4話 遠い日の想い出

「ありがと」と彼女は舞い散る桜を背景に言った。


 当時まだ俺と彼女は小学生で六年生とかそのくらいだったと思う。四月であること以外どんな日だったかは詳しくはもう覚えていないけれど、その光景だけは一枚の絵画のように今でも鮮明に思い起こされる。


 トンネルのように綺麗な薄紅色の花を咲かせた桜並木、フェンスを隔てて傍を流れる雨水幹線に桜の花が舞い落ちゆっくりと流れて。


 所々亀裂が入って時々ズッコケそうになるアスファルトの道を二人ランドセルを背負って歩いていた。


 彼女の名前は粧香織よそいかおりと言った。俺とは幼馴染で昔からよく一緒にいた。

 小さい頃から仲が良くて、だけど丁度その頃は少し気恥ずかしさを感じ始めていた時だと記憶している。


 俺と彼女は、幼馴染というだけであまり似た性格でもなく趣味も違えば好きな食べ物、好きな季節、色、動物とか大体全部違った。虫だけは二人とも苦手だったけど。


 だけど確実に二人の関係を繋ぎ止める何かが存在していたことは互いに分かっていたと思う。友情とか恋愛感情とか関係の名前は色々とあるけれどその時点では明確に言葉にできるようなものではなかった。


 その日彼女が俺に向けて感謝の言葉を口にしたのは、彼女がからかわれているところを正義のヒーローのように俺が助けたことによるものだった。


 男子から筆箱の中に消しカスを詰められたり、ノートに落書きされたり、俺との関係をからかわれたり。とりあえずそんなよくある被害を彼女は受けていて、俺はそれをいつものごとく庇った。


 今思い返すと恥ずかしいし、その庇う行為が逆効果だったんじゃないかと、そう思う。


 でも彼女はきっと心の底から感謝していたし、そういう出来事が二人を繋ぎ止めるものを増強させていた。


 なぜそうやって彼女を庇っていたのか。それはただ同情したとか、好きだからとかそういう意志のもとやっていたわけではなかった。俺は彼女と一つの約束をしていたのだ。『困ったことがあればいつでも助ける』と。


 それは、小学校三年生くらいの時に俺から持ちかけたものだった。


 彼女がいじめられたり、嫌がらせを受けたりすることが当時の俺は堪らなく嫌で、だけどなんの理由もなしに助けることが難しいと考えた俺は、適当に理由を見繕ってそんな約束をした。


「悪いよ」そう答える彼女を「君がイジメられているのを見るのが辛い」そんな本心を伝えることなく、適当に納得してもらえるような御託を並べた。


 その約束のおかげで彼女と関わる口実を得た俺は、小学六年生まで一緒にいることができた。


『約束』が、成長するに連れ男女の違いから関わりにくくなる環境から俺達の関係を守ってくれた。


 約束があれば業務をこなすように意思を介すことなく彼女と関われた。途轍もなく不器用な人間同士の、歪な関係だったけどそれで満足していた。


 その日。彼女が突然俺に感謝の言葉を言った日。約束の効果は薄れてしまったように思えた。ありがとと感謝され行動が意味を持ってしまった。多分曖昧だった関係に名前がついてしまったのだ。


 だけどそれは当然嬉しかったからであり、心が通じ合った、そんな喜びがあったから。


 その日から急接近した俺達は約束なんてなくても良いと思った。助けたいという意志があって、それを素直に受け取ってくれる彼女がいて。形式的なものは必要なくなった。


 でもそれは俺達には、少し早かった。俺達には、最後の一歩踏み出す勇気が互いに存在していなかった。



※   ※   ※



 中学に入学してから俺達が関わる頻度はめっきり減った。ひと括りの子供という存在から男性、女性へ。他の小学校から上がってきた多数の新しい同級生。


 そんな外的な要因が相まって彼氏、彼女だとかそういう繋がりを持っていなかった俺達は関われなくなった。


 クラスも違ってたまに学校ですれ違うぐらいしか会うことはなくなり、俺には俺、彼女には彼女の友達ができて、グループができて。それはまるで当時の俺からしたら別の国のように遠く離れているように感じた。


