ。
「眩しい……」
もう、早朝と呼ぶには遅すぎる。陽光はすでに強まり、寝ぼけまなこに突き刺さる。
ヤハタの吐息の感触が耳朶に残っていた。出かけてくる、と囁かれた。
今日が何曜日なのか、ヴァローナは知らない。けれどきっと仕事だろう。
死者は時に縛られないけれど、生者は時を管理することで生きていることを実感する。時に管理されているのか、は別の争議。チクタクと、有限の中での身の振り方を考えていく。
「そっか……今日は一人なんだ」
寂しいというわけではなかった。それでも僅かに空疎な雰囲気を纏わせ、少女は呟いた。
陽光を遮るために目に被せた右腕は、生前と違い、肉の重みが宿っていない。何かに触れることができたとしても、そこに自分は存在していないのだと思い知らされる。
「……お腹空いた」
音を立てて胃が萎む。
死んでいるくせにお腹が鳴るなんて、とヴァローナは苦笑交じりに臍の辺りを撫でた。
ベッドの温もりを名残惜しみながら、少女はキッチンへ向かう。ヤハタの家は雑多なもので溢れ返っていた。足の踏み場にも困るくらい、整然とは無縁な状態。片付けという概念をヤハタは知らないのではないかと疑ってしまうほどに、直截的に言えば汚かった。
「ヤハタったら、よくこんな家で暮らせるわね」
初めこそ足下に散在する物を踏み付けないように注意を払っていたが、十歩も進まないうちにヴァローナは肩を竦め、何だか分からない布の上に足を下ろした。
やってられない。少女の貌には諦めが張り付いていた。
這う這うの体でキッチンに辿り着いたヴァローナはテーブルの上を一瞥し、それはもう分かりやすく目を輝かせた。テーブルの上に置かれていたのは、大きなベーグルサンド。
小走りで駆け寄り、ヴァローナはベーグルサンドを覗き込む。心なしか、彼女の背中の辺りが動いている。
「食べていいよね、いただきます」
初めから承諾を取るつもりなど欠片もなく、ヴァローナはベーグルを手に取った。それはずっしりと重くて、彼女の小さな手からはみ出していた。吐息ひとつ、かぶりつく。
チェダーチーズをたっぷり練り込んだチーズベーグルに厚切りの燻製ビーフ。ベーグルは歯を押し返すほどに弾力があり、チェダーチーズの濃厚な香りが鼻腔をすっと通り抜ける。チーズのまろやかなコクと肉の旨味、黒胡椒のピリリとした刺激に混ざってハニーマスタードの香りが舌に絡む。付け合わせの紫タマネギはシャッキリとした辛さで、ちぎったレタスは瑞々しさに溢れ、噛むほどに口の中が潤っていく。
ヴァローナはきつく目を瞑り、両足を悶えさせた。それは美味という名の幸福が、渇いた血肉にじんわりと沁み込んでいく感覚だった。一心不乱に、無我夢中で小さな口で嚙り付き、リスのように頬張っていく。食事とは、生きていようと死んでいようと幸福に通じるのだと知る。
「ごちそうさまでした」
頬を蕩けさせながらヴァローナは手を合わせ、食物へと感謝を示す。唇の端を手の甲で拭いながら、空腹が満たされたことで少女は安らぎ、ふと、今日はどうしようかと思う。
眼差しを窓の外に。ジョニーが示唆したヴァローナとヤハタが孕む未練、少女の体感の記憶から辿れば、ヴァローナを探す行為はヤハタ・エインズワースを知ることに通じるように思われた。そうだとすれば向かうべきは外ではなく、この場所なのかもしれない。
ヴァローナはくるりと視線を巡らせ、ヤハタの家のあまりの惨状に怯みながら、
「今日はハウスキーパーになる」
腐海とも喩えられるゴミの山のどこかにヴァローナとヤハタを繋ぎ合わせるものがあるかもしれないと期待して、彼女はさしあたってゴミ袋を探すことから始めた。
