生きるための言い訳

 制服を脱いで見上げた昼空は、安穏なものだった。澄み切った紺碧と白妙の雲海。二色のコントラストは明瞭に分かれ、自身を取り巻く都市の喧騒がどこか遠いものに思える。

 日常にふと紛れ込む、非日常的な瞬間。

 こんな時間に外を歩いているなんて、といった思いがどこか浮足立っている。

 ため息を、ひとつ。ヤハタは交差点の中央で歩みを止めた。あてもなく瞳を彷徨わせること十数秒、せっかちな信号機は明滅を始め、停止した車輛の中から訝しげな視線を感じる。

「君は、いつまで付いてくるつもりだ?」

 背後を振り返る。褐色の肌と紅瞳の少女、彼の他には誰にも視えていない少女は応える。

「あなたしか、私が視える人はいないから」

「……とんだ迷惑だ」

 足早に歩き出し、歩道に辿り着いた瞬間に信号機は赤に切り替わった。

「お仕事はもういいの?」

「ヤハタ・エインズワースは極度の過労により幻覚に見舞われ、よって半日の休暇を言い渡された。日本人ジャパニーズかってんだ、クソッたれ。おかげでウイスキーにありつけるがな」

「昼間からお酒はよくないわ。怠惰は大罪よ」

葡萄酒ワインなら、神様キリストもお許しになるか?」

「だめよ、教会に行くわけでもないでしょう」

 ヴァローナはクスクスと肩を震わせた。表情の豊かさだけは、神様の子供だろうと変わらないものらしい。ヤハタは唇を尖らせ、進路を右へと変える。

「行かないの?」

「どのみち、ガキを連れてちゃ入れない」

「私はあなたにしか視えていないのだから、問題ないでしょう?」

「俺には視えてる」

「……優しいのね」

「優しさ、か。その言葉は、俺には似合わない」

 脳裏に焼き付いた光景がある。手のひらに浸み込んだ感触がある。

 優しい人間は、あんなことをしない。

 ヤハタはそのまま帰宅し、当然のようにヴァローナは付いてきた。

 男の一人暮らしにしてはあまりにも広すぎ、女や子供の痕跡が散らばる3LDKのアパートメント。それでいて玄関には一人分の靴しかないことを認め、ヴァローナは怪訝な表情をした。けれど、不相応に大人びた少女が無用な詮索をしてくることはなかった。

「エインズワースさん、あなたの家では靴を脱ぐの?」

「ヤハタでいい。エインズワースと呼ばれるのは性に会わない」

 ふと、ヴァローナの足元を見る。剥き出しの素足はアスファルトに削られて赤く腫れ上がり、思わず瞳を逸らしてしまうほどに、少女の姿は切ない刺激に満ちていた。

「ヤハタ?」

 ヴァローナが首を傾げる。不安そうな表情と上目遣いが合わさり、今にも泣き出してしまいそうな雰囲気が彼女を取り巻いている。痩せ細り、煤に塗れた彼女の肢体を見つめれば、半裸という状態に劣情を抱けるはずもなく、神様の子供がみすぼらしくあることへの懐疑と、年端のいかない少女がそのような姿をしていることへの息苦しさがヤハタの内で渦巻く。

「何でもない。あがってくれ」

 つまらない家だけれど、外に比べれば、随分とヴァローナには優しいことだろう。

「風呂には入れるのか? と、いうより、君はどこまでこの世界に干渉することができる?」

「大抵のものには、接点を保っているわ。触れられるし、傷も負う。喉の渇きを覚え、飢えを抱え、鏡にだって映り込む。けれど、他人に認知されることに関してだけは不干渉ね」

 ヴァローナをバスルームまで案内する。洗面所から出ようとしたところで、引き留められる。胸を押さえるように片手を添えたヴァローナが、ヤハタの服を小さな手で掴んでいた。

