22.一縷

 それは、一瞬の出来事であり、油断であった。

 誰もがその場の『緊張』を解いてしまった。

 ――完全なる手抜かりであった。


「……っ、爆ぜよ!」


 自分の足元に、血が滴っている。それをはっきりと自覚する前に、浅葱は声を絞り出して退魔符を脇腹へと持って行った。

 符が触れたのは、妖魔の『腕』だ。浅葱の言葉と共に弾けたそれは、杭の形を崩して、バラバラと床に飛び散る。


『ギャアアアアァァ……!』


 その個体から、初めての声を聞いた。


「っ、はぁ……っ」


 浅葱はそこで、一旦は危機を脱した。

 僅かに浮いていた体が地に戻り、バランスを取ろうと踏ん張るが、自分の流した血が靴底に滑り態勢がよろめく。


「無茶するね」


 そんな浅葱を支えたのは、朔羅さくらだった。

 彼の言葉は冷静な響きだったが、行動は裏腹だ。

 右腕で浅葱を抱え込んだかと思えば、空いていた左手は鋼糸を操り、目の前で未だに蠢いている妖魔を取り囲んだ。


『ギ』


 妖魔は、そんな一声しか上げられずに、終わりを迎えた。

 朔羅の糸が、一瞬でそれを形の無いものへと引き裂いてしまったのだ。慈悲の一欠けらさえ感じない早さだった。


「朔、羅……」


 浅葱は顔を上げて、朔羅の表情を見た。

 彼の目は、やはり金色に変わっていたのだ。

 別の意味での緊迫が、その場に訪れた。


「朔羅どの」

「――近づくな」


 りんが控えめに声をかけてきた。

 だがそれは、当然のようにして拒絶される。


「お気持ちは分かります。ですが、浅葱どのの傷を……」

「必要ない。僕が治せる」


 朔羅は異常であった。

 その状態の彼を、ここにいる者たちは過去に何度か目にしてきている。

 だがその度に、異常である朔羅を宥められたのは、賽貴さいき以外にはいなかった。

 ――朔羅の瞳の色が変わる時には、用心しなくてはならない。下手をすれば味方ですらも命が危うくなる。縁あるものであれば、知り尽くしている事だ。

 近年では昔ほどの異常さは見られなかった。彼自身でも僅かにコントロールが出来るようになってきたと言っていたし、皆もそうだと思っていたのだ。


「……、朔羅」


 浅葱が朔羅に手を伸ばした。

 そしてその指先が触れると、朔羅は大きく肩を震わせる。

 僅かに離れた位置で留まっていた琳と、そして藍は、緊張した面持ちで彼らを見ていた。


「僕は……大丈夫だから」

「強がらなくてもいいよ。こんなに血だらけになって、何が大丈夫なの」

「うん、だから……早く、治してほしいんだよ……」

「っ!」


 力なく笑う腕の中の主に、朔羅は瞳を揺らがせた。

 そして彼は、浅葱の脇腹へと視線をずらして、まずは止血をした。

 それだけの行動が、他の者たちへの安堵へと繋がった。

 朔羅の目の色が、水色へと戻っていたからだ。

 数秒後、コツ、と靴音が響いた。


「……あの、いい、ですか?」

「え?」


 意外な声が、恐る恐る飛んできた。

 朔羅が顔をそちらへと向けると、紅子べにこの姿がそこにはあったのだ。


「紅子、どうして戻ってきたの?」


 らんが慌てて彼女の肩へと飛び移り、そう問いかける。

 紅子は青ざめた表情をしていた。

 だが、怯えつつも視線はしっかりとしていて、再び口を開く。


「あ、あの、私、治癒術だけは得意、なんです。……だから」


 意外過ぎる申し出であった。

 だがそれは、今の現状では有難い事であった。なぜなら、この場には止血は出来てもその傷を治療できる者が居なかったからだ。

 朔羅は治せると言ったが、完全ではなかったのだ。

 それが完璧に出来るのは、ここには居ない白雪のみだ。


「……頼むよ」

「は、はい、では……すみません、失礼します」


 紅子は一歩、前へと進み出た。

 朔羅は静かにその場で腰を下ろして、自分の膝の上に浅葱を横たえた。

 浅葱は、僅かに意識を失っていたようだ。


「……こ、徳井、さん……?」

「喋らないでください」


 虚ろな視線で浅葱がそう言ってきた。

 紅子は相変わらず青ざめつつも、素早く浅葱の傍で膝を折り、治癒符を数枚取り出し、言霊を告げる。

 浅葱の受けた傷は、深かった。

 狙われた部分は心臓か腹だったのだろう。浅葱自身が寸でで避けたので、直撃は免れた。

 だが、掠めた脇腹は肉をえぐられ、見るも無残だ。


「……っ、……」

「少し、耐えてください……」


 修復されていく過程の、皮膚の引きつりに鈍い痛みがあった。

 浅葱はそれを無意識に嫌がり、腕を上げる。

 それを静かに制したのは、朔羅だった。


「…………」


 琳はその光景を、離れたままで見ていた。

