26.失った印

 学園からの帰宅後、一時間ほど眠っていた浅葱あさぎが、自室でゆっくりと意識を覚醒させた。

 油断で脇腹を裂かれたが、今はその片鱗すらない。


幸徳井こうとくいさんの治癒術、完璧だな……。僕も見習わないと」


 痛みと熱さは忘れない。

 少しだけ、これで死ぬかもしれないとさえ思った。

 以前の自分であれば手放していただろう。だが今は、浅葱には手を取ってくれる存在がいる。そして、仲間がいる。

 だからもっと頑張らねば、と決意できるのだ。


「……浅葱さん」


 一声あってから、朔羅さくらが姿を見せた。

 彼は複雑な表情をしていて、自分のこと以外に何かがあったのだと浅葱はすぐに悟った。


賽貴さいきさんが来てるのは、憶えてる?」

「ああ、うん。まだいてくれるの?」

「……今晩だけ、こっちで過ごしてくれるって」

「そっか。……えっと、……ッ!?」


 浅葱の脳裏に、嫌な気配が過った。

 それと同時に体から『何か』が削がれていく気がして、青ざめる。


「……朔羅」

「うん」


 朔羅には、浅黄の察したことがすでに分かっているようだった。

 実際に彼は、賽貴からの報告をすでに受けている身だ。

 ――そう、『彼女』のことを。


白雪しらゆきの繋がりを……感じられない。まさか……」

「うん……どうやら、印を切られてしまったみたいだ」

「学園での僕の喚びかけに応じなかったのも、このせい? 彼女は無事なの?」

「……大丈夫。今は賽貴さんの元にいるよ」


 式神の主である浅葱には、精神で繋がれた縁を感じることが出来る。初めこそこの繋がりを拒否し続けてきたが、それでもどこかで、安心感もあった。

 かつての賀茂浅葱かものあさぎが刻んだ白雪への印が、感じられないのだ。


「賽貴さんと会うかい?」

「うん。白雪の状況を知りたいし……会ってくれるなら」

「――だってよ、賽貴さん」

「…………」


 浅葱の部屋の扉が、ゆっくりと開いた。

 おそらくは廊下にいたのだろう、賽貴が姿を見せる。久しぶりに見たその姿は、遠い存在にも思えた。


「お久しぶりです、浅葱さま」

「う、うん……その、久しぶり……」


 賽貴は静かに床に座り、以前と変わらぬ仕草で浅葱へと頭を下げる。

 主として接してくれているのだと思ったが浅葱は、少しだけ緊張した面持ちで返事をした。ちなみに朔羅は、黙ったままでその様子を伺っている。


「……以前より逞しくなられましたね」

「うん、あなたが居なくなってから……僕も目が覚めたよ」

「それは大変良いことです。ですが……無理はいけませんよ」

「ありがとう、肝に銘じるよ。それで、白雪のことだけど……」

「――これを」


 賽貴が静かに何かを差し出してきた。

 彼の手の先に合ったものは、白雪の衵扇だ。開いた一枚には、賀茂浅葱が授けた証があるはずであった。


「証の鈴が……潰されてる……」


 浅葱はその光景を、青ざめつつ見た。

 ただの鈴ではない。主と式神との関係性を示すものであり、経年にも耐えられるモノであると認識していた。

 その鈴が、踏み潰されている。門番である彼女に近づける者など殆どいないはずなのにと、浅葱はゆるりと視線を賽貴へと戻した。


「……白雪の他に、雪華の者が存在しました」

「っ、え……だって、雪華族は……」


 ――すなわちの『雪女』と呼ばれる存在は、特殊な種族である。

 当然、浅葱もそれを知っている。当代に一人だけで存在し、人間と交わることで主を残す種族であると。


「我々も掌握できておりませんでした。おそらく、白雪自身も知らなかったのでしょう」

「つまりは……この長い時間の中で、種に変化があったってことだよね? でもどうして……それなら猶更、白雪を手にかけるとは思えない。彼女が門番だったから? だったら、僕のほうに矛が向くはずだよね?」


