神様の迷子

 血で濡れてしまった体をもう一度洗い流し、バスルームから出るとヤハタは服を用意してくれていた。ヤハタの服はとても大きく、七分袖シャツだというのに袖丈はヴァローナの手首にまで届き、裾の余り具合も合わせると、ワンピースを着ているようだった。本当のことを言えばヴァローナが服を受け取る必要はどこにもなかったけれど、ヤハタの優しさにあてられ、少女は綿布のさらりとした肌触りに頬を綻ばせた。

「似合う?」

 ヤハタの反応はいまいちだったけれど、ヴァローナは気に入った。

「ヴァローナの翼を肥えらせるためには、何をすればいいんだ」

 それはヴァローナ自身が知りたいことだった。言葉に詰まった様子を認め、察しのよいヤハタがそれ以上言及することはなく、それでも僅かに落胆したのか肩を竦めた。

「まずは、ヴァローナを探すことから始めよう」



 時速六十キロで背後へと流れていく景色は細部を認めることができず、おそろしく粗雑な点描画を眺めているようだった。開け放した車窓から風がなだれ込み、ヴァローナの髪と服をめちゃくちゃに躍らせている。

「楽しそうだな。車が初めてというわけでもないだろうに」

「記憶がないんだから、初めてみたいなものでしょう? それにしても速いのね」

 車窓すれすれまで顔を近付け、目を細める。風が肌を撫でる感覚がいっそう強く感じられ、眼球と眼窩の間を縫って頭骨までもが撫でられているようだった。行儀よく座っていたのも僅かな間で、ふと気付けば、ヴァローナは膝を立てて窓に縋っていた。ヤハタは呆れた風に「危ないから顔は出すな」と忠告したが、座り直せとは言わなかった。ヴァローナは横目でヤハタの様子を窺うと、また車窓の外へと視線を戻す。ヴァローナが感じている訳の分からないほどの胸の高鳴りを、ヤハタも感じたことがあったのかもしれない。ドキドキ、ワクワク。天地がひっくり返ったような新鮮な感覚は、いつまでも浸っていたいものだった。

 風を切る音が緩やかになる。車の速度は次第に遅くなり、車外の眺めは赤茶けた土肌から、真っ白な岩肌へと変わっていく。喧騒の街を発ってから一時間余り、車は穏やかな海岸線を走り続けていた。

「どこへ向かっているの?」

「教会だ」

「そこに行けば、ヴァローナが見つかるの?」

 ヤハタは少しだけ、愁眉を寄せる。

「教会は、警察沙汰にならない死者の弔い場だからな」

「気にしないで、ヤハタ。私は自分が生きていないことくらい、ちゃんと自覚しているから」

 やっぱりヤハタは優しいじゃない、と呟く。自分がすでに死んでいるという事態は、少なくとも少女にとってはヤハタが想像しているほど恐ろしいものではなく、未練のないものだった。誰かに抱き締められていたいと願うほど悪寒に喘いでいるわけでもなく、唯一の恐ろしさであった〈繋がりの断絶〉はヤハタによって拭われた。

(私は充たされている。だから、そんなに哀しい顔をしないで欲しい)

 哀憐の眼差しを注がれるよりも、ヤハタには自分を見て笑っていて欲しかった。

(そうすれば、私も笑えるから……)

 それを伝えたいのに言葉はどうしたって出てこなくて、恥ずかしさ、遠慮、そこまで干渉してもいいのかという迷い、いろんなものが渦巻いていた。

「私の、いくじなし――……」

 開け放した窓の外に告げた言葉も、ヤハタには届いていないようだった。



 通り雨にでも見舞われたのか、教会へと通じる坂道は一面の泥濘に覆われていた。轍を刻みながら車は登っていくけれど、タイヤはスリップを繰り返し、エンジン音がロロロ――と閑静な森に響き渡る。頭上では枝葉が天蓋を織り成し、真昼の陽光を拝むことはできない。ヤハタは苛立たし気にアクセルを踏み込み、躍起になるほど空回りは加速する。とうとう二人は車を降りた。相当の悪路、実体のないヴァローナでさえ苦労する道を、ヤハタは平然と進んでいく。