「一緒に入ってとは言わないから、せめて、扉の外にいてくれない?」

「随分と大胆なお嬢様だ。俺は君のパパじゃないんだぞ」

 ヴァローナは何も言わず、頬を赤らめさせて俯くだけだった。彼女はまた泣き出しそうな瞳をしていた。ヤハタは頭を掻き、顎髭を弄る。それで見つめられるとどうにも弱い。

「俺は向こうを見ている。君の方は決して見ない」

「もしも私が求めたら?」

「君がそれを求め、真に必要とする理由があるのであれば、俺はこの目に罪を背負わせよう」

 どこか安堵を得たように、少女は物憂げな微笑を浮かべた。

「あなたの言葉は聖書のようね」

「見せかけだけだ。本質は程遠い」

 ヴァローナから目を逸らす。洗面台の鏡に映された彼女は、まだ、幼い。

 脱衣の間は外にいて、ヴァローナがバスルームに入ったことを確かめてから洗面所に戻る。バスルームと洗面所を隔てるスモークガラスに背を預け、ヤハタは瞑目した。シャワーヘッドが水を吐き出す音と、水流がタイルに落ちる音と、肌を伝う音には明確な違いがあった。

「ヤハタ、そこにいる?」

「影が見えているだろう? ちゃんといるよ」

「お話をしましょう。無言で音だけを聴かれているのは、その、やっぱり恥ずかしいわ」

 出ていけと言えば済むことだろうに、と呆れ返りながらヤハタは胸ポケットから煙草を取り出す。初めは噎せ返るだけだった煙は、香りの機微を感じられるようになった。

「神の子供、と言ったな。君は幽霊ゴーストなのか?」

「それに似て、準じて、非なるものね。天使エンジェルと呼ばれたいところだけど、ほんとのことを言うとね、私がいったい何者で、どういう存在であるかは私にも分かっていないの」

 私は、ゴーストよ。少女は言う。

 シャワーが止められ、排水の音だけが控えめに響く。

「自分のことなのに、というより、自分のことだからかしら。気付けば私はこの町にいて、頭の中にあるのは私が〈神様の子供〉であることと、〈神様の翼〉を探さなければならないこと、それに、いくつかの禁則事項ゴーストルールだけ。他には何もなかった……与えられていなかった」

 バスルームのドアが開けられた。

「ヤハタ。あなたの瞳に罪を背負って欲しいの」

 ヴァローナは静かに切り出した。それは引きちぎれそうな声音で、ぐしゃぐしゃに潰れ、聞くに堪えない苦しみの声音だった。懇願と嘆願の、混じり合いだった。

「それは、君が神様の翼とやらを探すために必要なことなのか?」

「直接的には必要じゃないけど、ひとつのきっかけになるわ」

「どのような、きっかけ?」

「ヤハタ・エインズワースがヴァローナに巻き込まれることに対して」

「……君が視えて、君の声が聞こえてしまった時から、俺はとっくに巻き込まれている」

 嘆息は、届かなかったと思う。ヤハタは振り返り、此の世からは乖離した美しさに見惚れた。ヴァローナは胸と恥部を隠すように膝を抱え、丸めさせた背中をこちらに向けていた。煤汚れが流された肌はしっとりとした潤いを感じさせ、灰色に思えていた髪はハクモクレンの花よりも白かった。そして、ヤハタの瞳は、ヴァローナの背中に釘付けになっていた。

 若草が萌ゆる様子によく似た、小さな翼が彼女の背中にあった。

「触れても、いいか?」

 躊躇いがちに頷かれる。そっと指を伸ばし、ふわりと丸まった翼に触れる。指をなぞらせるとやわらかく沈み、指を離すと、繊細な挙動で元に戻る。

「きっと、神様の翼を探せというのは、この翼を肥えらせろということだと思うの。こんなに小さな翼では、私は大地に這い蹲るばかりで、空を見上げるしかない。神様に、近付けない」

 ぽつり、と。白妙の翼に一点の朱が落ちる。朱い滲みは広がっていき、溢れ出す。それは血潮だった。ヤハタの指を伝い、ヴァローナの背中を流れ落ちる朱は鉄の臭いを纏っていた。

 反射的に指をのける。華奢な背中を伝い落ちた血潮はタイルに流れ、十字に広がっていく。血塗られた碁盤のように、妖しげな魅力がそこにはある。血が止まらないの、とヴァローナは矮躯を震えさせた。翼が欠けているというのは、肌が裂かれていることと同義なのかもしれない。そうだとするなら、流れている血潮は命に等しく、このまま翼が取り戻されなければ、傷を抱えたヴァローナは失墜してしまうのだろう。約束された、グラウンドゼロへと。

