第1話 界隈でのお約束

 眼前の環境はどう勘定しても大自然。唐突過ぎるネイチャーサバイバル。寝入る前とはあまりにも不連続すぎる現状に、タケルもただ呆然とするばかりだ。


「自宅に電話……いや、これは警察か?」


 事態を何一つとして飲み込めてはいないが、誰かの助けが必要であるのは分かる。ともかくスマホ。尻ポケットをまさぐろうと腕を伸ばしたかけてみたものの、改めて自身の身体に驚かされた。普段のジャージ姿とは似ても似つかなかったからである。


 首元から垂れる黒ずんだマント。毛羽立つウールの上下も微かに臭う程度には汚れている。そして足元の皮ブーツ。随分と使い込まれた形跡があり、歩きやすくて助かるのだが、今にもどこかしら穴が空きそうなくらいに磨耗していた。総じて、手の込んだコスプレ衣装のように思える。


「一体誰がこんな事を……?」


 青少年を誘拐し、野山に閉じ込めた挙げ句、着古した服を着せる事にメリットなどあるのだろうか。逮捕や前科というリスクを背負うだけで、何ら得にはならないだろう。悪戯にしても仕掛人の意図が全く読めず、ここでも首を傾げて戸惑うばかりだ。


 そうして居たたまれない気持ちで満たされた頃に、それは聞こえた。遠くから迫る馬蹄の響く音。目を向けてみれば、一騎だけがこちらに向かって駆けてくるのが分かる。乗り手は浅黒いローブで全身を覆い隠している為に、人となりまでは判別がつかない。


「お願いします! 助けてください!」


 相手が叫んだ。少年は辺りを見回してみるが、やはり自分以外の人間など居ない。


「ええと、オレに言ったの?」


「もちろんです! 私は追われています、どうか……どうか!」


 慌てふためいた下馬の後、崩れ落ちながら地に伏した。声質や裾の隙間に覗く足から、相当に若い女なのだと分かる。少年は目を白黒させつつも傍へと歩み寄り、手を差し伸べた。だが、少女のあげた唐突な悲鳴によって、彼もまた戦慄させられてしまう。


「あぁっ! 敵があちらから!」


「えっ……?」


 指の差された方を恐々としながら振り返ると、そこには思わず目を疑う程の光景が広がっていた。


 現れたのは2足歩行の生き物だ。背丈はおよそ120センチ前後で、人間の子供くらいの体格。皮膚は真緑色で、水槽に浮かぶ藻を彷彿とさせる。眼は炎のように紅く、口の端から飛び出す鋭利な歯も、人類というよりは獣のそれである。不可思議としか言い様のない敵性生物が2体、耳障りな奇声を発しながら接近しているのだ。


 手には凹凸の激しい棍棒、他の装備と言えば麻の腰簑(こしみの)だけという知性を感じさせない蛮族スタイル。交渉の余地を探ろうと観察するが、その間も敵は意気高揚させるように棍棒で空を切り裂いた。問答無用の合図である。


「これって、どう見てもアレだよな……?」


 非現実的かつ、予期せぬ展開に頭が追い付かない。それでも接敵まであと僅か。格闘技経験はおろかスポーツすら不得手な自分と、背後で震える少女の2人だけで乗りきらなくてはならない。これは一体何の因果か。思わず頭を抱えたくなる程の理不尽さが、異形な姿に扮装し、今まさに目前へと迫っていた。


「あれはゴブリンです。力の弱い魔物ですが、油断なさらないでください!」


 背中越しに注意喚起が飛ぶ。戦うのは規定路線で間違いないらしい。付近は交渉や逃走を許さぬ空気に染まり、殺意で肌がヒリつくようだ。


 せめて武器をと思っても、目につく物は枝や石ころばかり。恃(たの)むとすれば己の拳しかない。


「もう分かったよ! やってやるぞこの野郎ッ!」


 もはや追い詰められたネズミだ。丸腰のままで地を蹴って走り、覇気の漲(みなぎ)る魔物へと取り付いた。タケルの顔めがけて振り回される棍棒。その根本を掴む事で止め、力での押し合いを仕掛けた。すると、苦もなく互角以上の展開に持ち込めた。


(もしかして、いけるかも……?)