「慣れてるのね」

「まぁ、多少はな」

 煙草を吸ってもいいか、とヤハタは訊ねた。少女には健康を気にする理由などないのに。

「どうぞ、お好きに」

 紫煙が揺らめく。五臓六腑に染みわたる、と言わんばかりにヤハタはしみじみと吸う。

 その姿は、ヴァローナにとって大人の象徴そのもので、どこか艶やかさとともに映る。

「似合うのね」

「うん?」

「煙草、かっこいいわ」

「……ませたガキだ」

 居心地の悪そうに、ヤハタは鼻から煙を抜く。

「やめられなくてな。昔は気持ちを落ち着かせるために吸ってたんだが、いつしか、これがなくてはダメになっちまった。始めるのは簡単なくせして、やめるのは、こんなにも難しい」

「エデンの林檎ね」

「そいつは少し意味合いが違うだろう。アダムとイブは永遠に楽園から追放されたが、これは戻れるといえば、戻れるんだから」

「それなら、戻る気はあるの?」

 軽く、茶化したつもりだった。ヤハタも気さくに返答してくるものだと思っていた。けれどヤハタは神妙な面持ちになり、憂いを紛らすように嗄れた声で続けた。

「そうだな……取り戻せるなら、取り戻したいな」

 それきりヴァローナは何も言えなくなってしまった。

 ヤハタの裏側、彼の事情を少女は何も知らないのだから。彼が〈生きるための言い訳〉には家族を愛することの他にも何かがあるのではないかと、邪推せずにはいられなかった。

「禁則事項、だったか。それを明かすことも禁じられているのか?」

 つとヤハタが沈黙を破る。ヴァローナはちらりと彼を視て、舌の先で唇を拭った。

「他人を傷付けてはならない、殺してはならない。偽証を立ててはならない。盗んではならない。姦しくあってはならない。〈神様の力〉を濫用してはならない」

「姦しさは、破ってないか?」

「あれは対象外ノーカウント。情欲を抱いて行ったわけじゃないもの」

「そんなものなのか?」

「そういうものよ。神様だってどこまでも厳格ってわけじゃないのよ」

「それなら、その禁則事項とやらを犯したらヴァローナはどうなるんだ?」

「消えるわ」

 ひどく、あっさりと。淡白な口調でヴァローナは返す。その声音からか、ヤハタにも特に色めいた感情は見受けられなかったが、彼は上空を仰いで言った。

「ヴァローナが消えるのは、俺は嫌だな」

 ヴァローナに言って聞かせるというよりは、少しだけ心情を吐露したような言い方に、少女は形容しがたい胸の疼きを感じた。ヤハタは知らない。すでに死を迎えたこの体に、死んだ先のさらなる終わりに何が待ち受けているのか、彼には想像もつかないことだろう。

 死の後に訪れる、真なる終わりの先に残されるのは虚無だけだ。少女が神様の子供として存在しながら、繋がりを持った唯一のヒト、ヤハタの胸中にのみそれは与えられる。後悔と鬱屈、満たされない胸に空けられた孔、そういうものをヴァローナはヤハタに与えかねない。

 それは嫌だと、それには堪えられないと少女は心を震えさせる。こんなことを言えばヤハタは怒るだろうけれど、そんな悲しみを与えてしまうならヤハタと出会わなければよかったとさえ思う。出会った故の悲しみは、時にひとりぼっちの憂いさえも凌駕する。

 確証のないどのような言葉を紡ぐよりも、少女はヤハタの手を握った。

 ヤハタにとって、自分はどのような存在なのだろう。彼の日常に這入り込んだ迷惑な闖入者、娘の代わり、憐憫と同情の対象、それとも未だに幽霊でしかないのか。

 尋ねてみたい言葉は飲み下し、ヴァローナはただヤハタと手を繋ぎ、道の先へと目を注いだ。山道はようやく途絶え、そこからは青々とした芝生が広がっている様子と、屋根の上に十字架を掲げた赤煉瓦の教会を一望することができた。

「俺は神父と話してくる。ヴァローナは外にいてくれ」

「私も行かなくていいの?」

「……悪霊と間違われ、うっかり祓われでもしたら困る」

「そんな、大袈裟ファンタジックな」

「そうか? 少なくとも宗教が存続してきた背景には〈悪魔祓い〉があるだろう」

 聖書と十字架を武器に悪魔と戦う人など、少なくとも今の時代にはいないだろうと思うけれど、自分の存在がそういった不安を掻き立てているのかもしれないと、ヴァローナは身を引く。