一目で〈いらない〉と分かるものはゴミ袋に放り込み、〈いるかもしれない〉と迷うものは段ボールに集める。ヤハタの影が感じられるものは、相応の場所に片付けた。ヴァローナの手際は非常に優れていた。溢れ返っていた雑多な物々は少しずつ減らされて床が露出され、二時間ほど経った頃には、キッチンがようやく人の住めるだけの体裁を擁した。
「よくも、ここまで汚せたものね」
積み上げられたゴミ袋の山を見上げ、少女は二度目の嘆息を溢す。
場所を変える。キッチンに続くリビング、そこからさらに分かれた部屋のうち、一番手前の部屋の扉を開ける。蝶番が微かに擦れ合う音とともに、鋭く尖った臭いがヴァローナの鼻腔を貫いた。部屋全体に染みついた、煙草の臭い。
ヤハタの部屋だと、ヴァローナは何かを思うよりも先に察する。胸の前で思わず手を握り締める。少しだけ、本当に少しだけ、部屋に踏み入ることに躊躇を抱いた。
未練を知ることは
知らなかった方がうまく廻っていたのかもしれない歯車に、わざわざ、効き目の分からない油を注すこと。それで錆び付いたところで、選択したことの責任からは逃れられない。
覚悟を固めるには、ヴァローナはまだ、幼い。
生温かい唾を呑み込み、少女は首を振るう。雑念を払い落すために。冷静という名の壁を築く。揺れ動かないように。自分が発端となって、ヤハタを傷付けることのないように。
踏み出してしまえば、やけにあっさりとしていた。少女はヤハタの部屋に足跡を刻む。僅かに先走った感情を胸中で噛み砕きながら、ぎこちなく視線を巡らす。
「読み終わった本を戻さないなんて、ヤハタはマナーが悪いのね」
なぜだか分からない懐かしさとともに、ヴァローナは裏返しにされた本の背表紙を撫でた。
本棚を乾拭きして、床に積み重ねられた本を一冊ずつ片付けていく。著者順に収めていくのはヴァローナのこだわり。床が終わればベッドに放り投げられた本を、窓際に積まれたために陽に焼けて茶けてしまった本を、それに続いて机上に重ねられた本を持ち上げて、本によって遮られていた壁面を目にして、ヴァローナは息を詰まらせた。
写真が飾られていた。ピンで直接壁に留められ、色褪せた写真が一枚だけ。
これだけは大切なのだと、誰にともなく訴えるようにひっそりと。
写されている人はヤハタと輝くようなブロンドの髪の女性、小さな女の子。安息日に撮られたのか、教会の前で。〈家族の写真〉、けれど――……
「油性ペン、ベタだなぁ」
ヤハタ以外の二人の顔は黒く塗り潰されていた。そこだけがぽっかりと抜け落ちてしまったかのように、真っ黒と、ヴァローナが二人の顔を見ることはできなかった。
「取り戻したいけれど、忘れたくもあったのね」
ヴァローナは手に抱えた本を机上に戻し、写真を視えないようにした。ヤハタが隠したいと願っていることならば私がむやみに干渉するべきではないと、少女は写真に背を向けた。
写真を探れば自分が見つかるかもしれないという思いには蓋をして。
ヴァローナのルーツを探りたい思いは確かにある。けれど、そのために誰かを侵害することは避けたかった。たとえそれが一番の近道だとしても、他に道がないのだと追い詰められるまでは、触れずにいたかった。それはヴァローナがヴァローナであるために踏み外してはいけない一線、犯してはならない領域、彼女にとって信念に近しい戒めだった。
後ろ髪を引かれる思いって、こういうことなのね。
ヴァローナはヤハタの部屋を出た。片付けは中途半端に放置されたままだった。
そして、日が暮れてから、少女は再び〈試しの部屋〉を訪れる。スイッチを入れると、切れかかった電球が挙動不審に明滅してから点る。ヴァローナは両腕一杯に洗濯物を抱えていた。クローゼットへと近付く。抱えていたものをベッドの上に置いてから、ふと、ヴァローナは本で隠された写真を思い起こし、そちらを覗き見た。
「こういうの……未練がましいって言うのよね」
