25.月梅の君(ニ)
「後悔していますか」
ふと、聞き慣れない声がした。
全てに疲れ切っていた彼女は、その声に反応することもせず、俯いたままだった。
「……まだ、生きたいと思いますか?」
何を言うのかと思った。
誰とも知らぬ存在が、闇の中で見当違いの事を言う。愚かな響きだと素直に思って、彼女は浅く笑った。
「
「いいえ。私はあなたを救いに来ました」
「…………」
声の主が近づいてきたことを悟った
そこには、一人の少年が立っていた。
一瞬だけ、
――同じ、梅花香を薫らせていたからだ。
「……近づくな、人間! 喰ろうてやるぞ!」
白雪は吠えるようにそう言いながら、氷の塊を少年に向かって飛ばした。
殺すつもりで無数に飛ばしたが、それは全て何かに弾かれる。
「!」
少年の隣に、もう一人の影があった。
背の高い、黒髪の青年だ。
そこにいるだけで、格の差を感じさせる空気を持った存在だった。そして、その彼が人間の少年を守ったのだ。
「……
「…………」
黒髪で黒衣の青年は、何も言わなかった。表情にもほとんど変化が無く、ただこちらを見ているだけだ。
「白雪」
「……っ!」
少年が白雪の名を呼んだ。
白雪はそれを拒絶して、彼をきつく睨みつける。
「……どうか、私の手を取ってくれませんか」
「そうする理由など、どこにもあらぬ」
少年が一歩、歩みを進めた。
白雪はその少年を睨み続けながら、妖気を強める。
「あなたはこの場に落とされた理由を、理解していますか」
「我らの族の罰であろう」
「そうですね……あなたは、一時の感情に飲まれて人を殺め過ぎました」
「それがどうした。妾は妖の者。人間を喰ろうて……命を、繋ぐ……」
白雪は自分の声に湿り気を感じていた。目の前の存在が歪んで、ゆらゆらと揺れていく。
糧として見てきたはずの者を、愛した。
愛した人の縁の者の命を、食べてしまった。
些細な事であるはずだった。
それでも白雪は、その現実に耐え切れなくなり嗚咽を漏らした。
「罰は……当然として受けよう……雪華は己の命を繋ぐ者以外の存在を、狩りとってはならぬ……」
「うん……」
ボロボロと涙をこぼす白雪の手を取ったのは、近づいてきていた少年だった。
黒髪を高い位置で括り、霊気を強く漂わせる着物を身に着けている。
――それが、賀茂浅葱であった。
「……何があったのかは、お聞きしません。ですが、このままでは私が見過ごせなくて……もしお嫌でなければ、私と契約してくださいませんか」
「何を、申しておるのだ……」
「私は陰陽師です。名を
「だったら祓えばよかろう。……妾に、情けなどいらぬ」
白雪が吐き捨てるようにしてそう言うと、浅葱はとても悲しそうな表情をしてから、弱く笑った。
「白雪。私は、あなたに来て欲しいのです」
「…………」
この者が、自分の何を知っているわけでもない。
そして白雪も、目の前の陰陽師を何も知らない。
それでも彼のそんな一言で、憑きものが落ちたかのような感覚を得て、白雪は新たな涙を溢れさせた。
「……よろしく、お頼み申します」
誰でもいい。
癒してほしかった。
そんな感情がよぎった。
誰でも良いわけなど無いと言うのに。月梅以外、自分を癒せる者など居ないのに。
――いつかまた、会いたい。
彼の言葉をふと思い出した。
待つことを選べば、月梅の君は自分の元に再び現れるだろうか。そうして、自分を見てくれるだろうか。
いつか、などと知りもしない状況の中で、白雪は浅葱と契約を結んだ。彼女の体に刻まれた文字は、『空』を意味する『キャ』であった。
彼女が落とされた深淵は、人間からの罰でもなく、ましては天猫からの罰でもなく、雪華族の長が直接下したものだった。
彼らには族ごとに定められた掟がある。
雪華の場合は、人間を介さねば種を残せないという理由から、必要以上の命を奪ってはならないと言い伝えられていた。
もし破れば、永遠をもって償うべし。
この深淵の地で。
「なぜ、『門番』であったのですか?」
声がした。
知らない響きだった。
「――誰か?」
白雪はいつものように、一人きりで門を守っていた。そんな背後に、声が掛かったのだ。
しかも、人間界側からである。
深淵の地は、浅葱の配慮もあり鳥居が置かれた。それを潜れば幻妖界、または人間界へと行くことができる。
ただし、白雪が許さなければそれは当然できない。そう言ったルールが永く保たれているのだ。
「……そなた、ヒトか? 何故ここまでたどり着けた」
「…………」
白雪は自分の手にする衵扇を閉じたままで、現れた存在に突きつけながらそう言った。
少年――青年の姿か。暗がりから数歩、白雪に向かって進んでくるその姿に、白雪が瞠目したのは数秒後の事だ。
「何者だ」
「それを『私』に問うのですか。白雪」