「待ってるね」

「なるべく、早く戻る」

 常とした覇気のなさで片腕を上げ、ヤハタは教会へと向かった。

 残されたヴァローナはどうしたものかと悩み、手持ち無沙汰に、教会の周りを散策する。芝生広場に点在する飛び石を辿って教会の近くまで歩き、僅かに開けられた扉から中の様子を窺う。天窓からの陽光だけが荒原となっているためか薄暗く、辛うじてヤハタの背中だけを認めることができる。会話の内容は、とてもじゃないが聞き取れない。

 視線は教会の内部に向けたまま、ヴァローナはそっと後退して、体勢を崩した。足下に煉瓦が積まれていたことに気付かなかったのだ。

「わ、わわわ――」

 背中から倒れ込み、思わず瞑った目を開いたときには、仰向けで地面に転がっていた。

「……やっちゃった、」

 柔らかな芝生だったために怪我はなかったけれど、髪の毛から背中、ふくらはぎにかけて雨露と泥で汚れてしまった。湿った衣服が背中に貼り付いていて気持ち悪いのに、陽射しを吸い込んでほのかに温かな泥はどこか気持ちよくもあった。

 立ち上がり、服をはたく。そんなことでは汚れが落ちるはずもなく、少しだけ思案する様子を挟むと、ヴァローナはつま先立ちで回る。視界の端に淡い煌めきが浮かび上がり、それは弾けて、爆ぜて、跳ねっ返り、次第に失われていく。一回りを終える頃には僅かな残滓が揺蕩うのみで、そして、泥にまみれた服はどこにも汚れを認めることができなくなっていた。

「お姉ちゃんすごいね! どうやったの?」

 溌溂とした声に弾けるように振り返り、ヴァローナは驚きで言葉を失した。大きな丸縁眼鏡をかけた九歳頃の少年がヴァローナを見つめ、無心に手のひらを打ち合わせていたのだから。

「……私が、視えてるの?」

 恐々と発した言葉に対して、少年は取れそうな勢いで首肯した。鮮やかな金色の髪が少年の挙動に合わせて軽やかになびく。重たい穂を湛えた、麦畑を想起。

「うん、だってぼくも幽霊だから!」

 愉快そうに、諧謔な笑みを浮かべながら、少年はヴァローナよりも小さな手を差し出した。

「ぼくはジョニー・ザ・コップ。よろしくね、お姉ちゃん」

「――ヴァローナよ」

 握り返した手のひらは触れることができたが、ヤハタの手と違い、そこには生者にあるはずの温もりがなかった。眉目が歪みそうになるのを抑え、ヴァローナは不器用に笑む。

 子供の幽霊。自分と同じ。ヴァローナの脳裏で詩が囁かれる。

 愛しい小さな百合の花よ/汝はあまりにもはやく/眩い真昼/太陽の傾いだ宵闇ではなく/新鮮な露に満ちた朝に摘み取られた/主は汝を抱きしめるために御使いを送り/萎れることのない天の庭に/汝を植えたもうた

 囁きウィスパー。呪いのように、錆び付いて。

「ヴァローナお姉ちゃん、見せたいものがあるんだ。来て!」

 手を引かれるままにジョニーについていき、案内されたのは教会の裏手、石垣で囲まれた墓地だった。整然と十字架が林立し、供えられたばかりの花束がポツポツと色彩となる。

 死者の眠り場。ヤハタは、弔い場と言った、死後の肉体が行き着く場所。

「こっちだよ」

 ヴァローナは墓地に踏み入る。反射的に胸が疼く。繋いだジョニーの手のひらは存在感がひどく薄く、儚げで、振り解いたなら二度と掴めなくなるのだろうと思わされる。ジョニーにとっても、自分の手のひらは同じように感じられているのだろうか。

「これが、ぼくのお墓。ここにぼくが眠ってるんだ」

 溌溂と示されたのは、みすぼらしく小さな墓だった。雨風に晒され続けたために凸凹になった墓石には〈親愛なる神の子供 我らの友人 ジョニー・ザ・コップ ここに眠る 1965年7月9日〉と刻まれていた。ヴァローナは驚きとともにジョニーを見る。幼い少年は、その相貌には似つかわしくないほどに成熟した表情を浮かべていた。

