さよならポルカ
遠野
第1話
「おかえり」
茉莉の部屋には幽霊が住んでいる。幽霊、と言っても当の本人はそうは名乗っていない。茉莉が勝手に幽霊扱いしているだけである。生きた人間、ということは分かっているけれど、茉莉にとっては幽霊だ。
「ただいま」
「夕飯、作っておいたよ」
「……ありがと」
キッチンからほのかに出汁の甘い香りがする。ナオミは見てくれは二十代半ばの女性で、すらりと背の高く、スレンダーな美人だ。栗色のショートカットがよく似合っている。
幽霊、ナオミが突然目の前に現れたのは二週間前のことだ。仕事から帰るとドアの前で座って待っていた。
幽霊だ、と茉莉は思った。こんなところにいるはずがない人間が目の前にいるということはつまり、幽霊なのである。
「なに、幽霊でも見た顔しちゃってさ」
茉莉が呆然としていると、ナオミは茉莉の顔をまっすぐ見て微笑んだ。きゅん、と胸が鳴る。茉莉の好きな笑顔だった。
「どうしてここにいるの」
「気が付いたらここにいた」
「行くところはあるの」
ない、とナオミは首を横に振った。茉莉がおいでと言ってドアを開けると、ナオミは遠慮なく入って来た。以来、ナオミは茉莉の部屋に暮らしている。
高校を卒業して、茉莉は一人暮らしを始めた。東京生まれの東京育ち、家族仲も良好で、実家を出る必要はとくになかったが、同世代の多くがそうするように、一人暮らしというものをしてみたくなったのだ。
それから一年と半年が過ぎた。もうすぐ茉莉は二十歳になる。
「肉じゃが?」
「正解、あとお魚も焼いておいたよ、鮭は好き?」
「好き」
テーブルの上にはずらりと夕飯の用意がなされていた。ナオミがやってくる以前、一人で暮らしていた頃は適当に買って来た総菜、買い物さえ面倒に思うときはフレークなどで済ませていたから、状況は以前よりもずっといい。コートをハンガーにかけ、そそくさと部屋着に着替えて食卓として使っている簡易テーブルの前に座った。
ナオミのことは、名前と料理好きということくらいしか知らない。ナオミに尋ねたところで、名前のほかは当たり障りのないことしか教えてくれないだろうから、決して自分からは聞かないようにしている。
茉莉が出掛けている間、好きに部屋を使っていいと言ったら、勝手に掃除や洗濯といった茉莉にとって面倒な家事を一手に引き受けてくれるようになった。風呂場、トイレ、キッチン、といった茉莉が積極的に掃除をしたいと思わない場所の掃除は無論、出し忘れがちなゴミまで捨ててくれるおかげで、茉莉の生活はここ数週間で随分と改善した。文句がないどころか、感謝をしなくてはいけないくらいだ。
「おいしい」
「よかった。ちょっと砂糖入れすぎちゃったかなって」
「えー、ちょうどいいよ」
じゃがいもは出汁が染み込んでいて柔らかく、ほくほくとしていて美味しい。身体の芯から温まっていく。風の冷たくなってきた今の季節にぴったりだ。
「体重とか気にならないの。モデルさんなんでしょ」
「べつに。食べてもそんなに太んないし、ていうか太ったことない」
「なるほど。羨ましいね。よし、好きなだけ食べなさい」
「何キャラなのそれ」
ナオミは茉莉が食べている姿を見るのが好きらしい。正面からにこにこと微笑ましく見つめられながら食べるのは少々気まずい。
茉莉がモデルを始めたのは三歳の時だった。母親に連れられて行った子供服専門店で、たまたま出会ったデザイナーの口車に乗せられて、なぜか子供服のCMに出ることになった。それがなんと巷で評価となり、子役として映画やドラマに出るようになった。
十歳の頃には、出演したドラマの演技が話題になり、所謂有名子役というやつになった。以後学業と平行して、年にいくつかドラマに出ながらファッション誌の専属モデルをしている。
仕事は好きだ。先ほども、春先に発売される雑誌の撮影をしてきたばかりである。
とはいっても、顔以外にこれといった才能があるわけではない。そのうち適当なところで切り上げて、一般人に戻って職に就いた方がいいのではないかと茉莉は思っている。
しかし、今さら芸能人をやめてごく普通の人間として生きていく、なんて自分に出来るのだろうか、というのが茉莉の目下の悩みであった。そんなことを誰かに言ったら、ぜいたくな悩みだと笑われてしまうのかもしれない。
「あ、瑠衣ちゃんだ」
「友達?」
「うん」
化粧品のCMが流れる。萩原瑠衣は、今をときめく人気モデルだ。テレビで姿を見ない日はないと言ってもいい。瑠衣とは茉莉が小学生の頃からの友人であった。瑠衣の方が五歳上で、茉莉と会うたびに何かと構ってくる、姉のような存在だ。
「瑠衣ちゃんはすごいんだよ」
「茉莉よりも?」
「当たり前じゃん」
ナオミは不思議そうに首を傾げた。のらりくらりと流れに身を任せてここまで来た自分と、努力を重ねて今の地位を築いた瑠衣は違う。自分は瑠衣のようにはなれない。
「あの子かわいいね」
ナオミは呑気にそう言う。
「私より?」
「こらこら、売れっ子が拗ねるな」
ほら、ナオミは茉莉が表紙になっている雑誌を手に取った。毎度事務所に送られてくる見本誌を持ち帰った覚えはなかったので、おそらくナオミが買ったのだろう。
「なにそれ、わざわざ買ったの?」
「コンビニに行ったら見かけて、つい」
あーじゃがいもおいしい、言いながらナオミは肉じゃがをおかわりする。まったく、マイペースにもほどがある。
この不思議な同居人のことを、茉莉はまだ誰にも話していない。マネージャーからは交遊関係には気をつけるようきつく言われているが、元々それほど友人と呼べるような関係の人はごくわずかなので問題はない。度々ここを訪れる家族にさえも教えるつもりはなかった。
「ねえ、いったいどうしてここに来たの」
「ん? いまさらそれを聞く?」
ナオミははぐらかすように微笑んだ。
「茉莉に会いに来たんだよ」
「そうじゃない」
「気づいたらここにいたとかは?」
「ダメ」
「そっか、ダメか」
うーん、とナオミは困ったように肩を落とす。
「茉莉に謝りたいことがあったんだ。なんのことかは思い出せないけど」
昔、茉莉には好きな相手がいた。茉莉よりも五歳年上の少女であった。彼女は茉莉を妹のように可愛がっていた。茉莉は彼女が大好きだった。
ある日彼女は事故に遭った。赤信号を無視して横断歩道へと突っ込んできた乗用車に轢かれた。
幸い一命は取り止めたものの、彼女は記憶を失った。茉莉のことも忘れてしまった。
以来、茉莉は彼女と会っていない。二週間前、彼女が再び目の前に現れるまでは。
「ふうん、ダメじゃん」
「ダメかね」
「ダメだよ」
何もかもを失くしてしまった。目の前のナオミは、茉莉のよく知っている顔で、まるで知らない人のように振る舞う。
「だいたいさ、謝ることを忘れたって、最初から謝る気ないじゃん」
「ほんとだね」
「いいよ。謝らなくても。私も何のことか分かんないし」
あの日から五年が経とうとしていた。茉莉はもうじき二十歳になる。彼女がすべてを失った二十歳に。
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