「!」
その言葉運びには、憶えがあった。
声質そのものには懐かしさはない。だがそれでも、変わらぬものがある。しっかりとした響きと、名を呼ぶときの微かな躊躇い。
白雪がそれを、間違えるはずもない。
「……
少しの間を置いて彼女がそう言えば、相手の青年は嬉しそうに微笑んだ。
「やっと……あなたに釣り合える体に生まれました。ここまでくるのに、何度も何度も躓きましたよ」
「……なぜ、その姿に」
――
白雪は、目の前の青年の姿に動揺していた。ありえないからだ。
雪華族は、一生のうちに同族の姿をまず見る事が無い。一代に一人、そのものが子を成し成長を遂げれば、親となった者は子に全てを託して生涯を終える。
そんな特殊な形で歴史を繋いでいる関係上、周囲からは『雪華は滅んでいる』と言われるほどなのだ。
「時が少しだけ流れを変えた……とでも言えばいいでしょうか? だから私……いや、おれも、こうして存在している。詳しくは知らないけれど……あなたの知らないところで、雪華が縁を繋げたんだと思うよ」
かつての月梅は、一歩また一歩と白雪に近づきつつ、そう言った。途中で口調が変わったのは、今の彼としてのものなのだろうと、白雪は感じている。
喜ばしい再会であるはずなのに、何故か白雪の心は震えなかった。
「それ以上、近づいてはならぬ」
白雪が再び、衵扇を青年の前に突きつけながらそう言った。
青年は目の前に突きつけられた形となるその扇を、人差し指を添えながら、ゆっくりと下におろした。
「……どうやら、おれを警戒しているね」
「やめよ」
「何故なんですか、白雪。私はこんなにもあなたを探していたと言うのに」
「月梅を語るな」
白雪の言葉は、震えていた。
悲しいのか、怒りなのかは彼女自身にも解らなかった。
愛しいもの。
それが何度も転生を繰り返し、雪華となってここまでやってきた。
『それだけ』であれば、どんなに幸せな事であったか。
「あなたはいつになっても清らかだね。純粋におれを待って、おれのためだけにその体を綺麗なままでいてくれた」
「……触るな」
「白雪」
白雪はその場から動くことが出来なかった。
金縛りにでもあったかと思うほど、身動きが出来なかった。
動揺と、頭で鳴り響く警告と、愛しさと。
綯交ぜになったそれらを整理しきれずに、気づけば彼女は青年の腕の中に納まってしまったのだ。
「……大丈夫。あなたにとってはおれは害では無いよ」
青年の声は、白雪の耳元に優しく染み込むようであった。
――あの頃は、手を握り合うしか出来なかった。
その僅かな温もりを、忘れた事など一度も無い。気配も、温かさも、紛れもなく彼のものだ。
「いつもは気丈なあなたが、こんなに迷って答えを出せないなんてね。おれの存在が、そんなに信じられない?」
「……試すような真似をするな。離れよ」
「じゃあ、嫌だって、跳ねのけて? お前など知らぬっておれに言ってよ」
まるで甘言のようだ、と白雪は思った。実際、己の体はその甘言の響きですでに動くことが出来ない。
指先から髪の先まで、この男は紛れもなく『月梅』であると認めてしまっているのだ。
「妾に会う目的で、この場に現れたわけではなかろう……」
「名目上は、別の目的だけどね。でも、おれ自身はあなたを手に入れる為だけに此処に来たんだよ」
「……ならば妾も、成すべきことをしなければならぬ」
白雪はその場で一度瞼を伏せ、深呼吸をした。
その後、彼女は腕を上げて青年を己から引きはがし、僅かに距離を取った。
「そなたは『敵』だろう」
「そうだよ」
「排除させてもらうぞ」
「……出来るかな?」
青年は余裕の態度を崩さなかった。そして、再び白雪の手を取り、その手に握りしめられていた扇を地へと落とさせ、また自分へと抱き寄せる。
「白雪。おれはあなたを手に入れるためなら、何でもするよ。だから早く、おれに落ちてね?」
「なにを……っ!」
挑発とも取れそうな言葉だった。
そして白雪は言い返そうとしたが、それ以上を言う事が出来なかった。
青年の唇が迫り、あっという間に彼女の唇を塞いでしまったからだ。
(――なぜ、抵抗できぬ)
心でそう言っても、体は受け入れていた。
欲しいと願ったものだった。
だから彼女は、青年の与えるものを拒絶できなかった。
温もりも、囁きも、何もかも。
「――ごめんね、白雪。名目上はあなたの門番としての役目を削ぐことなんだ」
「!」
僅かに唇を離された。その時に紡がれた青年の言葉は、信じられないようなそれであった。
そして彼女は青年に抱き込まれたまま、袴をほどかれ袿を地に落とし、露わとなった肌の一部分を削られて、意識を失った。
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