オレの神アプリ 〜リヴィルディア戦記〜

おもちさん

プロローグ

 今宵も変わらず静かな夜だった。時計の針は既に日付を跨いでおり、閑静な住宅街で聞こえる物音など極わずかなものだ。


 足の裏を叩きつけるようにして、溜めたストレスを撒き散らして行くサラリーマン。寂しさのあまり月に哭(な)いた外飼いの犬。どれもこれも眠りを妨げるほどでは無く、寝静まった街は寛容にも、定型的な環境音として柔らかに受け止めてくれる。


 そんな中で、新たな騒音が町の一画に誕生していたのだが、寝入る人々が気づく事はない。あくまでも些細なもので、誰の耳にも届かなかった為である。


「ふざっけんなよマジで。1枚も引けなかったじゃねぇか……!」


 怒りを圧し殺したような声とともに、少年の手元に収まるスマートフォンがミシミシと音をたてた。室内の灯りは光量に乏しく、唯一の照明である画面にはポタリポタリと滴が溢れていく。それを袖で乱雑に拭うと、彼にとって受け入れがたい現実が明るみとなった。精巧かつ色鮮やかなゲーム画面が、期待にそぐわない結果を映し出したのだ。


 キャラクターを麗しく彩るアバターの中には限定商品が含まれており、彼が切望したものも該当する。入手方法はランダム抽出、すなわちガチャ形式によって対応するカードを引き当てるのだ。超低確率の品を狙って引くことは困難を極めた。この失敗は言わば妥当な着地点であるのだが、彼にとって到底受け入れられる結末ではなかった。


「終わっちまう……水着キャンペーンが終わっちまうよぉ……」


 今日という日に備え、僅かな暇も惜しんでプレイを続けたものだ。と言うのも、本来なら有料で買うべきゲーム内アイテムを、ゲーム成績に応じて無償で受け取れるからである。ただし、それは微々たるものでしかない。十分な量を得るには膨大な時間を犠牲にせねばならず、実際そのようになった。睡眠や遊びの時間を削りに削る事で捻出したのである。


 そうしてまで手にしたのは水晶体と呼ばれる疑似通貨。アバターガチャに換算して20回の抽選権。不退転の決意で望んだ運試しだったが、コンマを必要とする確率を突破するには不十分であった。その結果として、願いは積み上げた苦労とともに瓦解してしまったのである。


「こうなったら、課金するしかない……!」


 まだ高校生である彼が投入できる額は少ない。そして少額とは言えど、親からメチャクチャに怒られるやつだ。請求書の襲来が、説教とセットにされる事は約束された未来である。それを容易く見通せたが故に、指先が課金額の選択画面で震えて止まる。


 実を言うと、彼は既にかなりの額をつぎ込んでいた。トータルで大卒の初任給が軽く消し飛ぶ程度には課金してきたのである。スマホ決算という名の、請求先を自身の財布ではなく家計に回す事の出来る錬金術だ。だが、どのような小細工を用いようとも、企みとは白日の元に晒される運命にある。それはもう、こっぴどく叱られたものだ。少なくとも再犯を大いにためらう程度には。


 しかし、欲しい。お気に入りのキャラが水着に着替えたカードが、とにかく欲しい。白く輝く豊かな谷間が、丸く突き出された尻が、どうしても欲しい。


 やがて、煩悩に軍配があがってしまった。限度額いっぱいの注文、滑らかなる暗証番号の入力、そして確定。画面には定型の感謝コメントとともに、潤沢なまでの水晶体が補充された。これでもう一度戦えるというものだ。


「大丈夫、引ける。絶対引ける。諦めなけりゃいつかは引けるんだ!」


 気持ちを新たに、今再び戦場へ。己の正義(がんぼう)を貫くべく、いざアバターガチャの画面へと舞い戻らん。


 と思ったのだが、突如としてアプリはフリーズに見舞われてしまった。症状は極めて致命的だ。あらゆる操作が用を為さず、ホーム画面に戻ったり端末の再起動を試してもアプリだけが不能という異常事態。キャッシュクリア、再インストールまでも試してみたが、全ては無駄でしかなかった。


 ともかく、ゲームを起動する度に画面は真っ暗という有様だ。次第に少年の心もそれに勝るとも劣らず暗くなる。


「やべぇ、あと30分しかねぇぞ!」


 データの切り替わりは午前1時。それまでにカードを引けなければ、お目当ての品は未来永劫手に入る事はない。それを理解している彼はがむしゃらにリカバリしようと試みた。


 公式サイトを漁る。不具合報告は出されていない。SNSや匿名掲示板も手当たり次第に探す。だが、極端にマイナーなゲームであるために、リアルタイムで同じ障害に見舞われたユーザーを発見するには至らない。


 刻一刻と過ぎる時間。焦りからマウスカーソルが、タップする指が滑りに滑る。無い、無い、どこにも無い。膨大な情報量を有する電子の海であっても、現状を打破するだけの答えは見つからない。その間も無情に針は回り続け、やがてひとつの節目が訪れた。


 短針が『1』の方角を指してしまったのである。


「何なんだよぉぉマジでぇーーッ!」


 自室のベッドに突っ伏し、枕に顔を埋めて嘆き叫んだ。可能であれば、天に向かって心の赴くままに慟哭(どうこく)し、胸を掻きむしりたいくらいだ。しかし、現状がそれを許してくれない事を重々承知している。夜中に騒げば両親が部屋に乱入するのは確実で、下手をすれば現時点で課金(ぼんのう)がバレてしまう。よって仕方無しに、消音モードで哀しみに暮れるのである。


「もう嫌だ、ほんと嫌だ……こんなクソみてぇな人生。ふざけんなよ」


 大袈裟すぎる反応であるが、彼は本気だ。これ以上ない程の哀しみと挫折を抱いており、文字通り前が見えずにいるのだ。止めどなく流れ行く涙。拭いようのない悔恨。かける言葉もないまでに、心の奥深くへと沈みこんでしまう。


 どれだけそうして泣き明かした事だろう。いつしか傷心は抗いがたい睡魔に成り変わっていた。もはや夜更かしする理由も無い。少年は意識の手綱を手放し、引きずり込まれる感覚に身を委ねた。


 次に意識を取り戻したのは、眩しい日差しを浴びた頃であった。いくらか肌に寒い風がそよぎ、身体が心地よい冷気を浴びた。鼻腔に漂う草花や土の薫りも極めて濃く、生命の神秘を乗せたようであり、都会暮らしに慣れ親しんだ心を大いに震わせてくれた。


「えっ……。草の匂い!?」


 異常を察知して飛び起きると、更なる衝撃が走った。ここは築浅の戸建てに設けられた自室ではない。先ほどまで突っ伏していた寝具の類いも一切無い。目につくのは藁葺き屋根と、手付かずの空き地らしき草原だけだ。


「何で、どうしてこんな所に……?」


 恐る恐る足を踏み出してみると、そこは大平原であった。他に建物はおろか、文明とおぼしき物が一切無い。見えるのは野放図に伸び散らかした草木、遠くに浮かぶ屹立とした連峰。辺りを横断するような一本道もアスファルト性ではなく、単に草を刈り取っただけのものだ。緑地どころではない閑散ぶりは、ここが現代日本であるかすらも判別が出来なかった。


 なぜ、どうして。乱れた思考が延々と同じ言葉を繰り返す。物を尋ねようにも人影はおろか、野良猫すらも見かけなかった。この不可解極まりない状況に早くも消沈してしまう。


 しかし、異変はまだ幕開けを迎えたばかり。少年の受難にも似た試練は、これより始まるのだった。

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