 手応えに気を許したのも束の間。ガラ空きとなった胴をもう一匹に狙われてしまった。真横に凪ぎ払う棍棒が脇腹に深く突き刺さり、衝撃は筋肉を伝って内臓まで重たく響いた。生半可な痛みではない。慈悲の欠片も無い攻撃は脅威的で、大きく身を仰け反らせてしまう。


(こいつら、今本気で……)


 これはスポーツでも喧嘩でもない。ゴングも審判もルールブックさえも無い、純然たる殺し合いである。互いに殺意をぶつけ、強い方だけが生き残る権利を与えられる。弱肉強食そのものだ。今の一撃は、その事実をまざまざと突き付けるのに十分であった。


「痛ぇだろがクソ野郎ーーッ!」


 もはや、現代人としてのモラルは吹き飛ばされた。少年は拳に闘志を籠めると、敵の顔面に向けて無遠慮に叩きつけた。殴られたゴブリンは四肢を投げ出し、転がるままに坂道を滑っていく。身動ぎすら見せないままに、その全身を濃紫色の煙に変えると、やがて跡形もなく消え失せた。


 あまりにも呆気ない結末に憮然(ぶぜん)としてしまうが、まだ敵は残されている。耳障りな奇声で我に返ると、落ちていた棍棒を拾い上げ、もう一匹に向かって殴りかかった。


「これでも喰らえッ!」


 手応えはアッサリしたものだった。まるでタオルケットでも叩いたような感触であり、悪鬼を懲らしめた実感には程遠い。しかし、ゴブリンは遥か遠くまで吹き飛ばされていく。こちらも宙空で身体を煙に変え、いずこかへと霧散してしまった。敵が居た証と言えば、地面に落下して転がる棍棒だけである。


「やった、勝っちまったぞ! オレ超強ぇじゃん!」


 勝者の特権たる雄叫びを天高くまで響かせた。大自然で叫ぶ以上の充足感に、思わず身震いを覚え、かつてない感激が全身を包み込んだ。しかし、それと同時に冷静に眺めようとする自意識もある。


「……どうせ夢だけどな、これ」


 五感に伝わる信号は全て生々しいものだが、道理が非現実的すぎるのだ。文字通り一夜限りの夢、ひとときの戯れとばかりに、目覚めまで楽しんでやろうと思い至る。


 そんな彼の元へ、少女が足を不自由にしつつも歩み寄った。それから正面に立つなり、目深に被ったフードを取り、薄汚れたローブも脱ぎ去った。そうして露になったのは、光輝かんばかりの美しき娘である。


「危ういところを助けていただき、ありがとうございました」


 しなやかで懇(ねんご)ろなお辞儀がなされる。気品すら漂う身のこなしからは、相当な身分であるのだと窺えた。


「遅ればせながら、私はエマと申します。以後お見知りおきを」


「オレの名前はタケル。こちらこそよろしく……」


 彼女の顔が持ち上がったのを見て、少年はその身に電撃が駆けるのを感じた。可憐な容貌に心奪われたのではない。目の前に立つ女性の姿、そしてエマという名は、スマホに悲鳴をあげさせてまで渇望した女性その人であったからだ。


 若竹色に輝く美しき髪は長く、風がそよげば優しく揺れる。つぶらな瞳は宝石のような輝きをみせ、それを隠すような睫毛も長く、そして豊かだ。小さくて存在感の無い鼻に代わって、桜の花びらを連想させる唇が視線を吸い寄せる。その柔らかそうな膨らみも、見る者の心を優しく受け止めるようだ。肌は透き通るように白く、手足もスラリと細長い。非の打ち所の無い容姿は気品を備えた事で、美の結晶と評する程の域にまで達したのである。


 そして何よりも、胸元の2つ。華奢な身体には不釣り合いな程に膨らんだ胸は、清楚な装いの上からでも強烈に主張するものだった。『あぁ~これ肩凝るわぁ』くらいの煽り言葉が許されるまでには育っている。


(間違いない! この子は、あのエマちゃんじゃないか!)


 タケルの目には、彼女の身に付ける赤縁の付いた白のドレスも、純金で設えた装飾品も映らない。服の袂(たもと)から覗く魅惑の谷間に釘付けとなり、目が眩む程のまぶしさに酔いしれる。


(ゲームの夢を見るなんて最高じゃねぇか!)


 スマホの画面内で平面的な姿でしか存在していなかった彼女が、こうして血の通った人物として眼前に現れたのだ。その喜びようは言葉すら無粋。腹から生じた快感が脳天を突き抜けて、意識は大空まで吹き飛ばされそうになる思いを、どうにか堪えるだけで精一杯となる。


「あの、どうかされましたか?」


 態度が露骨すぎた。しかし、咎める気配が込められなかった事は幸いである。


「いや、ごめっ。何でもないよ!」


「そうでしたか。失礼があったのではと心配致しました」


 心から安堵したように、エマが胸を撫で下ろす。その純真さに比べ、自分の汚れ具合はどうか。タケルの良心に鋭い痛みが走るようだ。


「ともかく、オレが傍にいる限り安心だ! 君の事は必ず守り通してみせるから!」


 随分な大口を叩いたものだが、夢の中とあって大盤振る舞いだ。


「頼もしいお言葉、嬉しく思います。ですが、敵は屈強な上に多勢です。いつ群れをなして押し寄せてくるか判りません」


「大丈夫だって! 今の戦いっぷりを見たろ? もう超絶に強い……」


 言い終える前に地響きがした。思わず身体も跳ねかねないほど大きく、地震かと疑うのだが、それにしては間隔が空きすぎている。まるで足踏みに合わせているかのような、一定の規則性が感じられたのだ。


