24.月梅の君(一)
白雪の守るべき空間は、先の見えない深淵と同様であった。
人間界と、妖魔が住まう幻妖界を繋ぐ門――鳥居の形をそれを取り締まるのが彼女の主なる役目だ。
人間、妖魔ともに、互いの界へと自由に行き来出来ないように。
そもそも、なぜ白雪一人きりでこの役を担わなくてはならないのか。
――遠い昔の彼女の些細な失敗が、この結果をもたらした。
自分の命が続く限り、門番であれと。
居を持たず、獣の姿も取らず、ともに暮らす家族すら伴わない。
それゆえに一族は人間界に紛れて、細々と暮らしていた。
種を残すための一時の伴侶を得る為に。
一般的に知られる『雪女』とは、雪の地で美女が男をたぶらかし、その後は精を吸い尽くして殺してしまうという妖怪だ。
そこに愛などと言う感情は無いはずだった。
男を愛してはいけませんよ。
白雪の母も、ずっとそう言い続けていた。だが、その母はいつもどこか寂しそうであった。
母と子。
それのみで生きる雪女たち。時折に男子が生まれるようになったので、いつの間にか『雪華族』という通り名で呼ばれるようになっていった。
気の遠くなるほどの昔の話だ。
「……それではあなたは、雪女なのですね」
少年がそう言った。
白雪が母の元から独り立ちして数年経った頃、何とはなしに訪れた京の都での出来事だった。
「名をお聞きしても?」
「……名乗ってどうなると言うのです」
「それは、私があなたを呼びたいからです」
その少年は白雪を恐れることも無く、濁りの無い笑顔でそう告げてきた。
貴族の若君であるはずのその彼は、
病弱であるのも手伝い、都のはずれにある縁の寺に預けられているという。
「いずれ私は、落飾されられるそうです。……この体では、僧にすらなれぬでしょうが」
そう語る少年は、淋しく笑っていた。
自分の立場とこれからを悟り、すでに享受しているのだと白雪は感じていた。
父君に認められず母君は亡くなり、こんな古い寺に押し込まれ……ろくな付き人もおらず、薬さえ粗末なものしか与えられずにいる少年を哀れだと思った。
年の頃で言えば、十二ほどかと見受けた。
利発そうな子供であった。ただやはり病が重いのか、床から抜けられる日などは殆ど無く、それがより一層の哀れさを生み出している。
「……
「良いお名前ですね」
出会ったのはただの偶然に過ぎなかった。
階から月を見上げている、若い魂を見つけた。微弱な糧であったが、食いつなぐには悪くない。
最初の印象は、それだけであった。
恐れるべき存在に、少年はにこやかに「良い夜ですね」と手を差し出してきたのだ。
「若君のお名前は?」
「お好きなように呼んで下さい。実名のほうは、明かせませんので」
「…………」
自分を捨てたも同然の家のことを、いつでも気にかける少年であった。
名を明かせないとなると、よほどの名家の落胤なのだろう。
白雪はいつの間にか、この少年の傍にいるようになった。
いつかはその魂を頂くため。
そう、思っていた。
だが、素直にそれが出来ずにそれから三月ほど、少年の世話をした。
自身の成長の過程で身に着けていた薬を作り与えたり、元々備わっている治癒能力で彼の体を癒してみたが、少年はすでに手遅れの状態だった。
「
白雪は少年の事をそう呼ぶようになっていた。
月夜に出会った事と、少年が使用していた香が梅花香であったことにちなんでいた。
少年はその響きを、とても気に入っているようであった。
出会った頃は、真冬の月夜。そこから雪解けを共に眺め、梅と桃と桜が咲くのを喜び、藤が見事に咲いたのを感じた頃には、少年は完全に起き上がれなくなっていた。
「白雪……もし、もう少しだけ生きることが出来たら……もう少しだけ精進して、もう少しだけ……」
「喋ってはなりませぬ」
彼の命の灯火は、もうほとんど残ってはいない状態だ。それでも彼は、必死に白雪へと言葉を絞り出す。
そんな彼の震える手を、白雪はしっかりと両手で握りしめていた。
「白雪」
「……はい」
「白雪……私は、あなたが好きです……。きっと初めて出会ったあの時から、……好きだったと、思います」
「……仰ってはなりません」
「白雪……」
少年は何度も何度も白雪の名を呼んでいた。
意識も薄くうわ言のように、それでも何度も言葉に乗せては、苦しそうに息を吐く。
「……あなたの特別に、なりたかった。……だからここまで、生きてこられた。……でも、こんな弱々しい体ではなく、誇れるような家柄と、誇れる両親……誇れる身分……あなたを妻に、迎えられるだけの力量を……」
「月梅の君。……もう、もう……良い。妾はそなたのものです」
必死に言葉を繋ぐ少年に、心を打たれた。
気づけば自身の瞳から涙が溢れ、とめどなく流れていく。頬を伝い、顎から落ちる雫は、床にたどり着く前には雪の結晶となっていた。
「きれいな、雪だ……」
少年はその涙がもたらした形を、幸せそうに見ていた。
そして、自らも涙をこぼしながら、白雪に向かって微笑む。
「いつかまた……会いたい。その時こそ、あなたを……私の妻にさせてください。……この体は、あなたに差し上げます。……どうか、僅かでも……、あなたの糧に……」
――愛しています。
「月梅の君……!」
少年は静かにそう告げて、息を引き取った。
ただ一人きりで彼を看取った雪女は、その命の精を吸い取ることが出来なかった。
――愛は禁忌。
そう言われ続けてきた彼女は、静かにその場で泣き続けた。
それから、どれくらいの時間が経っただろう。
涙も枯れ果てたころ、白雪は少年の亡骸を抱きながら、怨恨の気を纏っていた。
月梅を放っておいた者。子を子と認めず放置した父君や家の者。少年に関わる者たちすべて。
心の底から、憎いと思った。
「愚かな存在め」
彼女はそう言いながら、何人かの人の命を食らっていった。すべて、少年の血縁者であった。
屋敷を氷で包み込み、苦しがる人々を氷漬けにし、一人ずつ鬼のように食らっていったのだ。
そうして。
我に返った時には、深淵の底へと落とされていた。
誰がそうしたのか、雪華族の罰なのか。それを判断することも出来ず、闇の中で一人きり、永い時を過ごした。
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