 ザラリと、動悸を刺激する光景が脳裏を過ぎった。小さな命が失われることに、ヤハタは恐怖を覚える。それは、きっと、彼自身の過去に起因して――。

「俺はとっくに巻き込まれている」

「その言葉はすでに聞いたわ。あなたに視られたときから、私はヤハタを巻き込んでいた」

 ヴァローナは、探し求めていたのではないだろうか。ひとりぼっちで、記憶も喪失して放り込まれた町の中で、自分を見つけてくれる誰かを。〈I am a child of God〉それしか己を表現する言葉を持ち合わせず、道行く人の誰にも認められることはなく、孤独の中でヴァローナはヤハタと遭遇した。少女の姿が視えて、少女の言葉がヤハタには聞こえた。ヤハタは運命論者ではない。ヴァローナとの出会いが神様の思し召しだとも思わない。その出会いに必然も恣意もなく、たまたま、波長が重なった程度のことでしかないのだろう。

 それでも名前を訊ね、ちっぽけでも関わりを持ち、ヴァローナの翼を打ち明けられた。

「ヴァローナ。もしも君が終わる運命にあるとして、そうなりたくないと願うか?」

 ふと、ヴァローナは頭をもたげた。そのままヤハタを振り返り、少女ははにかむ。

「ヤハタ、初めて私の名前を呼んでくれた」

「そうだったか? 一度くらいは呼んだだろう?」

「あれは繰り返しただけ。呼んだのとは、少し違うわ」

「たいして変わらない」

 バスタオルをヴァローナの背中にかけてやる。少女はやつれた四肢を微細に震わせ、タオルを掴むとしわくちゃにした。そして、足の先を丸めさせ、分かんない、と首を振った。

「終わりたいのかと訊かれれば違うけど、終わりたくないのとも違うの。終わりがどういうものなのか分からないというか――そもそも、自分を失くしてまで生きる意味はあるのかな?」

「さて、な。生きることが絶対的に望ましいわけでもないだろう」

「それなら、どうしてヤハタは生きてるの?」

「言い訳があるからだ」

「言い訳?」

「何だっていい。くだらないことでも、高尚なことでも。果たしたい何かがある、成し得たい何かがある、それの実現のためだけに生きている。そういった、些細な言い訳だ」

「ヤハタにはどんな言い訳があるの?」

 僅かに言葉に詰まる。ヴァローナは答えを急かすつもりはないようで、静謐に口を閉ざしていた。沈黙による圧力と呼ぶべきか、それはそれで背中を突かれるような脅迫感があった。

「家族を愛するために、俺は生きている。敬虔な妻と、賢い娘に恵まれた。それなのに俺は相応しい夫と父親でいられなかった」

 今でも後悔はとめどなく溢れている。それが精神に病を患ったことを発端とするのだとしても、ヤハタは妻が自分を殺そうとしていると勘違いして、愚かな錯覚を抱き、妻の首を絞めてしまった。大丈夫よ、あなた、私は少しもあなたを恨んでなんていないわ、傷付いてもいない、仕方のないことだったじゃない、と妻は慰めてくれた。ヤハタに寄り添おうとした。けれど、妻の優しさを享受することはできなかった。今回は未遂で終わったけれど、次は殺してしまうかもしれない。そんな思いが次から次へと浮かび、拭うことはできず、ヤハタは蒙昧の連鎖に陥った。残されたものは広すぎる家と、懐古心を掻き撫でる思い出だけ。彼は妻子を遠ざけた。

「もう一度妻を愛したい。娘を抱き締めたい。それが、俺の言い訳だ」

「素敵ね」とヴァローナは微笑みを浮かべた。

「それも難しいことだけど、当たり前を求めることが失われにくい言い訳となるのかしら」

「ヴァローナには、言い訳は見つけられないか?」

 少女は頬に手のひらをあてがい、不幸の影を背負った表情を浮かべた。

「繋がりがないの。愛すべき人、愛してくれる人、悼む人、悲しむ人――ひとりぼっちの時間はとても稀薄で、淡白な味わいで、私がここにいる意味、存在していることへの意義を少しも実感できない。ヤハタは考えたことない? 自分がこの世界に何の作用もはたらいていないのなら、存在意義のひずみ、“言い訳”はどこに生じる余地があるんだろう、と」

「それこそ、俺には縁のない話だ」

 ヴァローナが期待していたのかもしれない救いを与えられるほどヤハタは深遠な人間ではなく、浅はかであり、けれど、ひとつだけ少女に対して気に喰わないことがあるとすれば、