気になるなら見ればいいじゃない、と心は誘惑を叫ぶ。一方で、それはダメよ、と首を振り続ける自分もいる。誘惑と理性に挟まれ、ヴァローナは息苦しさに喘いだ。
だからこそ、少女には思いもよらないことだった。誘惑を振り切り、服をしまうためだけに開いたクローゼットの中に、さらなる揺さぶりの胤、ヤハタの罪が隠されていようとは。
クローゼットに服などしまわれていなかった。
そこに飾られていたのは、モノクロ写真。色彩を欠いているわけではなく、背景も人も、被写体の全てが単調な色彩であるからこその、モノクロなカラー写真が整然と貼られていた。写されている光景は決して胸を好かせるものではなく、異常だと嫌悪するに相応しく、逸脱していると唾棄するに相応のものであり、それはまさしく罪の投影だった。
「……何、これ……」
ヴァローナは言葉を失くす。
屍人――鼻梁より上が削ぎ落ちた人間、臓物のレースで飾られた人間、左右の眼窩を一本の空洞で繋げられた人間、とかく生命の拍動とは乖離した屍人の写真でクローゼットは満たされていた。殺人ポルノ、ではなく、殺人に徹し切った光景の写し絵の群れ。墓標のように。
ヤハタを見失う。ヴァローナの知るヤハタ・エインズワースが音を立てて崩れていく。
性癖と見做すにはあまりにも異質で、そういったものではないと分かるけれど、これらがどのようにヤハタ・エインズワースと結び付くのかに関しては何も見当がつかない。
逆流する胃酸の感覚を抱きながら、写真を追っていくと、右下に貼られた一枚に目が留まる。大人ばかりの屍人の群れに混ざった、唯一無二の子供の屍人。喉が渇き、動悸が理性を揺さぶった。好奇心と誘惑が僅かに勝り、ヴァローナは写真へと手を伸ばした。
指先が写真の端に触れたとき、少女は背後の気配をようやく認めた。
「ヴァローナ」
託宣のように、重く響き渡る声。ヴァローナ、硬直、肩を震わせる。これほどまでに冷え切った調子で名前を呼ばれたことは初めてだった。恐々と、振り返る。
ヴァローナが認めたヤハタの貌は土気色になるまで青褪め、険しい渓谷が刻まれ、知られてしまったと逸る感情で焦げ付いていた。ヤハタはぐちゃぐちゃだった。
沈着を保っているからこその動揺を垣間見せながらヤハタはヴァローナに迫り、少女の肩を掴んで壁に押し付ける。手のひら越しに怯えが伝わってくるが離れようとはせず、虚ろな眼差しを少女へと送る。手を離さなければいけないと、彼女の恐怖を絆してやらねばならないと頭の中枢ではビシバシと警告灯が鳴っているというのに、ヤハタはどうにもできずにいた。
罪を見られたことで彼は動揺する。知られたことで恐怖する。
暴かれたことで、彼は己が罪人だったことを改めて思い知らされた。
逃れられはしないと、錆び付いた囁き。酩酊――気が狂いそう。
「……見るつもりじゃなかったの。詮索するつもりも、あなたを苦しめるつもりも……」
俺は苦しんでいるのか、とヤハタは微笑みを溢した。
「すまない」
許してもらうつもりなど初めからなく。端的に、一方的に伝えるとヴァローナの手を引く。小さな体は抗うことなどできず、部屋から追いやられる。
少女の眼差しの震えを克明に見つめながら、ヤハタは部屋の扉を閉じる。断絶――拒絶。
「ヤハタ、ヤハタ!」
扉が叩かれ、ヴァローナの呼び声が届く。ヤハタは耳を覆った。
「すまない。今日は、一人にさせてくれ」
好ましくない選択だと自覚はしていたが、呼び声を切り捨ててずるずると座り込む。正面にあるのは開け放されたクローゼット、彼の罪を閉じ込めていたパンドラの箱。
「知られちまったか」
後悔はひとひら、咥え煙草から灰が零れ落ちた。
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