To strongly urge

志賀福 江乃

第1話

 先生、お願いがあります。ねぇ、先生、話を聞いて。彼女が何をしたというのですか、なぜ彼女をかの遠い、海も山も全て超えたただ大きいだけの大陸に連れて行こうとするのですか。彼女は確かに、醜くて憎たらしくて、弱いけれど、それでも美しくて儚くて、強いではありませんか。まぁでも、彼女がそうなるのも理解ができないわけじゃあありませんの。いつだって彼女は傲慢ですから、皆が受け入れられないのも無理はありません。私は一番彼女と一緒にいるけれど、それも仕方なくであって、本来ならば今すぐ首を絞めて、時を止めて、永遠のものにしてしまいたいくらいなのですから。彼女はたいへん酷いことを私にたくさんしてきました。あの彫刻のような唇で、針で突き刺して百年の眠りにつかせてしまうのではないかというほどの、尖った言葉を数え切れないほど、私に投げつけてくるのです。その針を一本一本抜くには時間がかかります。でも、抜いたあとはなんだかスッキリするのです。彼女は悪い魔法使いです。



 彼女は私にとって、師匠様なのです。天使様で神様なのです。私は今年18になります。彼女も同じ年です。それなのに、この大きな差はなんなのでしょうか。彼女はいつも真ん中で威張っていて、私は隅の方でちまちまと動くことしかできません。あぁ、もういやだ。彼女がいなくなったらどんなにいいことか。私だって耐えられるところは耐えてきたのです。何度、彼女をかばってきたことか。誰も気づきはしませんでしたが。もちろん彼女でさえもきっと私の影の労力を微塵も知らないことでしょう。いや、あの人は知っていたかもしれない。知っていて、ニコニコと見惚れるほど可愛らしく私に笑いかけてくるのでしょうか。あぁ、なんと憎たらしい。気づかず、自分のことだけ考えていればいいのです。それが彼女らしい、というものです。なんでも彼女だけの力でできる、と周りは思い込んでいます。けれど、その裏側に私がいることを彼女はきっと、嫌に思っているのでしょう。だからあぁやって、笑みを浮かべてくるのです。もし、あの人に私がいなかったならば、きっと周りから刺されていたでしょう。肉塊すら残らないほど、ずたずたに切り裂かれて、人食い狼のいる森にでも捨てられていたことでしょう。小さい彼女はさぞかし切り分けやすいと思います。もしくは、白鳥の湖の最後のように、悲劇の身投げをしていたかも。湖なんかじゃなく、彼女らしく廃屋なんかで。引き止める人が誰もいなくなったら彼女は簡単にころっと死んでしまう。長くて細い手足を投げ出して、頭をコンクリートなんかにうって、真っ赤な花を咲かせるために空を飛ぶのです。それもそれで、溜息が出るほど美しい光景でしょうが。私は毎度毎度彼女を引き止めてきたのです。ふらりと飛んでいってしまいそうな彼女を、みすぼらしく、この地上に引き止めてきたのです。引き止めるために、どれだけ彼女に刺されようとも硬い足先で蹴られようとも、どんな傷を受けてでもここに括り付けたのです。たまには私に感謝の一言でも述べればいいのに、全くその気配はありません。



 あの子は意地悪です。意地悪だから、いつも私にこういうのです。

「貴方がいないときっと私は死んでしまうわ。生きていけない。でも、私にだけ貴方を独り占めしてしまうのは、私はどうにも気が引けるのです。だから、その瞳に私だけを写していないで、早くどこか遠くへ行きなさい。私は悪い継母なのです。貴方はいじめられるシンデレラのよう。フェアリーゴッドマザーが迎えに来てくれるほど現実は甘くない。だから、早く私から離れて、好きな人でも作りなさい」