「改めまして、ヴァローナお姉ちゃん。ぼくの名前はジョニー・ザ・コップ。およそ半世紀、〈神様の迷子〉となっている幽霊だよ」

「よろしくね、神様の子供」とジョニーはどこか冷えた声音で続けた。その眼差しは平穏とも羨望とも程遠く、嫉妬や艶羨と位置付けられるような逆巻く感情を宿していた。

「……どうして、私が神様の子供だと分かったの」

 生ぬるい唾液が喉を滑り落ちる。ジョニーは無垢な微笑みを保っているからこそ、その貌の端々に落ちる淡い影が、どこか空疎で恐ろしい印象を抱かせる。

「視てきたから。それこそ半世紀という気の遠くなるような時間、ぼくよりも後に死んだ人間が、ぼくよりも先に神様に見初められる瞬間を――……」

 ジョニーは墓地を指し示す。

「この場所に初めに埋められたのがぼく。他の人はぼくの後からここに埋められた。多いときには週に何度も誰かが運ばれてきて、悲しみの空気に胸やけを覚えながら、ぼくも埋葬を手伝った。そのうち、埋められた人も幽霊となって出て来て、ぼくの話し相手、遊び相手、時には慰め合う間柄になってくれたけれど、それから、少し経つといなくなった」

 ジョニーの瞳が揺れる。少年は初めて悲しみを垣間見せる。

「神様に見初められたんだ」

 その背中に翼はなく、不完全でも翼のあるヴァローナとは違い、ジョニーは人のまま。

 神様から忘れられ、半世紀。約束された地を知らされないまま、彷徨する日々。

 徘徊者ワンダー、ヒトとして生きた時間よりもはるかに長く。世界の影として。

「そんなに悲しそうな顔をしないでよ、ヴァローナお姉ちゃん。あやしもぼくには必要ない。見た目はこんなでも、世の中を充分に見てきたんだ。心と知性はとっくに熟しているからさ、それに、ぼくの方が間違いなくヴァローナお姉ちゃんより年上だろうし、それは癪だよ」

 頭の後ろで気怠そうに手を組み、神様の迷子は退屈そうにヴァローナを見た。

「ヴァローナお姉ちゃんを羨んでいるわけでもないからさ」

 それは嘘だとすぐに分かったけれど、ジョニーがそうやって心を押し殺している以上、むやみに暴くこともないだろうと口を噤んだ。代わりに邪推する。ジョニーの姿と心に自分を重ね合わせる。〈神様の迷子〉と自称したジョニーは、およそ半世紀に渡って孤独ひとりぼっちの時間を過ごしてきた。声を聞いてくれる人は誰もおらず、手のひらを握り返してくれる人はどこにも見つからず、ようやく巡り合えた同胞さえも神様に導かれていなくなってしまう。

 どうして自分だけが見初められないのだろうという不安と焦燥、そうした手のひらで掴むことのできない感情はヴァローナにも覚えがあった。途切れていた意識が再び芽生えたとき、少女は一切の記憶を失くしていた。絞り出したシジュウカラの囀りは誰の耳にとまることもなく、この姿は誰の瞳にも映らない。何もかもが綯い交ぜにされて掻き消えてしまったにもかかわらず、脳裏にはひとつの言葉が浮かんでいた。ヴァローナの存在を保証する、唯一の言葉。

『I am a child of God』

 支離滅裂。吟味したところで眉を顰めるしかない言葉に誰かが反応してくれないかと願い、ヴァローナの場合は、ヤハタが見つけてくれた。大人びた口調で平静を装ってみたけれど、あの時、ヴァローナは情けないほどに落涙してヤハタにしがみつきたくて堪らなかった。

 ありがとう。私を見つけてくれて、ありがとう、と。

「ヴァローナお姉ちゃんはよい縁に恵まれたんだね」

「ええ」

 それだけは取り繕うことなく頷くことができる。ジョニーが嫉みの眼差しを浮かべることはなかったが、代わりに彼はどこか棘のある微笑を浮かべた。それはヴァローナとヤハタの繋がりを祝福しているようにも、決して手が届かないものとして見限っているようにも見えた。

