錆び付いた囁き
名前を知らない鳥が、初めて聞く声で鳴いている。潰したオレンジを振り撒いたような空には帯雲が停滞し、燃え上がるように、ある意味での神々しさを演出していた。
「私とヤハタの縁、か……」
死ぬ前からヤハタと繋がりがあったかもしれないなど、考えたこともなかった。
なぜなら、ヤハタにはヴァローナを知っているような雰囲気は少しも見られない。知らないふりをしているのだとも思えない。ヴァローナから見て、ヤハタ・エインズワースという人間は〈篤実〉が人の姿をしているようなものだった。
「分からないな……」
不意に、背後から夕陽が遮られた。ヴァローナの足元には背高のっぽの影法師。
「お帰りなさい、ヤハタ」
「ただいま、ヴァローナ。待たせてすまなかった」
「平気よ、気にしないで」待つのは慣れている。「何か手がかりは見つかった?」
ヤハタは躊躇いがちに目を伏せ、申し訳なさそうに首を振った。
「……気にしないで。これで手詰まりというわけじゃないから」
ヴァローナ探しの一日目は、ヤハタにとっては何の進展もなかった。けれどヴァローナにとっては、大きなわだかまりを生じさせた。それはジョニーを責めても仕方のないことで、ヴァローナとヤハタの問題なのに、知りたくなかった、気付きたくなかったと思ってしまう。
少しだけ、自分について分かったことがある。〈ヴァローナ〉は厄介事を直視したくない性格らしい。優しいことや望ましいこと、都合のよいことだけを甘受していたい性格らしい。
されど、誰が予測していただろう。まがりなりにも〈神様の子供〉であるはずの少女が、高潔と清廉の体現であるはずの少女が他人との間に未練などという腐った泥を抱えていたなんて。
神様とは、神様に付随する存在とは、もっと綺麗なものじゃないのか。
それとも神様だからこそ、人間を試すことが許されているのだろうか。
思案。困惑。俯かせた瞳では足元の泥しか見ることができない。
ヤハタと繋いだ左手に意識を凝らす。往路に比べて泥濘はマシになっているとはいえ、ヴァローナの背格好では億劫なことに変わらない。だから、ヤハタは手を繋いでくれていた。
ふとヤハタの貌を仰ぎ、ヴァローナは慌てて目を擦る。一瞬だけ、ヤハタの貌にコールタールのような靄が巣食っているように視えたために。いけない、毒されている。
ジョニーは縁には悪いものもあると言っただけで、ヤハタとの縁がそうだとは断定しなかった。けれど、それならどうしてヤハタはヴァローナのことを知らないのだろう。
記憶を失くした神様の子供と違い、ヤハタは連綿と続く記憶を保有しているはずなのに。
「ねぇ、ヤハタは記憶を失くしたことなんてないよね」
迷っていても進展しないと切り出した訊ねは、ヤハタの怪訝な視線によって潰れてしまう。質問が直截的に過ぎたと後悔するも後の祭り、居心地の悪さを噛み締めながら返事を待つ。
「記憶の取り戻し方を聞いているのか」
「そうね、そんなところ」
「さて、俺にはそんな経験がないからな。普通は医者に罹るもんだが、ヴァローナはそんなことできないから、地道に足を使っていくしかないだろう」
「心に特効薬があればいいのにね」
服用する躰さえ、心の実体である脳でさえ少女はもはや持たないけれど。
それきり会話は途絶える。車に乗り込み、教会を後に。往路の興奮を懐かしんでしまうほどに、復路は沈黙に満たされた車内。点滅するウィンカーの音と、車窓から流れ込む風の音だけが聞こえる。ヴァローナは背もたれに脱力した体を預け、夕陽が沈んでいく姿をぼんやりと眺めていた。
ヤハタは煙草を取り出したけれど、咥えたままで火を点けようとはしない。唇を微かに擦り合わせ、煙草の先端を上下に振っていた。
「火、点けようか?」
ライターを指差す。ヤハタは低く唸ったが、ライターを差し出そうとはしなかった。
ヴァローナもそれより追求しない。踏み込むことが躊躇われた。近付くことを怖れた。
呪いのように、錆び付いた
〈ぼくたちは腫瘍を抱えている〉
望まれた関係であって欲しい。祝福される関係であって欲しい。
どうして、こんなに、怖いの? こんなに、痛いの?