 あぁ、本当に意地悪な人。私はシンデレラなんかじゃない。むしろ貴女を縛り付けているのは私だし、私が貴女を籠の中に入れて飛べないようにしているのです。早くどっかへいけなんて、そんな寂しいこと、言われてしまっては、涙すら出てきません。驚きのあまり、それを言われた日は何にも集中できず、いつもならできるピルエットだってちっとも回れやしなくなりました。それなのに、彼女は何も変わらず、いつも通り、くるくるくるくるとコマのように回るのです。あぁなんて意地悪な人なのでしょう。きっと彼女の心には、ロットバルトが住んでいるのでしょう。誰かに受け入れられなくても、誰も私のことを見てくれなくてもそれでいいのです。貴女さえ私をその、真っ黒な瞳に入れておいてくれれば私はもうこれ以上何も望みません。男も女もいりません。貴女の愛だけがほしいのです。私は貴女を、愛しています。他の人たちが貴女を愛しているのと比べ物にならないほど愛しています。彼女の周りにいる友人達はみな、彼女と一緒にいたらいいことがあるかもしれない、とだけ考えているのです。ただ利益だけを考えている醜い金魚の糞なのです。



 けれど私は知っています。たとえ彼女についていったって、何も利益はないことを。利益はすべて彼女のところで止まってしまうのだから。彼女が独り占めになるのだもの。そして、その様子をみて、友人と名ばかりの人たちは、細い目をさらに細めて、舌打ちをするのです。なんと心の器が小さいのかしら、そう言って笑うあの人の顔が私は、どうしても忘れられません。黒鳥のオディールのようにニヒルな笑みを浮かべた彼女は妖艶で、私は思わず、そんな顔をしてはいけません、と言ってしまいました。そうしたら彼女は無自覚に、どうして? とキョトンと訪ねてくるのです。あぁ、もう、本当に憎たらしい人。



 私は貴女から離れることができません。もう貴女の虜です。奴隷です。どうか私を買ってくださいませ。私は何でもしましょう。貴女が死んだら私も死にます。貴女がどこか遠くへ行くならば意地でも追いかけます。貴女がどこかへ逃げたいと言うなら手を引っ張って、一緒に逃げましょう。そのくらい覚悟はできています。私は貴女のものです。どうぞご自由に。



 何がプリマだ、何がバレリーナだ。彼女はその程度の人間じゃあない。スポットライトが当てられた瞬間、彼女は時には少女に、時には鳥に、時には妖精に、すぐさま変身してしまうのです。かつて、バレリーナたちが、妖精に近づきたい、高いところまでいきたい、そう願って作られたトウシューズを履いて、飛んで回って舞うのです。そうだ、あれはいつだったか。彼女が初めて、主役を演じたときでした。今までにないくらい、彼女は緊張していて、どうしよう、どうしよう、と言っていたのに、いよいよ出番になると彼女は私に、いってきます、と声をかけたあとパーッと舞台に飛び出しました。刹那、そこに彼女はいませんでした。16歳の誕生日を迎え、妖精や国王様に祝福される純粋無垢なオーロラ姫がそこにいました。眩いスポットライト、真っ白なリノリウム、豪華絢爛な舞台装置、綺羅びやかな衣装。すべてを飲み込んで、お客様でさえ、我を忘れさせ、眠れる森の美女の世界を創り上げたのです。その瞬間彼女は創造神といっても過言ではないほどでした。袖であんなにも怖がっていて、小さく弱気だったのに。私は愛おしくて溜まりませんでした。袖から彼女だけを見続けました。私自身の出番さえも忘れてしまいそうなほど見惚れてしまったのでした。彼女が戻ってきて、私がお疲れ様、とタオルを渡す。そんなとき、一人の出演者が、尖った口で吐き捨てるように言いました。

「天才はいいよね」

 一人私は彼女がずっと努力していることを知っていました。小さい頃から、毎日ストレッチや筋トレを欠かさず、生真面目に努力していることを知っていました。だからこそそいつが許せませんでした。私は自分自身よりもあの人のことがずっとずっと大切です。私を馬鹿にされるのは耐えられますが、彼女を馬鹿にされるのは耐えられません。私はいつか、彼女が馬鹿にされたとき、こう言っていたのを思い出しました。