「そんなヴァローナお姉ちゃんに、押し付けがましくも、ぼくは余計なお節介をしようと思うんだけど、聞いてくれるかな」

「余計なお節介?」

「理由のある善意、見返りを求めた善行と言った方が正しいかな。ぼくは、ヴァローナお姉ちゃんが〈神様の翼〉を手に入れるための手伝いを、情報を提供する。代わりに、ヴァローナお姉ちゃんにはぼくの代理人エージェントになって欲しいんだ」

「ジョニーの代理人?」

「そう。首尾よくお姉ちゃんが〈神様の翼〉を手に入れ、神様の御許に辿り着けたなら、伝えて欲しい。ぼくがここにいることを。ジョニー・ザ・コップがここで待っていることを」

 ジョニーの目が眇められる。どこか、息苦しい哀憐を訴える。

「もう一人でいることには厭きたんだ」

 多くは語られず、けれど、少年の心情を表すにはそれで充分だった。

「――約束するわ」

 放浪する少女ヴァローナは〈神様の翼〉を手に入れたい。

 放置された少年ジョニーは神様に見つけて欲しい。

 二人の関係には打算と目論見が働いており、それは、彼と彼女が確かにヒトとして生きていたことを象徴しているようにも思われた。

「ジョニー・ザ・コップを忘れないで」

「必ず、伝えるわ」

 こうしてヴァローナとジョニーは契りを結んだ。利用して、利用される関係は神様に通じる二人には似つかわしくないけれど、結局はそういうものだろうとヴァローナは思う。生きていようが、死んだところで、人間に刻まれた習性が色褪せることなんてないのだろう。

「オッケー、契約は成立だ」

 声を弾ませ、少し場所を変えようか、とジョニーは背を向けた。少年を追いかけ、ヴァローナは墓地から教会まで戻る。ヤハタはまだ神父と話しているのか、姿はなかった。

「さっきは躊躇っていたようだけど、ヴァローナお姉ちゃんは教会に入りたくないの?」

「そういうわけじゃないけど……」ヤハタが嫌がったから、とは言いづらい。

「正面からはダメってこと?」

「そうなるのかな」

「それじゃあ、上から入ろうか」

 ジョニーは不思議なことを言い出す。呑み込めないまま少年を追いかけたヴァローナが視たのは、教会の十字架の真下に設けられた天窓に向かい、空を歩いていく少年の姿だった。

「ジョニー、ちょっと待って! どうして空を歩けるの?」

「ぼくらは彷徨う者ゴーストだよ。大地に根を下ろしている方が不思議じゃないか」

 当然だろう、と返してから、ジョニーはヴァローナを見下ろして喉を唸らせた。

「そういえば、お姉ちゃんは生者の殻を破ったばかり。まだ煮え切らないんソフトボイルドだったね」

 煮詰まりすぎた幽霊ハードボイルドは肩を竦める。面倒を嘆くかのように、わざとらしく。

「むぅ……」

「眉間に皺が寄っているよ。可愛い顔が台無しだから、やめた方がいい」

「案外、女たらしなのね」

「五十年以上も煮えてきたからね。そろそろ味が染みすぎてるんだ」

「逆に薄っぺらくなってるんじゃないの」

 そうかもね、と笑い、ジョニーは空を降りてくると右手を差し出した。

「難しいことを考える必要はない。大切なのは想像力だ。自分がどうなりたいのか、どうありたいのかを思い描くことだけ。鮮明に、克明に、想像を募らせるほどヴァローナお姉ちゃんの可能性は拡がっていく」重ねた手が握られ、ジョニーはそっと空を蹴り付けた。

「おいで、ヴァローナお姉ちゃん。ぼくらはもう、飛び出しているだろう?」

 思わず左足が上がる。ヴァローナの空を歩くイメージ。空を歩けるだろうと見做せるだけの、不完全でも論理じみた裏付け。それは引力の糸を断ち切ることだった。ジョニーのように空に足場を作るものとは違う。引き合う力の否定、それがヴァローナの飛翔だった。

