第2話

「茉莉は日記って書かないの?」

「書くって? 事務所のSNSは一応あるけど」

「そういうのじゃなくって、手書きのさ。自分だけが読み返すようなやつ」

「ないね。SNSだって全然書くことないのに」

 茉莉はベッドの上でうんうんと唸りながら転がっていた。スマートフォンの画面を睨みつける。先ほどから入力画面は空白のままだ。

 昨今、SNSは情報発信において重要な位置を占めている。茉莉のような若手モデルにとってはとくに大事な仕事であった。とはいえ、茉莉のブログが最後に更新されたのはひと月前であり、その前は二か月前だ。

 人には向き不向きがある、と茉莉は思う。なぜなら特筆して書くようなことがないのだ。今後の仕事の宣伝ならばスタッフが別のSNSに随時アップしていてくれる。リアルタイムで行っている仕事に関しては、公表できないものが多く、SNSにアップできるようになる頃には茉莉はすっかり忘れてしまう。プライベートに関しては、書けないことどころか、書きたいことすら浮かばない。

「今日の夕飯とか」

「私が作ったわけでもないのに、アップするなんて変じゃない? 誰かと住んでるって知られるのも面倒だし」

「それもそうか。うーん、朝顔でも育てる?」

「小学生じゃないんだから」

 諦めて茉莉は、参考までに瑠衣のSNSを開いた。最新の記事は今日の日付で、写真と数行の文がついている。その前の記事は昨日だ。忙しいはずなのにマメに更新されている。瑠衣のそういったところが評価されて今の忙しさに繋がっていると言ってもいいのかもしれない。写真の笑顔が眩しい。

「なんて書いてあるの?」

「昼に今話題のカフェでタピオカ飲んだって」

「そうそう、そんな感じでいいんだよ」

「私今日のお昼ご飯、コンビニのサンドイッチ」

 これでも比較的ましな方だ。面倒な時はゼリーで済ませる。

「悪くないんじゃない? 最近の美味しいし」

「うーん……」

 自分の昼食などを見て、いったい誰が楽しいのだろう。それほどまでに自分に興味のある人間がいるとは茉莉には思えなかった。

「まあ書きたくなった時に書けばいいんじゃないの。SNSも日記も。茉莉を好きな人ならきっとなんだって喜んでくれるよ」

 ナオミは呑気に笑って、鞄からノートを取り出した。日記帳だ。ナオミの宝物なのだそうだ。

「ナオミは何か書くことあるの」

「そりゃあるよ。今日の茉莉の可愛かったところとかね」

 ナオミは万年筆を取り出し、ノートになにか書き込んでいく。

「やだ。なにそれ、そんなの書かないでよ」

「いいの、読むのは私だけなんだから」

「もっと別のことを書きなよ。私の事なんて書かなくたっていい」

「ううん、茉莉のこと以外で書きたいことはないから」

 さらりとナオミは言った。

「忘れたくないんだよ。もう二度と。だから覚えておきたいことは全部書いておくんだ」

 たとえば茉莉が寝惚けてベッドから落ちかけたとかね、とナオミがからかうように笑う。

 茉莉の前にいるナオミは、かつて茉莉が好きになったナオミではない。けれども、惹かれずにはいられなかった。

 ナオミの五年間を茉莉は知らない。あの日、ベッドに横たわっていたナオミに、茉莉を忘れてしまったと言ったナオミにバイバイと手を振ってから、茉莉は意識的にナオミを避けてきた。共通の友人も何人かいたが、茉莉がナオミの話をしたがらないことに気づいた途端、皆気を遣って話題に出すことはなかった。そうして茉莉もナオミを忘れたつもりでいた。それなのに。

「実はずっと書いてるんだ。日記」

「知ってるよ」

 まだナオミと一緒に仕事をしていた頃、待ち時間にナオミが日記帳を開いて、黙々と一人書いていたことを茉莉は覚えている。ちらりと盗み見たそれは長文ではなく、その日あったことを簡潔に記すといったもので、そこには茉莉の名前もあった。

「茉莉のこともたくさん書いてある」

「なんて書いてるの」

「内緒」

「別に教えてくれたっていいじゃんか」

「えーこういうのは誰かに見せるものじゃないでしょ」

「それはそうだけど、ナオミが思わせぶりなことを言うから」


 ナオミがじつはすでに記憶を取り戻しているのかもしれない、と思う瞬間はこれまで何度もあった。ちょっとした癖や茉莉に話しかける時の声音、ペンを走らせた時の文字の角度。記憶を失っても変わらないものはあるのだ。茉莉は何度も思い知らされる。それと同じくらい、失われてしまったさまざまなことを思い出す。

 きっとナオミは昔の日記を読んでは、かつての自分の軌跡をたどっていったのだろう。そうやって失った過去を知ろうとしたのだ。だから茉莉の目の前に現れたのも、過去に触れる作業の一環に過ぎない。茉莉はナオミの日記帳の一部でしかないのだろう、と茉莉は思っている。

 だから茉莉は自分から昔話はしない。五年の間、胸の奥底に仕舞い込んだままの思い出を、そう簡単にひけらかしてやるわけにはいかないのだ。


「よし、じゃあ今度日記帳をプレゼントしよう。もうすぐでしょ、誕生日」

「いいよそんなの、SNSだって更新できないのに、日記なんて書けるわけないじゃん。さっきからそう言ってるでしょ」

「誰にも見せないと思うと、逆に書けることってあると思わない?」

「思うけど、どうせすぐに飽きるに決まってるから、わざわざ買ってもらうのは悪いよ」

「分かった。それならちょうど余ってた新品があるから茉莉にあげる。メモ帳みたいに使ってくれてもいいからさ」

 そう言ってナオミは鞄から新品のノートを取り出して、茉莉に手渡した。手帳サイズの、白い花があしらわれたシンプルな装丁の日記帳だ。余っていたというのは嘘だろう。茉莉は所在なさげにぱらぱらとページをめくる。

 ナオミのこういうところがずるい、と茉莉は思う。昔からさりげなく人をその気にさせるのが上手いのだ。

「……ありがとう。書くかどうかは分かんないけど」

「それでいいよ」

「なんかむしゃくしゃするから写真撮ってアップしてやろ」

 茉莉は言いながらスマートフォンでノートの写真を撮り、友達から貰った、と文章を添えてSNSにアップする。

「あ! そういうことか!」

「どうしたの急に」

「ナオミにまんまとのせられて更新してしまった……」

「よかったじゃん。めっちゃいいねついてるし。わーすごい、更新してないって言う割に、フォロワーめっちゃいるじゃん」

 書けないと呻いていた数分前の自分が馬鹿みたいだ。茉莉はさっそくもらったばかりのノートに、ナオミには見せられない文句を書いてやった。

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