 「私よりうまくなってから言ってくれる?」

 その言葉を初めて聞いたときは、あまりの衝撃を受けました。彼女がそんなことを言うと思っていなかった相手の表情がなんとも、魂の抜けきった魚みたいな顔をして、口をパクパクさせていましたから、私は堪らなくなって、声を上げて笑ってしまったことを覚えています。都合のいいことに先程皮肉を吐いた、出演者は彼女よりはるかに脚が短く、太っていて、踊りも下手くそです。まるで豚が泥の中で踊っているかのような人でした。私はずい、とその醜い豚を見下ろし、偉そうに言ってやりました。

「あの子より、うまくなってから言ってくれる?」

 そうしたら、その豚はまずい餌を食べたときのような顔をして、豚が捕食者から逃げるときのような早さで去っていったのでした。私は笑ってしまいました。見た目と中身は切り離して考えてはいけない、中身が美しくなれば見た目も磨かれていくもの、逆に見た目が汚ければ見た目は醜くなるだけ、最近の彼女は常々こう言います。なるほど、確かに今それを実感しました。でも中身が醜くても、見た目が美しくいる人を私は知っています。あの人はそういう人です。自分のためならなんだって利用する意地汚さがあります。今まで彼女が人を殺さなかったのが不思議なくらいです。彼女は今だけでなく遠い未来の損得を考えられる人なのです。まるで、未来視でもできるんじゃあないかと私はいつも思います。この人とは一生関わらないだろう、と明らかにわかる人には微塵も興味を示さず、一方で、今後大切な関係になるだろう、という人とは積極的に関わっていきます。例えば、先程のような豚にはきっと、バレエで食べていく選択肢はほぼありません。あの見た目と下手くそさは今から頑張っても無理だろうと、周りから見てもはっきりわかるし、その人自身も大してやる気がないように見えます。そういう人には彼女は一切かかわらないのです。表上明るく接するけれど、内心バッサリその人のことを切り捨てているのです。彼女には、ありふれた偽善心や無駄なお人好しさは何一つなく利用できるかできないかをただひたすら考えているのでした。利用できるのであればなんだって使う。それは、よく言えば賢く、悪く言えば冷たい。ええ、彼女は悲しい人です。醜い人です。美しい人です。



 ある時、彼女と夜遅くまで練習していたことがありました。二人だけの幸せな時間でした。今まで踊ったことのある曲を適当に流したり、踊ってほしい曲をリクエストしたりされたり。私が男役で彼女が女役で様々なパ・ド・ドゥもやりました。男女で踊るのを女の子同士でやるなんてなんだか緊張して私は彼女をうまく支えられませんでした。すると彼女がもう、交代しましょう、と今度は彼女が男役をやってくれるのです。跪いて、私のスカートの端にキスをしてくれたときは、心臓がどくどく煩くて口から飛び出そうでした。一つ一つの動作が優雅で可愛らしく、彼女が私の手を取って、上目遣いをするたび、私は叫びたくなります。やめてくれ、と。もうこれ以上、苦しませないでくれ。幸せな気持ちと引き換えに、ドロドロとした黒いものが飛び出して来てしまいそうになるのでした。彼女を私だけのものにしてしまいなんて、口が裂けてもいえません。彼女は誰のものでもありません。彼女を所有できるのはそれこそ、神様くらいでしょう。そう思っていました。

 練習を終え、外に出ると、スラリとした長身の男の人が入り口に立っていました。彼女は男を見つけると、あ! と嬉しそうに駆け寄るのです。とろけるような笑みを浮かべ、男の腕に抱きつきました。刹那、私は金縛りにあったかのように動けなくなりました。彼女は、明るい声で私に紹介しました。

「私の従兄弟のお兄さんなの、大阪から今だけ出てきてるのよ!」

 私は何も返事ができませんでした。やめて、やめてくれ、彼女に触るな、彼女に近づくな、お前のような人間が触れていいお人じゃないんだ。あぁ、やめてくれ、見せないでくれ。そんな感情が渦を巻いて口から出そうになったのを飲み込むのに必死でした。どうしたの、と声をかけられてはじめて、あ、いやびっくりしちゃって、と蚊の泣くような声でやっと返事をしたのでした。男は、さぁ、帰ろうか、と甘い声で彼女に囁きます。気持ち悪くてたまりません。彼女を穢すな、と体の中で声が反響します。私は慌てて口を抑えて、じゃあ先帰るね、と早々と帰りました。あのときだけ彼女は、女でした。そこらにいるただの女でした。安っちい下着姿で男を見にくく誘惑するような女でした。