 どんどん疎遠になって、心が離れていくのを俺達は互いに分かっていたと思うけれど、小心者には一歩踏み出す勇気がなかった。


 そんな生活が半年ぐらい続いた頃だった。

 俺は、彼女がいじめられていることを知った。


 何故か彼女は小さい頃からそういう被害に合うことが多かった。だから、その事実を知ったとき大して驚くことはなかった。


 彼女が、わがままで傍若無人な人間だったなら自業自得と切り捨てていただろうけど、今まで一度たりとも彼女に一ミリでも否があったことはなかったという過去を知っていた俺はそんな訳ないとすぐに理解して、それと同時に再びすごく嫌な気持ちにさせられた。


 彼女は、微妙に女子から反感を買うくらいの可愛さで、意思が弱くて、何かされても文句を言わない、いや言えないそんな人間だった。


 だから、当時の俺は助けたいと思った。心から。だけど彼女がいたのはもう別の国だったのだ。彼女をいじめる連中も知らないし、彼女のことすら最近のことは全く知らなかった。


 既に彼氏でもできているかもしれなかったし、とても仲のいい親友もいたかもしれなかったし、なんだかんだいじめから助けようとする人間が周りにいるかもしれなかった。


 だから俺は、何もしなかった。いじめを知っていて無視した。中学生になってそこそこ大人びてしまった俺は、彼女を守れるのは俺だけなんてキザな思考回路をとっくに切断して、跡形もなくどこかへ吹き飛ばしていた。


 でもその一ヶ月後に彼女が引っ越すという話を聞いたとき、彼女を助けようとした人(少なくとも助けることに成功した人)はいなかったということを察した。


 家の都合らしかった。父が転勤するという理由だった。


 でも学校生活が上手く行ってたらきっと色々と手を回して、転校なんてことはしなかったと思う。

 彼女の家の近所には祖父母の家があったし、そもそも父の転勤だってそう何年も家を離れるものではなかった。というのも幼い頃、彼女が両親について色々と話してくれていたからどんな仕事か俺はある程度知っていた。


 俺の知っていることを整理して考えると、学校が居づらくなったから、丁度良く転勤に合わせて転校ということだと思う。極端に言ってしまえば、いじめが原因で転校することになった、そういうことだと思う。


 転校する前一度だけ彼女と話をした。


「転校するんだって?」


「……うん。お父さんが気を使ってくれて」


「…………」


「まだ、この制服半年しか着てないのに。ちょっと勿体無かったかなぁ」


 苦笑いしながら彼女は言った。


「元気で」


 そう俺の言葉を聞いて彼女は一瞬悲しそうな顔をした。

 でもすぐに笑顔、いやすごく下手な作り笑いを浮かべて。


「うん。お互いに!」


 そう返された。


 そんな作り笑いも、バレバレの空元気ももっと上手くやってくれないと安心なんかできなかった。


 でも、俺からの心配なんてきっとありがた迷惑で、ウザがられるだけ。卑屈だった俺はそう考えて何も言わずに彼女に負けず劣らずの空元気で作り笑いを返した。


 それで俺達の縁は完全に切れた。最後の最後二人を繋ぎ止めていた何かはプツリと切れて完全に無くなった。


 元々ただの幼馴染。そんな深い関係でもなかったからとても脆い糸だった。切れそうな糸を変えることをせず、切れた糸を結び直すことなく、経年劣化でそのまま綺麗さっぱり無くなった。


 夏休み明けの学校には当然彼女は居なくて、いじめていたやつはそのまま楽しそうに生活していて俺は泣きそうになった。


 もう二度と会えないんだと思うと喪失感が思ったより大きかった。強い人間に弱い人間では何もできないということを知った。


 俺はひたすら彼女が、新しい地でちゃんと幸せに生活してくれることを祈った。祈ってもどうにもならないと分かっていたけれど、償いの仕方をそれしか知らなかった。


 でも少しだけ幸せにならないで欲しい、そんな傲慢な思いもあった。ただの醜い独占欲だ。そんな自分が途轍もなく嫌になってそこから俺は随分とキャラを変えた。


 過去と向き合っていると憂鬱で何も手がつかなかったから自分という人間をリスタートさせた。

 そこからの話は関係ないので割愛。ただ中学時代にあまりいい思い出はない。


 唯一の後悔は、一歩踏み出す勇気が出せなかったことそれだけだ。


 結局一度も口に出さなかったから彼女──粧香織が自分の初恋相手であったことを彼女は知る由もないだろう。

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