 足が芝生から離れ、気付けば空に浮いていた。糸を断ち切りすぎたためにジョニーを追い越しそうになり、慌てて結び直す。上昇と下降の狭間、浮遊の感覚を探りながらジョニーを振り返る。彼は眩しいものを見つめるように目を細め、言葉を失くすヴァローナに笑んだ。

 十字架を目指して浮遊を続け、開け放された天窓から教会の中に入る。床に足をつけた途端に体がぐっと重さを増し、床を薄っすらと覆っていた埃が巻き上がった。

「どうだった?」

「凄かった――……」

 もっと飛んでみたいという興奮が頬を紅潮させるけれど、反して、初めての体験に肢体は震えを刻んでいた。今にも頽れてしまいそうになりながら、ジョニーに支えてもらうことでようやく立っていられる。魅力と恐怖の狭間で、少女は宙ぶらりん。

「初めて飛んだ人は、みんなそうなるんだ。刺激的だったでしょう?」

 愉快そうに片目を瞑り、〈神様の迷子〉は黄金色の髪に指を沈めた。

 埃まみれの倉庫を出る。やや窮屈に扉が設置された廊下には、ビロードの絨毯。足音は吸い込まれて聞こえない。正面には鮮やかなステンドグラスが〈最後の晩餐〉を描く。荘厳なパイプオルガンの管が束ねられ、屋根に達しようとしている。手すりに体を預け、廊下から顔を覗かして階下の礼拝堂を見下ろす。薄闇の礼拝堂には二つの人影。

「彼がヴァローナお姉ちゃんを手伝ってくれている人?」

「ヤハタ・エインズワース、雑踏の中で私を見つけてくれた人」

「ヤハタは優しい人? ――つまり、神様に望まれるような善い人?」

 少しだけ返事に迷う。言葉を交わし、心を通わせてきた中でヴァローナが抱いたヤハタの姿と、彼自身が自覚している姿の間には大きな齟齬が介在しているように思えてならない。それはヤハタがまだ語っていない部分、彼の家族に関するわだかまりとは別の何か、彼の言葉の端々から滲み出てくる〈罪の意識〉にこそ起因するのかもしれない。

「……分からない。私はヤハタを善い人だと思うのに、彼は否定するの」

 優しさは似合わない。善人だと見做されることは相応しくない。

 彼の言葉。称賛の否定、罪人であることの強調。明かされていない秘密が匂う。

「そっか。ヴァローナお姉ちゃんも、厄介な人と縁を〈持っていた〉んだね」

「ストップ、ジョニー。その言い方は変、私達は死んでから〈繋がった〉のよ」

「持っていた、で正しいんだよ。そもそも、此の世のあらゆる事象に関与していて、飢えと渇きに苛まされ、傷を負うほどに生々しいというのに言葉は誰にも届かず、不可視を義務付けられた躰は誰にも認めてもらうことができない。そうした中途半端がぼくらの在り方なのに、どうして縁なんてものを結べたんだと思う?」

「運命、とか」

「まさしく、それは運命だ。神様の子供として地上に解き放たれ、記憶を喪失した魂が唯一言葉を交わせる人こそ、神様の翼を取り戻すための鍵なんだから」

 ジョニーは顎を突き出してヤハタの影を示す。

「生前、ヴァローナお姉ちゃんはヤハタ・エインズワースと何かしらの繋がりを持っていた。だから死後も巡り合うことができた――なんて言えば、運命よりは必然に傾くね」

「会っていた? 私はヤハタに見つけてもらったのではなく、見つけられる必然にあったの? 欠落した記憶の中には、ヤハタの影が刻まれているの?」

「神様の子供というのはね、謂わば死後の裁きなんだよ。誰しもが抱えている生前の未練、死してなお成し遂げたい願いが叶えられるように神様が与えた試練、そういうものなんだ」

「裁き、というのは」

「禁則事項は、憶えているだろ? 犯したときの末路は、その後の虚無は理解しているだろ? 人間には誰しも負の側面がある。未練なんてもの、大抵は負の側面に依るのだから」

 おかしなことを訊くなよ、とでも言いたげにジョニーは愁眉を寄せた。

「だからさ、気を付けなよ、ヴァローナお姉ちゃん」

 ジョニーはヴァローナから目を背け、頬杖を突いてヤハタを見下ろした。

「人間の縁ってのは、悪いものだってあるんだから」

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