 その後しばらく、彼女の男を見る蕩けるような瞳が忘れられなくなりました。あの目を私にむけろ、とは言わないけれど、彼女の瞳の中に私が入る隙間もなく、男だけでいっぱいになっているのは許せませんでした。あぁ、醜い貴女、どうして堕ちてしまったのですか、純粋無垢な貴女はどこへ行ってしまったのでしょう。それとも、貴女はもとからこうだったのですか。そして、私の前だけでコッペリアを演じていたのですか。かのスワニルダのように、私の理想になっていたのですか。そして私はそれを見て喜んでいる憐れなコッペリウスだったのですか。私は騙されていたのだ。彼女は女優です、ペテン師です。



 それからしばらくしてまた、彼女とバレエの稽古場で会いました。相変わらず、彼女は綺麗でした。スラリと伸びた手足が音楽を奏で、整った顔に浮かべた笑顔で踊っていました。また私は見惚れてしまいます。彼女は私に気がつくと、いつも通り、おはよう、と言って、私に近づきました。そして耳元で、こう囁くのです。

「びっくりさせてごめんね、でも貴女が一番よ」

 あぁ、憎たらしい。憎悪、嫌悪。そうやってまた私をあの子は縛り付けるのです。耳に滑らかに入り込んでくるアルトの声とオニキスの瞳で私を操り人形にするのです。もういっそのこと私を突き放してくれたらいいのに。彼女は私を操る糸をどんどん太くして、簡単には千切れないようにしてしまうのでした。

 私は悪い魔法使いに魅了の魔法をかけられてしまったようです。殺してしまいたくなるほど、狂おしい愛が燻り続けて、私の心を焼き続けるのです。彼女の声から足からどうやったら逃れられましょうか。



 先生、お願いがあります。ねぇ、先生、話を聞いて。彼女が何をしたというのですか、なぜ彼女をかの遠い、海も山も全て超えたただ大きいだけの大陸に連れて行こうとするのですか。彼女は確かに、醜くて憎たらしくて、弱いけれど、それでも美しくて儚くて、強いではありませんか。まるで戦国時代の島流しのような、そんなことをなぜ彼女にするのですか。彼女は、外国語なんて喋れません。外にわざわざ行く必要なんてありません。美しいかのお姫様は、完璧で、もう学ぶものなんてないじゃあありませんか。私は彼女のことが大嫌いです。彼女は、オニキスのような大きな目で私のことをじっと見ます。そしてその口からはどんな悪役よりも酷い無情な言葉が飛び出すのです。あぁ! 私は何度それに傷つけられ、羽をもがれたことか! けれど、その後に生えてくる羽はより白く分厚く、美しくなっているのだから、こんなにも皮肉なことはないでしょう。彼女なんか、もう知りません。私に何も知らせず、勝手に行こうとするなんてあんまりじゃあありませんか。彼女の彫刻のような美しい四肢と、深く深く先がどこまでも見えない夜空のような髪、オニキスの瞳が、すべてが見えなくなってしまうなんて。あの人はかぐや姫じゃありません。お願いですから、月に連れて行かないで。天上の羽衣を着せないで。私のことを忘れないで――。

 ほら、今日もまた彼女は私に笑顔で近づいてきます。私は彼女が私になんと言おうとしているのかなんとなくわかるのです。憎たらしい彼女はいつだって、私に呪詛を吐いてくる。私は身動きが取れなくなって、その言葉しか追いかけられなくなる。一歩一歩、彼女は近づいてきます。長い足をリノリウムに滑らせて、口に緩やかな弧を描いてやってきます。キスをされるんじゃないか、と思うのほどの距離で彼女は顔を近づけ、そのアルトの声を私の耳元で吐き出します。あぁ、やめて、やめてくださいまし。もう戻れなくなってしまう。それしか見えなくなってしまう。貴女を貴女だけを愛するから。愛しているから。



「向こうで待ってるわ」



 その言葉は、強く私の脳にこびりついて離れない呪詛でした。



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