ヴァローナは苦しみに呻く。ヤハタと私はあたたかな間柄だったと信じたいのに、それを否定しようとする事実がある。記憶の欠落。親しかったなら、忘れられるはずがない。
触れたい、と思った。温もりに縋りたいと思い、縋ってもいいのだろうかと紕う。
もしも私達の関係が焦げ付いていたなら――そうすることは、きっと望ましくない。夕陽の眩しさに、ふと涙が滲む。自制しようとしたことも間に合わず、頬を伝い落ちる。
隠し切れるものではなかった。微弱な制動、車は路肩に停まる。無言の車内に抑圧されたすすり泣きの声が響く。切なく、ちぎれそうに、ヴァローナの心は揺れ動く。
〈ヤハタ! ヤハタ! ヤハタ!〉叫び出したい。
〈優しくして、優しくするから!〉キスをねだるように。
認識――私は一人に戻ることを怖れている。
認識――私はヤハタの沈黙を怖れている。好ましい関係なら忘れたふりなんてしないはず。
認識――訊くことはできない。言葉にすることで瓦解してしまいそうだから。
結論――こうして、惑乱を招く形ですすり泣く。
「………………」
慰めの言葉はなかった、けれどヤハタはひどく慣れ親しんだ動きでヴァローナの頭に手を被せた。慰めるというよりはあやすという感じで、ヤハタはゆっくりとヴァローナの頭を撫で、柔らかな髪を梳る。不意を突かれたヴァローナは息を詰まらせ、体を強張らせた。その手を払い除けなければいけないと囁きが聞こえるのに、いつまでもそうしていて欲しいと願う。
落ち着かない気持ちだけが積もっていく。ヤハタの方を向くわけにはいかなかった。こんなにも情けなく、混乱を抱えながらも緩み切った顔を見せることは矜持が邪魔をした。
ヴァローナは、ヤハタの前では安心できた。心が穏やかになれた。
「…………ありがとう」
「あぁ」
わざと軽薄な調子で返事をして、ヤハタは手を離す。未練がましく目で追ってしまいそうになったことに気付き、ヴァローナは慌ててそっぽを向いた。
車がゆっくりと走り出す。熱の余韻が引かない眦を擦り、それから、先程までヤハタに触れられていた場所へと確かめるように手をあてがった。感覚が、まだ帯電していた。
ふと、導かれるように思う。他意はなく、湧き上がってきたこの想い。この記憶。ヴァローナはヤハタの手の感触を知っていた。たとえ心が忘れようとも、少女の体は憶えていた。
それは間違いなく生前にヤハタと出会っていたことの証明、体感の記憶だった。
ヴァローナの体はヤハタを憶えているのに心は喪失している。それなのにヤハタはヴァローナのことを憶えていない。欺かれているのでなければ。称賛したくなるほどに整えられた昏迷を前にして、少女はあまりにも小さく、無力だった。
「ヴァローナ、〈神様の力〉とは何だ?」
ヤハタの訊ね。脳裏には禁則事項が羅列。
「他者を傷付けてはならない。殺してはならない。偽証を立ててはならない。盗んではならない。姦しくあってはならない。そこまでは罪として定められているのは理解できる。だが、〈神様の力〉を濫用するとはどういうことだ」
「…………そのままの意味よ。私達は逸脱を禁じられているの」
車窓の外の何も見えない暗がりへと目を向けたまま、言葉を続ける。
「神様の力とは所謂〈魔法〉のことよ。神様に依っているのだから〈神聖術〉とでも呼ぶべきなのかもしれないけど、人智では叶えられない奇跡を引き起こす力のこと」
「だから濫用を禁じたのか」
「奇跡も魔法も、転用すれば悪に堕ちるわ。神様の力は誰かを救うために、人民に安寧をもたらすために使われるべきで、誰かの利潤を満たすためだけに使われてはいけないの」
そう前置きしてから、赤信号で停車するときを見計らってヴァローナは左腕をヤハタへと突き出した。彼の様子を窺うまでもなく、怪訝な眼差しが浮かべられたことが分かる。或いは嫌悪か畏怖、少女はまさしく人間ではないのだと、再認識した。
ヴァローナの腕はヒトの腕ではなく、猿の腕を、毛むくじゃらの獣の腕と化していた。
