日常/異常
「……母さん病院へ行こう」
母が日に何度も食べ物を口にするので、父が母にそう告げると、本人はそんな意識はないようで、とても軽く私達に言い放つ。
「えーちょっと食べるのが多くなっただけじゃない。大げさよ?」
「それは……そうだけどすでに『ちょっと』という量を越えている気がするんだ。もしかしたら子供ができたのかもしれないと思ったけど――」
そう言って何とか説得すると母は不満気だったが、父と私の心配っぷりを払拭するには仕方ないと共に病院へと行くことになった。ちょうどみんな休みだったため、善は急げと強行軍での移動となり、すぐに受付を済ませた。
「丸山さん、どうぞ」
看護師の案内で診察室に入ると、初老の先生がにこやかに話しかけてきた。
「おや、ご家族お揃いでですか? さ、今日はどうされましたか?」
「それが――」
父がここ最近の様子を先生に話し、先生は首を傾げて尋ねてくる。
「ご飯を多く食べるならいいのではありませんか?」
「いえ、夕飯で茶碗一杯多く食べるとかそういうことではないんです。深夜に冷蔵庫の食べ物を食べたり、一品のおかずが二品に増えていたりしてとにかく量がおかしいんですよ」
心配そうに言う父に、椅子に座っている母は困った顔で口を開いていた。
「おおげさですよね先生。私はこんなに元気なのに!」
「はっはっは、確かに顔色はいいですね。でも旦那さんがこういっているんですし、検査だけでもしておきましょう」
「お願いします」
それから程なくして結果が出たが――
「うーん、特に異常は見られませんな。血圧も正常、血液検査も問題ないですし、いたって健康ですよ」
「そ、そうですか……」
「ほら、言ったじゃない。先生、ありがとうございました。買い物して帰りましょう」
「あ、ああ……」
病院を後にした私達は買い物を済ませると、車の中で父が言う。
「まあ、気になるけど病院で何も無いなら良かったかな……?」
そこで私は当時テレビであったニュースを思い出し、面白おかしく叫んでいた。
「もしかしてお母さん、寄生虫ダイエットしてるんじゃ……! あれって確か食べても太らないんだよね? 太るの嫌だから……」
と、私が笑っていると、後部座席に座っていた母に頭をポカリと叩かれる。
「そんなことしないわよ、寄生虫なんて気持ち悪い。はいはい、夜中に食べるのを止めればいいんでしょ? 分かったわよ」
「へへ、ごめんごめん。お母さんは仕事が忙しいから食べるんだよね――」
ボフッと背もたれに寄りかかる音がし、私は謝りながらバックミラーを見て口を閉ざす。口調は変わらないのだが、母は見たことも無い笑みで、文字通り「ニタリ」とした感じで目と口を歪ませていたのだ。本能的に「怖い」と感じたが、目を逸らすことが出来ずじっと見ていると、そんな母と目が合い私は汗が噴きだしてきた。
「……」
「……」
その後、特に話題もないまま車は動き、
「さ、帰りついた。ん? 涼太、どうしたんだ?」
「う、ううん……おしっこ我慢してて……」
「ははは、そりゃ大変だ! 早く入ろう!」
「もう、涼太は。ふふ」
母も買い物袋を提げ、車から降りながら私に向かって笑いかけてくるのを見て、私は胸中で安堵する。
「(いつものお母さんだ。さっきのは何だったんだろう……? 大丈夫かなぁ)」
私の心配をよそに、その日から母の食事は「少し」だけ多い程度におさまり、深夜のつまみ食いも無くなったのだ。
やがて私も夏休みが終わり、学校が始まるとそんなことがあったことは記憶から薄れつつあった。
――だが、その時は急に訪れた。
「たっだいまー! お母さん、お腹すいたけど何かあるー?」
今日は母が休みで家にいることを知っていた私は、玄関を開けるなり大声で母に話しかける。玄関から台所までそれほど離れていないので、いつもなら呆れたような声が返ってくるはずなのだがその日は返事が無かった。
「あれ? 買い物? でも単車はあったし……お母さん?」
ランドセルを降ろしながらリビングを覗くもそこにはおらず、私はその足で台所へと向かう。なぜなら台所からカレーのいい匂いが漂ってきていたからである。聞こえなかったのか、と思い台所へ入るとそこに倒れた母が、居た。
「……!? お母さん!?」
慌てて駆けより、母を起こそうと体を揺する。すると、すぐに目を開けて母が私を見て口を開く。
「……あ、お帰り……お母さん寝てた……?」
「う、ううん……ここ、台所だよ。ほら、カレー作ってたんじゃないの?」
「そう、そうね。そうだったわ。よいしょっと……」
「あ、動いたらダメだよ!」
「大丈夫大丈夫、もう遅いしもうちょっと我慢して? ご飯にしましょう」
母はなにごとも無かったように立っていたが、よく見れば少しやつれているようだった。あんなにご飯を食べているのに……その夜、私は父に相談することにした。
「お父さん、お母さんやっぱりおかしいよ。顔色が悪いし、今日も台所で倒れていたんだよ」
「……本当か? 実はお父さんも気になっていてね、明日もう一回病院に連れて行こうと思っていたんだ」
「あ、そうなんだ。なら安心だね」
「だといいけどね」
先に寝ていた母が心配だと父も寝室へ行き、おやすみと言って私も自室へ戻る。
そして深夜
ガサ……ガサ……
「(んあ……うるさいな……ゴキブリ……?)」
私はごそごそとする音で目が覚める。稀にゴキブリがゴミ袋を這いまわってそういう音がするので、特に気にせずもう一度寝ようと布団を被る。だが、音は止む気配が無かった。
「もう、なんだよ!」
ゴキブリならスリッパで、と私はスリッパを握りしめて台所へ向かうと、淡い冷蔵庫の灯りが見え、徐々にガサガサとする音が大きくなっていく。私は本能的に鳥肌が立ち、体がブルリと震える。そのまま冷蔵庫の灯りへ向かうとそこには――
「お、お母さん……?」
何故疑問形なのか? それはそこに居た母の姿があまりにも日常とかけはなれたものだったからだ。かまぼこやちくわの袋は引きちぎるように開けられ、梅干しの器はころがり汁を垂れ流す。それを母がむさぼるように食べているのを呆然と見ていると、母が私に振り返り、とても悔しそうな声で聴いてくる。
「米……米が食べたい……米……」
「ご、ごはん……?」
聞き返すが、母は私の声など聞こえていないように、また冷蔵庫の食料を漁る。そこに騒ぎを聞きつけて父がやってきてくれた。
「なんだ……これは!? おい、育子! おい!」
「米……お米が無い……」
そう言いながら泣きだす母。何度か体を揺すると、何かを思い出したかのように目をぱちくりさせて私達を見た。
「あ、あれ? 私……お父さんに涼太、どうしたの?」
「どうしたのじゃないよ! こっちのセリフだ! どうしたんだ、一体?」
「どうしたって……部屋で寝てて……それで……」
父が色々と尋ねると、記憶が曖昧なようで、冷蔵庫に来たことは分かっていなかった。だが、食い散らかした食べ物を見て青ざめる母。しばらく黙っていたが、意を決したように母は口を開いた。
「……お母さんに会ってくる」
私にとっての祖母に、なぜか母は会いに行くと言い出した――
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