「俺には視えていると、言っただろう」

 ヴァローナが自分との関係にひずみを見いだしていないことだった。

 少女の正面に回り込み、荒々しいまでの挙動でその肩を掴む。これほどまでにしなやかな肌触り、確かに触れられるのに、どうして少女はこの世界に不干渉な存在でしかないのか。

「ヴァローナ、言い訳を与えてやる」

 生きるための言い訳エクスキューズを。ヴァローナを世界に繋ぎ止めるための存在価値レゾンデートルを。

 少女の瞼が、パチリと、不思議そうに痙攣する。その瞳は澄んでいて、そして、ヤハタの考えを見透かしていた。唇に指をあてがわれ、ヤハタは言葉を紡ぐことを阻害される。

「ダメ。言い訳は与えられるものではなく、放浪の末に見いだすものでしょう」

 それは――そんなものはフェイクでしかないと、少女は否定する。

贋作フェイクが劣っている道理はないだろう。供与されたものであっても真作に逼迫するかもしれない。供与されたものであるからこそ、その価値は輝くかもしれない」

 つまりはそういうことだ、とヤハタは飽和した頭で足りない言葉を並べ立てた。

「俺は悲しむ。君が終わるようなことがあれば、俺が悼む」

 ヴァローナの姿は誰にも視えていない? 張り裂けそうな言葉は誰にも届かない?

 この雑多な街の中、溢れ返る群衆の中でヤハタだけがヴァローナの存在を知っている。彼には視えて、彼には聞こえ、言葉を交わせ、触れることができる。たとえどれだけ奇態であるとしても、ヤハタにとってヴァローナは一人の人間、救いを求める少女でしかなかった。

「繋がりがないなどと瞳を俯かせるな。今、君の前には誰もいないか? 君の肌に触れるこの感触は、ただの幻覚でしかないか? 君の鼓膜を震わせるこの言葉は、幻聴でしかないか?」

 ちぎれてしまうのではないかと不安になるほどに激しく、ヴァローナは首を振る。それに合わせて白髪が左右になびき、彼女の瞳を見え隠れさせた。

「幻なんかじゃない。そこにいるわ、確かに、いる」

「誰が、」いるのか。

「ヤハタ――ヤハタ・エインズワース」

「ほら。俺とヴァローナは繋がっている」

 はらりと、少女の頬に雫が伝い落ちる。肩を震わせて涙を流す姿に、ぐしゃぐしゃに歪められた表情の中に大人びた雰囲気は認められず、見目に即して、ヴァローナは幼い少女だった。

 言葉遣いでは推し量ることのできない彼女の本質、未成熟な体に宿った〈ヴァローナ〉という人格は路頭に迷い込み、手を引いてくれる人を探していた。ヤハタが求めに応じられるだけの存在であるかは定かではなく、彼からすれば、こんな人間に頼るなど愚かだと吐き捨てるほどに、彼は神に見初められるほどの聖者ではなく、崇高な理想を秘めた人格者でもなく、罪を背負った一人の人間だ。平凡で、特別な力は持たず――けれど、決して無力ではない。

 迷い羊ロストチャイルドを導いてやれるくらいには、彼は世界のことを知っている。

「ヤハタは、優しいね」

「言っただろう、それは俺には相応しくないと」

「それなら、ヤハタに相応しい言葉は何?」

 返事に窮して頬を掻く。

 真っ先に脳裏に浮かび、あまりに言葉にするには恥ずかしい言葉があった。口を噤んだまま、はぐらかそうかと思い、けれど、少女の無垢な瞳に偽証を立てることは躊躇われた。

「……できることなら、父親らしいと呼ばれたい」

 あぁ、滑稽だ、とヤハタは臓腑に笑いを響かす。父親なのに、父親らしくありたいなど。それでもヴァローナが一笑に付すことはなく、少女はやわらかく目を細めた。

「大丈夫よ。ヤハタは、とても父親らしい」

 バスタオルを手繰り寄せ、体を取り繕うように隠してから少女は立ち上がる。

「神様の子供にはね、愛情のカタチが視えるの。ヤハタからはずっと愛情があふれていて、それでね、その愛情は“お父さん”のカタチをしているわ」

「それは、本当に視えているのか?」

「信じることが、大切よ」

 ヴァローナは意地悪そうな笑みを浮かべた。愛情の真偽がどうであれ、ヴァローナがそう言い表してくれたことは、ヤハタにとって、胸を和らげるものだった。

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