母親
次の日、私は母が宣言した通り宿題を終わらせるため、自宅で缶詰状態となっていた。部屋は涼しい――しかし、目の前の母親のせいで、さらに室温は下がっていた。
「……」
「……」
「夏休みの友くらいは終わっていると思ったのに……」
「ごめんなさい……」
宿題は半分終わっているかどうか、というほど白かった。良く聞く話だろう。
「はあ……とりあえずお母さんがやるわけにはいかないから、自分でやること。分からないところはお母さんに聞きなさい。本当はお父さんの方が頭がいいからそっちの方がいいんだけど……」
出来の悪い息子にがっくりと肩を落とす母。
そのまま、母は洗濯や掃除といった家事をテキパキと進め、私は山積みの宿題を進める。やがてお昼になり、チャーハンとソーメンという我が家の夏では定番の料理を食べながら母と談笑する。
「どう?」
「うん、漢字ドリルが終わって、夏の友も半分は終わったかな? 算数が面倒だけど……」
「よしよし。それじゃあ始業式までには終わりそうね。明日からお母さんまた仕事だけど、学校までもう一週間ないんだからサボったらダメよ」
流石に先生に怒られるのも嫌なので私はバツが悪いと思いつつ、コクリと頷く。そこで、私は母を見て珍しい光景だと思い口を開く。
「あれ? 母さんまだソーメン食べるの?」
「あ、うん。何か全然お腹いっぱいにならないのよ。涼太も食べる?」
「ううん、もうお母さんと三束食べたしもういいよ。ごちそうさま!」
「そう?」
そう言って鼻歌を歌いながら麺をゆではじめる母。
何の変哲もない光景だが、この時すでに予兆は起きていたのだ。
「ただいまー」
「お父さんお帰りー」
「お帰りー! お父さん、宿題頑張ったよ!」
夜になり父が仕事から戻り、私は頑張って進めた宿題を父へ見せる。すると顔を綻ばせて私の頭を撫でてくれた。
「おー、やったな! でも、本当はもっと早くやるものなんだから、自慢はできないなあ」
「ちぇー」
「ふふ、でも結構進んだでしょう?」
母がお手製のからあげを持ってリビングへ来ると、父は服を脱ぎながら苦笑する。
「母さんが締め上げたんじゃないかい? 怒ったら怖いからな」
「そんなことしません! さ、夕飯にしましょうか」
好物のからあげを前に、私はテンションを上げて着席し、夕ご飯が始まる。今日の私の様子や、父の仕事の話などで盛り上がる。
そして――
「あれ? もうから揚げ無くなったの?」
見ると母が自分のお皿にかなりの数を確保して食べていた。父は笑いながら言う。
「いいじゃないか。母さんは普段食べないから、たまに多く食べてくれると安心するよ。明日からまた歩くんだから体力つけないと――」
私はお昼にも食べていたし、仕事で疲れるとそんなものかと思い気にせずにいた。さらに夜も更けると私は就寝する。しかし寝る前に大量に飲んだ麦茶のせいでお手洗いを余儀なくされる。
「うわ、廊下はあっちぃなあ……」
部屋から廊下、廊下からリビング。その先の玄関横にあるトイレに向かっていると、ふと台所で気配を感じ私は立ちどまった。
「(あれ、灯りが……あれって冷蔵庫……?)」
時間は午前二時半……オレンジ色の庫内灯が台所を照らしており、私は一瞬縮こまるが、暑い夏なので父か母が冷たい物でも飲みに来たのだろうと思い、トイレに行こうとしているにも関わらず私は飲み物をもらいに台所に行く。冷蔵庫の前で屈んでいるのは……母だった。
「母さん、起きてたんだ。俺にもオレンジジュースちょうだ――」
私は母の背中に声をかけながら屈んでいる母を覗き込み、息を飲んだ。なぜなら、母は飲み物を飲んでいるのではなく、冷蔵庫のあまり物や、魚肉ソーセージ、ちくわ、チーズ、漬物などありとあらゆる食べ物を食い散らかしていたからだ。それも手づかみで。
私が声をかけた途端、ピタリと手を止めて振り返ってくる。私が物心ついて見たことのない、ぎょろりとした目を向けてきたのだ。
「え!?」
私が驚愕した声をあげると、母はハッと気が付いた様に目をパチパチさせて私に言う。
「こんな時間にどうしたの涼太? トイレはもう一人でいけるでしょ?」
「う、うん……お母さんそれ……」
「え? あらいやだ! お母さんお腹が空いて寝ぼけてたみたい! 片づけて寝ないとね。ほら、涼太もトイレ行って寝なさい」
「うん……おやすみ……」
そう言いながら食べ物を口に運ぶ母を尻目にトイレに行き、戻ってくると母はすでに片づけが終わっており台所にはいなかった。
朝、何事も無かったかのように会社へ行く母。
だが、その日も食事の量はいつもより多く、次の日もその次の日もそれがおさまる事は無く、さらに深夜に冷蔵庫を荒らしている形跡もあった。父が深刻な顔で言葉を放ったのはじつに私が冷蔵庫の前で母を見かけた日から一週間が経過していた。
「……母さん、病院へ行こう」
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