22.欠けた雪

 比べようもない空気が、一瞬にしてその場を満たした。

 だが、それを知るもの以外は、痛みとして伝わっただろう。

 ただひたすらの、妖気だった。

 それゆえに、妖魔であれば力を得られるような心地よいものになっていたはずだ。

 しかし、現実はそうはいかなかった。


『ギャアアアァァァ……!』

『グギャ、アアアァァッ、……アツイ、熱イィ!』

『イタイ、イタイ! 苦シイ!』


 僅かに離れた場所から、そんな叫び声が上がった。

 最初に姿を見せていた小鬼の大群のあたりからだ。

 まさに断末魔の叫びだ、と朔羅さくらは思った。

 そんな彼の視線の先には、誰よりも知っている存在が居た。

 未だ上空に位置していたが、間違えるはずもない。


賽貴さいきさん……」


 彼の名をもう一度呼んだ。

 本人に呼びかけるためではなく、思わず言葉にしなくては感情が整理できなかったからだ。

 現在の賽貴は、人間界には現れてはならない存在だった。

 そうであるべきと決めたのが、彼の一族であり長たるものの姿だからだ。


『王帝ダ』

『王帝、王帝……!』


 人語を解せるそこそこに知能のある存在達が、上を見上げて口々にそう言っていた。

 

「…………」


 視線と言葉を向けられた本人である賽貴の表情は、厳しいものだった。

 彼は背に黒い翼を出したままだった。

 学園全体を把握するには、上空であるほうが有利だと判断したのだろう。


「――何を、している」


 賽貴は静かに口を開いた。

 その言葉に、誰もが呆けた。

 意図を読み取ることが出来なかったのだ。

 ――彼の怒り・・すらも。


「誰の許しを得て人間界こちらへと出た。誰がそれを与えたと言うのだ」

「……っ」


 言葉と同時に放たれる気に、朔羅さえもが意識を持っていかれるような気がして、表情を歪めた。

 静かな怒りは言葉が波動となりそして、この場に居る妖魔たちを次々と消滅させたのだ。

 小鬼、それに相当するもの――そして歪なるものたちも。

 一片の赦しすらも与えて貰えず、彼らは『ジュッ』と音を立てて、消えて行った。

 再生や命の流転さえもその希望すら抱けずに、彼らは無残にも消えたのだ。

 結果として、学園での危機は取り払われたと言える。

 その数秒後、賽貴は朔羅の立つ傍へと降りてきた。彼の傍には鴉も一緒だったので、やはり本人なのだろうと朔羅は思いながら、一歩を踏み出す。


「……一応、聞くけど」

「ああ」

「どうして、ここに?」

「……悪い知らせがある」


 朔羅の問いに、賽貴は僅かに表情を曇らせながらそう言ってきた。

 よほどのことではない限り、彼は動いてはならない存在だ。

 それでも今、此処にいて、伝えることがあるという。


「聞くよ」

「――白雪しらゆきが、やられた」

「……、……」


 その言葉に、朔羅は大した驚きを見せなかった。

 ――浅葱が喚んだ時点で、姿を見せなかった白雪。彼女が応じないこと自体あり得ないと思っていただけに、何かが起こったのだろうと予測はしていた。


「俺がここに来られたのは、門のほうに異常があったからだ。おそらくこちらの時間で数十分ほど前か……門で彼女の気配がしなくなった」

「賽貴さんがそう言うんだから、全然予測しなかったことが、彼女の身に起こったんだね」

「……いまだに信じがたい事だが、雪華族ゆきはなぞくの青年が襲ったらしい」

「まさか」


 そこまでの会話を続けて、朔羅はようやく表情を崩した。

 白雪を襲ったという『犯人像』が、予想外だったからだ。


「……とりあえず、命は無事だ。こちらで預かっている」

「そう……」

「浅葱さまは……倒れられたのか」

「!」


 賽貴が視線を移して、状況を見た。

 朔羅の肩越しの奥では、浅葱が廊下の壁にもたれかかったままで、気を失っている。

 そして朔羅は、賽貴のその言葉に肩を震わせて、視線を逸らした。


「賽貴さん、あの……」

「お前を責める気などない。……あの方が自らこうして動き、結果怪我を負われてしまったが……それでも、俺が傍にいた頃よりは良い傾向だろう」

「…………」


 賽貴の言葉並びは、少しだけ距離を感じるものであった。

 わざとそう言ってきたのだろうと、朔羅は思った。


「……少し、見ても良いか」

「うん。治療は紅子べにこちゃんにしてもらったんだけどね……」

「そうだな。実は、兄上から少々事情は聞いていた」


 賽貴は朔羅に確認を取ってから、静かに浅葱へと歩みを寄せた。

 紅子はその隣に、小さくなって俯いている。


「……貴女がお救いくださったんですね」

「っ、あ、あの、いえ……私は、傷口を塞いだだけで」

「充分です。ありがとうございます」


 賽貴は紅子にそう言いながら、腰を下ろした。

 かつての主は、今は憔悴しきった表情で瞳を伏せている。賀茂浅葱も極限に追い込まれた時ほど無茶ばかりをしていたが、こんなところまで引き継ぐとは――と内心で思い、苦笑した。