「それが魔法か」
愕きをどうにか呑み下したようなぎこちない口調でヤハタは訊ねた。
分かりやすく、見せつけるように
「神様の子供はそれぞれ魔法を与えられていて、私の場合はこれ。万物の法則に縛られず、自分を変幻させる魔法。ただそれになりたいと願うだけで、たとえその姿も機構も理解していなかったとしても、私はひっくり返る。こんなこと、魔法としか呼びようがないでしょう?」
ヤハタはヴァローナの腕をまじまじと見つめ、「諸刃の剣だな」と呟く。
諸刃の剣か、とヴァローナは裡で繰り返す。
ヤハタはよく言い表していると感じる。諸刃の剣、或いは抜身の刀身。神様の魔法は人智を越えた力となるけれど、一度でも使用法を誤れば使用者を狂わせてしまう。ヴァローナの〈変幻〉も使途を選べば誰かを守ることができる一方で、命を屠ることもできる。
どうして神様がこんなものを与えたのかは分からない。
どうしてヒトを殺められる術が死後の試しを迎えるにあたって与えられたのかは分からない。
少女は神様の子供で、神様の翼の探し人だ。世界の断罪者でなければ守護者でもなく、おおよそヒトを傷付ける行為からは遠くなくてはならない存在であるのに。
「私ね、怖いんだ。どうして神様はこんな力を私に授けたんだろうって。初めは、普通の人にはできないことができることに高揚した。夢のような力に、酔い痴れた。けどね、その気になれば簡単に誰かを傷付けられるんだって気付いたとき、たちまち怖くなった」
「抑止力として、神は禁則事項を設けたんじゃないのか」
「そうかもしれない。だけど、思うの。もしかしたら神様は私が誰かを傷付けることを知っていて、分かっていて、その手段として魔法を与えたんじゃないかって――」
どろどろ。ヴァローナは猜疑心の塊だった。
ヤハタは少女の扱いを持て余すように頭を掻き、呻吟する様子を見せた。それから、そうあるだろうと確信しているかのように「ヴァローナは大丈夫だ」と告げた。
「ヴァローナはそんな人間じゃない。キミは賢しく、怜悧だ。たとえ天秤の針が揺れ動くようなことがあったとしても踏みとどまれるだろう」
「だけど、私には魔法が、」一線を後押ししてしまう力がある。
「強すぎる力があることは確かだろう。だがな、ヴァローナ、たとえ魔法なんてものを持っていないとしてもヒトは簡単に誰かを傷付けられる。危険なのは道具じゃない、人間だ」
ふと、ヤハタの言葉に暗い影が混ざった。一般論を述べているようなよそよそしい口調ではなく、自分自身にさえ言い聞かせるような、親身に迫ったもの。
肩に手をあてがわれ、引き寄せられる。ヴァローナは抗わず、ふらりとヤハタに身を寄せた。力強い抱擁は、温もりを孕んだ愛情の形だった。
「ヤハタ?」
「大丈夫だ、ヴァローナ」
繰り返す都度に、ヤハタの言葉は熱を孕む。確証のない言葉、確信の伴わない言葉、されどヤハタは繰り返す。それは、言葉にすることでその通りに移ろうと信じているかのように。
けれどヴァローナの裡には暗雲が立ち込めていく。ジョニーから告げられた陰陽のどちらにも転じ得る未練、ヴァローナとヤハタに纏わる腐った池に、生殺与奪を軽やかなものとする魔法が絡み合うことで、少女の胸は途方もない不安で締め付けられる。ヴァローナが誰かを傷付ける未来が確定しているというのなら、予想される人物は、神様の子供でありながら少女が繋がりを持った人、ヤハタの他にいないのだから。
抱擁されたまま、身じろぐことはせずに瞳だけを持ち上げる。遠くを見つめるヤハタの眼には、ひどく郷愁を掻き立てられるものがあった。
あぁ、やっぱりジョニーの言葉は正しかった。私はヤハタ・エインズワースを知っている。
予測は、確信へと。変転、どうか優しく。
目を瞑り、ヴァローナは抱擁へと体を預けた。
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