「敵の増援が参りました! あれはオーガです!」


 それは巨人だった。平均体型のタケルが見上げる程に大きく、縦にも横にも2倍はありそうな体型だった。筋肉は岩石のように膨らみ、その腕力を活かす事で、人間大の棍棒を意に介さず携えている。


 タケルは一目散に逃げ出した。皮肉にも己の強さを自慢した直後で、その舌の根も乾かぬうちの事だ。格好つけた手前、果敢に挑みたい気持ちはあっても、身体は偉く正直だった。


「こんなヤツ無理に決まってんだろぉーーッ!」


 恐怖に駆られた為に、敵に背を向けて逃走を開始した。覚束ない足取りは、今にも転びそうなくらいに危なっかしく、実際転びもした。慌てて振り返ると、巨体は目前へと迫っていた。急激な動きによって標的となる事は、野生生物と同じ理屈であった。


「来るな! こっちに来るなよぉ!」


 超強いとは何だったのか。腰を抜かしたまま這いずり回る様は、魔物の嘲笑すら誘ってしまう。


 勝ちを確信したオーガは赤い瞳を歪め、高々と掲げた棍棒を一気に振り下ろした。それは何の妨げもなくタケルの脳天に直撃し、訳もなく頭蓋を砕いてみせた。


「タケル様! お気を確かに!」


 悲痛な叫びが響き渡った。しかし、当の本人は応えるだけの余力が無い。ただ徒(いたずら)に血を流し、全身を貫く寒気とともに、命が消え行くのを感じるだけである。


(やべぇ……すっげぇ眠たい)


 瞳が最後に映したのは、泣きながら傍に寄るエマの姿だ。よもや会えるとは思いもしなかった愛しき人。出会って数分での死別。リアリティ溢れる世界からの退場には、後悔の念がつきまとった。


(手ぐらい握っておきたかったなぁ)


 この期に及んで呑気であるのは、確信を得たからである。意識が闇に落ちようとする感覚は、普段眠りにつく時のそれと酷似していた。やはり、ここは夢の世界。突拍子の無かった数々は夢ならではの乱痴気騒ぎ。次に目が醒めたなら、6畳間の自室があるはずだ。そう思えば怖いものなど無く、何ら憚(はばか)る事なく目蓋を閉じた。すると意識が強烈に吸い寄せられるのを感じた。


(うおっ。何だこれ!?)


 頭に巨大な掃除機でも向けられたような、或いはストローの中にでも詰め込まれ、どこか違う場所に誘われているような気がした。目が見えず、今どのような状態にあるのかすら分からない。そもそも五感は全て不能に陥っており、しかし未知なる浮遊感だけが与えられるという、果てしなく面妖な体験をさせられていた。


(着いた、のか?)


 手足の感覚は乏しいながらも戻り、視界にも僅かな光を感じた。夢の終わり。そんな言葉を浮かべつつ、五感が整うのを待った。光は徐々に強さを増し、瞳が眩さで白む。覚醒まで秒読みとなった頃、不意に耳慣れない声が聞こえた。


ーー強敵が現れた時は、精霊の力を借りて戦おう!


 反射的に辺りを見回すが、眩む瞳が捉える物は無い。それにしてもと思う。随分と朗らかというかお気楽な響きだった。こちとら脳挫傷をやらかす羽目にまでなったんだぞと、文句の1つも言ってやりたくなる。


 しかしその暇も無く、膨大な量の光に飲み込まれる事で自意識は揺さぶられた。暴力的な眩しさは目蓋を閉じていても痛みを覚える程である。痛い痛いと胸中で連呼するうちに、やがて光は落ち着きをみせ、視界は少しずつ色とりどりの世界を取り戻していく。


 そして最後に、『カキン』という鋭い音を聞いた。それは儚く崩れるようであり、幻聴を疑ってしまう程にか細いものだった。


(なんだ今の音。ガラスでも割れたのか?)


 微睡みボヤける瞳が映し出すのは、手付かずの原野。そして藁葺きの屋根。身体をまさぐれば毛羽立つウールのザラつく手触り。先程の鋭い音から、現世に生還したことを期待したが、その想いはアッサリと裏切られた。現代科学を取り去ったような光景は、今もタケルを覆い尽くして離そうとしない。


 そして耳を澄ませば、掘っ立て小屋の外に馬蹄の響きがあるのが分かる。さらに間髪いれず、助けを求める叫び声が聞こえてきた。


「おい、これってまさか……!?」


 やり直しである。夢の目覚めを迎える事は叶わず、一寸前の身体へと戻されてしまったのだ。それはさながら、ゲームでリトライを選択した時の様相にも似て。


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