 そして彼は、浅葱の制服のポケットに何かを差し込んで、りんを呼びつける。

 琳は当たり前のように賽貴の傍に寄り、膝を折り、彼の指示を聞き入れていた。

 あるべき光景だ、とそう思ってしまったのは朔羅だ。


「……あ、あの……貴方は、『諷貴ふうき』……?」

「いえ。……その、弟です」


 紅子が恐る恐る、問いかけてきた。

 そんな彼女を見ながら、賽貴は優しく答えて見せた。

 紅子の兄は静柯しずかだ。そしてその静柯の式神は諷貴だ。数奇な繋がりもあるものだと思いながら、賽貴は今の現状を噛みしめるようにして把握していた。


「……賽貴さん、すぐに戻らないといけないの?」

「本来ならそうすべきだが……一応、細工もしてある。今晩だけならこちらで過ごせるかと思うが」

「じゃあ、後で少し話をさせて」

「お前らしくも無いな。……だが、わかった。夜にでも、お互い時間を作ろう」


 朔羅からは余裕が消えていた。

 賽貴にもそれは伝わり、再び苦笑する。


「俺は琳と手分けして、学園の結界の強化を施してくる」

「あぁ……うん」


 彼はそう告げた後、琳と共にその場を一瞬で離れていった。

 浅葱を移動させるかと思っていた朔羅には、若干肩透かしのような気分であった。

 だが、それが――。


「……賽貴さんなりの、気遣い……なのかな」


 朔羅はそう思い当たり、小さく笑った。

 そして静かに浅葱を抱き上げてから、その場に居続ける紅子へと声をかける。


「今回は助けてくれてありがとう。……後日改めて、ご挨拶に伺うよ」

「……あ、い、いえ……お構いなく……」

「君は、浅葱さんを嫌っていると思っていたよ」

「……、否定はしません」


 ついでにとでも思ったのか、朔羅は直球の言葉を紅子に向けた。

 受け止めた紅子は一瞬だけ肩を震わせたが、ゆっくりと顔を上げてそう答えて見せた。


(……なるほど。一応、色々考える子か)


「今後、僕たちは近しい間柄になるかもしれない。そういう意味合いでも、お伺いさせてもらうよ」

「……わかりました」

らんをよろしくね」

「はい……」


 朔羅は紅子にそう言い残して、踵を返した。

 学園のほうは賽貴たちに任せてしまってもいいだろうと判断して、彼は浅葱を抱きかかえてその場を離れたのだ。


「……白雪がやられるなんてね」


 状況を整理したいと、純粋に思った。

 何故突然、学園の敷地内にこれほどの妖魔が湧いたのか。そして大半が歪の形をしていた。

 浅葱も気づいていただろうが、あれは個の妖魔が一度は死に、そして別の妖魔と組み合わされて復活した姿だ。

 キメラ、とでも言えばいいのだろか。

 妖魔――あやかしには、様々な種類が存在する。長い年月の間に、朔羅の知りえない者たちも生まれているだろう。

 そう言った中に、少しは頭の働く種もいるのかもしれない。


「ふ……ヒトからしてみれば、まさに外道の所業ってやつだな……」


 そんな独り言を漏らしながら、朔羅は自身を――妖魔という存在そのものを哂う。

 いつになっても、愚かであることには変わらない。無駄に生きれる分、その性質には反吐が出るほどの悪意を抱かずにいられない。


「……、朔羅……?」

「気づいたんだね。貧血起こしてるから、動かないでね」

「……みんなは……?」

「大丈夫だよ。学園に現れた妖魔も、もういないから」


 朔羅の腕の中で、浅葱が意識を浮上させた。

 移動しているという事は分かったらしいが、やはりぼんやりとしている事には変わりない。

 それだけの会話を交わした後、彼は再び瞼を閉じて、朔羅の肩口に頭を寄せた。


「このまま家に帰るよ」

「ん……」


 小さな浅葱の返事を、朔羅はきちんと耳にしてから彼の体を抱き直す。

 浅葱と言う存在が居るからこそ、自分が自分でいられる。妖魔としてではない、個の確立された立場を明確に出来ると感じている。考えようによっては、これも逃げなのかもしれない。

 そんな事を思いながら、朔羅は軽いため息を吐いて、土御門家へと戻っていった。


「……なるほどねぇ。さて……いったい誰が迎えに行くのかな?」


 学園の制服を着た一人の少年と思わしき人物が、一つの高木の枝に腰かけながらそう言った。

 誰もその影には気づけず、独り言のような言葉も空気に溶けて消えて行く。

 雪のような青白い髪と、氷のような冷たさを湛える青い瞳をしている存在であった。

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