 だが、数秒後に状況が一変した。

 いち早く気づいたのが琳で、彼は再び結界石を掌の上で構築して、浅葱の周囲に張り巡らせた。


「……朔羅どの。まだ終わりではないようです」

「!」


 琳の素早い行動は、実に有効であった。

 朔羅にそんな言葉を掛けた直後、周囲が一瞬だけ静寂に落ち、また光景が乱れた。

 どこから湧いたのか――それとも先ほど朔羅が滅した妖魔と同じように空間移動させられた・・・・・のか、歪の妖魔が五体ほど姿を見せたのだ。


「……っ、なに、この状況……」

「琳っ! あっちのほうにもまた湧いてるみたいだよ!」


 藍は小鳥と言う体を利用し宙を舞い、遠くを見ていた。彼女の視線の先には、正面玄関がある。

 ――最初の出現ポイントには、無かった場所だ。


「まずい、動けない生徒はエントランスに集まってるんじゃないの?」


 一気に悪化した状況に、朔羅も余裕を乱して立ち上がる。浅葱の事は、完全に紅子に任せたのだ。

 琳も同様に、策を講じつつも手に余る事を実感していた。


「二人とも、伏せていろ!」


 そんな声が、遠くから聞こえた。

 数秒後には、ジャラ、と何かが連なる音がして、鋭い刃物が円を描いて飛んでくる。

 ――鎖鎌であった。

 それが一体の妖魔の頭を刈り取り、次の妖魔の体を引き裂く。ビン、と鎖が伸び切ったところで、それを伝ってきたものは炎だ。なんとも鮮やかな攻撃であった。

 紅炎こうえんが校庭から戻ってきたのだ。

 彼女の攻撃で、目の前にいた三体が一瞬にして炎に包まれ地に沈んだ。

 風を切る音がその後に続き、残りの二体を仕留めたのは、颯悦だ。

 その姿を見た藍は、慌てて紅子の肩口へと降り立ち、なるべく視界には入らぬようにと隠れていた。


「……おかしな状況になっているな」

「出現ポイントのほうは、復活したりしなかったの?」

「ああ、そちらは駐車場を含めて、封じた後の動きは無かった。……正面にも出たのか。私が行こう」


 鎖を数回片手で巻き取った紅炎は、麗しの肢体もしなやかに、朔羅たちにそう言い残して駆けて行った。


「浅葱さまは……」

「……ちょっと、僕がミスしてね。今、後ろで紅子ちゃんが治療してくれてる」

「…………」


 颯悦が、紅子のほうへと視線をやった。まずは主の様子を伺い、それから姿を隠した『彼女』を気配で確認する。

 ――パン!

 また、弾ける音がした。


「……っ、ちょっと」

「まだ出るか……!」


 結界石が、面白いくらい簡単に弾け飛んでいく。

 朔羅は鋼糸を手に、周囲を見渡した。

 颯悦もその隣で、自分の刀の柄を握り直す。


「――藍、浅葱さまと紅子どのを頼むぞ」

「っ、颯、悦……」

「出来るだろう?」

「う、うん……」

「終えたら、話がしたい」


 颯悦は静かにそう告げてから、地を蹴って姿を消した。紅炎の応援に行くようだ。

 一方的に藍に言葉を残していったが、彼女はそれをどう受け止めたのだろうか。


「……良くないな」

「すみません、僕の結界石だけでは……」

「いや、琳の責任じゃないよ……というより、僕らだけじゃ……」


 朔羅が表情を歪ませた。状況が改善されたかと思うと、また暗転する。

 それを二度も繰り返されると、明らかに疑心が生まれる。

 ここにいない誰か……何かが、歪の妖魔たちを操っていると、確信してしまうのだ。

 だがそれでも、何とかしなくてはならない。

 浅葱は今はまだ立てないだろう。

 意識も失っては取り戻しの状態を繰り返しているところだ。


(どうする……どうする……?)


 朔羅が内心でそう呟いた。

 おそらく、琳も同様にしてそう思っただろう。

 遠くで聞こえる悲鳴と騒音。それがあちこちで鳴りやまない。

 おそらく、学園内のあらゆる箇所で妖魔が出没しているのだろう。

 ――主が命を下せる状態にない以上、朔羅たちに出来ることは限られてくる。

 まさに、万策尽きたと言ったところか。


 その、数秒後の事だった。


「……え?」


 朔羅が琳が、そして藍、紅炎や颯悦でさえも、その場で瞠目した。

 上空で『何か』が蠢いた。

 唐突過ぎて、誰もが最初はそれが何であるか――否、『誰』であるのか理解できなかった。

 一羽の鴉が姿を見せて、宙で数回羽ばたく。

 それと同時に、強い妖力を纏った存在が現われたのだ。


「――な……!」


 朔羅はそれを見上げて、言葉を失う。

 ビリビリと肌を伝うモノ。

 誰よりもそれを知っている。間違えるはずもない。


賽貴さいきさん……!」


 姿を見せたのは、賽貴であった。

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