第5話 用済みの名探偵その5

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 僕は、これでも高校時代までは地元では名の知られた陸上選手だった。


 専門は短距離走。


 最近サッカー選手に転向した某ジャマイカの英雄ほどではないにしても、当時僕が持っていた自己記録は全国的に見てもなかなか見られたもので、高校一年生の頃から全国大会に出場し、高校三年生の頃には当時の高校記録を塗り替るほどであった。


 その後は世界大会の強化選手として日本代表の選抜合宿などにも選出されていた。


 もちろん、大学からも引く手あまたで、陸上に力を入れている全国各地の名門校からそれはもう多数のオファーが来ていた。


 では、なぜ今の僕がこんな地元の私立大学に通っているのかといえば、それは僕が高校三年生の秋、高校最後に出場した大会で――右脚の靭帯を断裂したからに他ならない。


 正確には『右膝前十字靭帯損傷』というらしい。


 その後、リハビリを続けることでおおよそ日常生活に支障がないくらいまでには回復したわけだけれど、当然ながらもう以前のように陸上を続けることはできなかった。




 僕が陸上を始めたのは小学三年生のとき。


 特に体を動かすのが好きだったというわけではなかったが、当時、僕の両親が何か僕に習い事をさせようと最初に連れてきたのが地元小学校のグラウンドで行われていた陸上クラブだった。


 最初に連れてこられた時、大して走ることが楽しいとは思えなかったし、正直陸上に魅力を感じたわけでもなかった。


 しかし、残念ながら昔も今も、僕は典型的な『Noと言えない日本人』だった。


「どうする? 続けるのか?」


 そう聞いてきた父親に対して、


「う、うん」


 と、その場で何となく頷いてしまった。


 これが僕の陸上との出会いで――そして僕はこのとき頷いたことを今になって何度も後悔することになる。


 とはいえ、いざ始めてみるとやはり僕には走ることに関する才能があったようで、たちまちクラブ内の他のメンバーよりも速く走ることができるようになった。


 この頃から、陸上クラブのメンバーに加入してきた舞花と仲良くなったこともあり、僕にとって陸上を続けるのがそれほど苦にならなくなってきた。


 そしてそれ以降、地元の大会でも着実に成績を残せるようになって、前述のとおり、高校時代には高校生の日本記録を塗り替えるまでに至った。


 正直、どれだけ練習して足が速くなっても、走ること自体はそれほど好きにはなれなかったけれど、それでも自分が他の人より何か一つでも優れているものがある、という事実は確実に僕を陸上の世界に『夢中』にさせた。


 ――楽しくはなかったけれど、間違いなくあの頃の僕は走ることに対して『夢中』になっていた。


 だからというわけではないけれど、僕にとって青春時代と呼べるものは陸上漬けの毎日だった。


 そしてそれに伴って、元々口数も少なく、友達が多い方ではなかった僕の周りからは完全に人はいなくなった。


 体育祭ではクラス代表リレーで当然のようにアンカーも務めたし、勉強だって決して苦手な方ではなかったけれど、それでも休み時間になって僕に話かけてくるような友人はできなかったし、完全に僕はクラスや部活内でも浮いた存在だった。


 ――僕は走ること以外に興味がなかったし、何より他人に興味がなかった。


 今考えれば、『僕は人とは違う存在だ』なんて中二くさい考えをずっと持っていたのだと思う。


 でも、実際に当時の僕はクラスメイトや部員たちと大きな壁があって、それは僕と彼らとの存在を明確に住み分けていた――と少なくとも当時の僕は本気で信じていた。


 今考えれば、単にコミュ障のクラスメイトを周りが敬遠していただけなのかもしれないけれど、それでも僕の言うことは全部周りがやってくれたし、僕はひたすらどうやって速く走れるようになるか、ということばかり考えていた。


 そして、それは自分にとっては当たり前のことで、きっとこれから先もそうなのだろうと信じて疑っていなかった。


 こうやって、走ること以外は何もできない、いわば高校生史上最速の社会不適合者――海野杜達也という存在が出来上がっていった。




 だからこそ怪我をして陸上が続けられなくなった時は本当に絶望した。


 本当に誇張でも何でもなく、世界ががらりと変わってしまった。


 実際には僕が怪我をしたくらいのことで世界が変わるわけなどないのだけれど、それでも確実に『僕から見える世界』はあの日を境に一変してしまった。


 ――僕は『高校生史上最速の社会不適合者』から『ただの社会不適合者』になった。


 それからは、朝学校に来て教室に入っても声をかけてくる友達はおらず、誰とも会話をしないまま一日が過ぎて、そのまままっすぐ家に帰る生活が続いた。


 あまりに自分が情けなくて、でも自分が一人でいることを正当化するために休み時間はずっと机に突っ伏して寝たふりをしていたし、昼休みには誰も使っていないような校舎の隅にあるトイレの個室に入って一人で昼ご飯を食べながら昼休みが終わるまでずっとそこで過ごした。


 ――必死だった。


 必死で『僕は友達がいないわけじゃないんです。僕は一人でいたいだけなんです』というポーズを取っていた。


 もちろんそんなことをしても周りからは単に友達がいないやつとしか思われていなかったのだろうけれど、それでも僕はそうすることで必死に自分を守ろうとしていた。


 でもそんな生活も長くは続かず、何かと理由をつけて学校を休むことが多くなり――次第に僕は不登校になった。


 幸いなことに三年生はすぐに自主登校の時期に突入したため、僕はわりとスムーズに不登校生活に突入することができた。


 こんなことを言えば失礼かもしれないけれど、最初からこんな風に友達もいないクラスカーストの底辺にいるような奴ならきっと平常運転で学校に通い続けることもできたのだろう。


 ――でも、僕にはそれはできなかった。


 一度昇り詰めて手に入れた中途半端なプライドをどうしても僕は捨てることができなかった。


『どうして僕がこんな風に扱われなければいけないんだ』


 と、あくまで自分ではなく周りのせいにし続けた。


 こうして僕は何もないただの引きこもりになった。


 家では両親や礁湖も心配していたけれど、僕は自宅の部屋からすら出ることが少なくなっていた。


 陸上を続けていた頃から数少ない心を許していた相手であったはずの両親や礁湖とも話すことが少なくなった。


 学校に行かなくなると今度は同じように引きこもっているにもかかわらず、経済的に自立している礁湖が眩しく見えて、また自分が情けなく思えてきた。


 ここでも僕は自分のちっぽけなプライドを捨てられなかった。


 苦しかったし、惨めだった。

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