 浅葱は賽貴に問いかけを続けつつも、思案を続けているようだった。

 自分で考えて、出来るだけ脳内で状況を整理しようとしているのだ。


(……お変わりになられましたね、浅葱さま)


 自分が去ることで、主は変わった。

 そこに少しの寂しさはあろうとも、賽貴は当然に良い傾向だと思わざるを得なかった。

 改めて感じる主の成長を目の当たりにした彼は、思わず目を細める。


「――浅葱さま」

「あ、うん。ごめん」

「白雪の印がどこに在るのか……あなたはご存じでしたか」

「う、うん……実際に見てはいないけど、彼女は……背中、体の中心にあるんだよね」

「そうです。彼女の印は宇宙を示す『キャ』。賀茂浅葱が、その文字を選んで刻みました。門番であるからこその意味合いを持ちます」


 『空』とは、仏語からくる『地水火風空ちすいかふうくう』の一部である。

 五大元素とも呼ばれるが、その中でも『空』は、とりわけ重要でもあった。碍や障もなく、『空』があって一切をその中に安定させるものであるのだ。

 この考えから白雪へと結び付けられることは、やはり彼女が人間界と魔界との狭間に存在する者だからなのだろう。


「……あなたたちに、影響は出ていないの?」

「それは大丈夫だよ。まぁ、空虚感みたいなモノはあるけどね」


 浅葱の問いかけに答えたのは、今まで黙っていた朔羅であった。

 彼は『何か』を確認しているようにして、静観を決め込んでいたようだ。


「僕らはどちらの世界を束ねているわけでもないし、賀茂浅葱がそれらの文字を選んだのだって、時代に関係しているところもあるしね」

「……なるほど。皆の能力の属性を意味してる……って考えておいていいんだね」

「そうだね」

「白雪は自力で戻ってこれそうなの?」

「……それが、彼女はひどく落胆しておりまして……体のほうは大丈夫なのですが、面会すら拒む姿勢を見せています」


 賽貴は静かにそう言った。

 彼は常に物静かではあるが、表情だけが厳しいものになっている。

 それを見て、浅葱はまた思考を巡らせた。

 白雪以外に存在しないはずの種族の発生、門番だからこそ狙われた彼女。そして削がれてしまった式神としての印――。


「…………」


 浅葱はそこまでを考えて、何かを思いついた。


「……ねぇ、賽貴。僕は迎えに行ける?」

「浅葱さん」

「もちろん、軽率に行き来しちゃいけないってことは、理解してるよ」

「はぁ……なんだかこの光景、ずっと前にも見たね……」

 

 朔羅は呆れたようにそう言いながら、浅葱の隣に腰を下ろす。そうして主の背に手を添えつつ、賽貴の答えを待った。

 賽貴も朔羅と同じようにして、かつての光景を思い出していただろう。

 賀茂浅葱が、危険を顧みずに魔界へと行くと告げたあの日のことを。


「少し、お時間を頂けますか。白雪が不在の今、門を潜るのは困難ですので」

「うん、わかった」


 賽貴はそこで退室するようで、浅葱に深く頭を下げた。

 その後に朔羅へと視線を投げかけると、彼はゆっくりと扉を開いて主の部屋を出ていった。

 朔羅は彼の気配が遠ざかってから、はぁ、とため息をこぼす。


「……浅葱さんはもう少し休んでおくんだよ」

「朔羅?」

「僕も色々と準備があるから、一旦出るね」

「あ、うん」

「あと、白雪のことも。あんまり考えすぎないこと」

「……うん」


 困ったようにして笑う浅葱の頭を、朔羅が愛おしそうに撫でた。

 そんな彼もゆっくりと立ち上がって、浅葱の部屋と後にする。

 今回の件は決して楽観視はできない。だがそれでも白雪自身が無事であること自体は、安堵すべき部分でもある。

 この先、何が起こるのか――何をすべきなのか。

 浅葱も朔羅も、様々な選択を迫られるかのような、そんなうっすらとした不安を抱えていた。

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