20.恐怖
体が震えていた。
何故なのかが解らずに、
(なぜ。なぜ、震えているの……早く、外に出なくちゃ……)
自分にそう言い聞かせるも、彼女の一歩はなかなか前には進まなかった。
「――幸徳井、大丈夫か?」
「っ!」
声を掛けられた。
教師の声であった。
紅子はその言葉に羞恥を憶えて、顔を真っ赤に染める。
「幸徳……」
「大丈夫です! 私は、いつも通りです!」
教師が再び声を掛けようとしてきた。
それを振り払うようにして、紅子は声を荒げる。
エントランスに残っていた生徒たちが、当然彼女に注目した。
両手で握りこぶしを作り、腕を張る。それから前方をキッと見つめて、紅子はようやく一歩を踏み出した。
東側へと向かうためには、エントラスから続く横手の廊下を抜けていかなくてはならない。
数人が紅子の横を通り過ぎ、バタバタと駆けていく。
「……っ、……」
紅子はそれを見ながら、表情を歪めていた。
(……紅子、大丈夫かな)
そう、内心で呟いたのは
紅子の唯一の式神として、今は符の中にいる。
藍は兄の
静柯の実妹であり、生真面目で融通の利かない、颯悦みたいな人柄だと藍は感じていた。
静柯が実行した故であったが、藍が勝手に紅子の式神となった時には、拒絶されるかもしれないという心配もあった。
だが、彼女は意外にもあっさりと、藍に頭を下げて「よろしくお願いします」と伝えてきたのだ。
その瞳は、とても戸惑っているように見えた。
まだ十五歳の少女だ。
彼女の母は家系や伝統に強くこだわりすぎて、紅子には親というよりは教師のような物言いばかりをしていた。
遠い昔、
反対に紅子の母親からは、愛情は一切感じることが出来なかったのだ。
――怖い。
声が聞こえてきた。
心の声であった。
――どうしよう、とても怖い。でも、行かなくちゃ。だって私は、『幸徳井』なんだもの。
(この子……)
紅子は、自分の心の声が符を通して藍に伝わってしまっていることに、気づけないでいた。
だから余計に、藍は彼女を哀れんだ。
(もどかしいな……アタシの実体がまだあったなら、もう少し助けになったのに)
藍は静かにそう考えていた。
自分は今、小鳥でしかない。元の姿である黒猫になることも、
と、そこまで思って藍は我に返った。
――罪を犯した自分。そして罰を欲した自分が、生を願ってどうするのか。
(……そうか、アタシたち……根本的に間違ってたんだ……)
内心での独白を続けつつ、彼女は自嘲した。
確かに自分の選んだものは、手を出してはいけなかった。それでも、罰を望んでいいものではないのだと。
賀茂浅葱が、あの時、あの瞬間ですらも、自分に謝っていた事。叱ることも無く、悲しんでいた事。
それを思えば、自分たちにだけ罰を与えられ、そして死を願うなど、愚かな事なのだ。
「紅子」
「……っ!」
藍は、紅子の了承も得ずに符から出てきた。
そして彼女の肩口にちょこんと乗って、語り掛ける。
「勝手に出てきてごめん。怖いと思うなら、無理はしなくていいんだよ」
「……藍、さん。でも……」
「紅子はまだ実戦経験が浅いでしょ? だから、現場に行っても、後ろからこっそり現状を伺うだけでもいいの。あのね、土御門浅葱だって、最近までは前線には出られなかったんだよ」
「――あの臆病者と私を、一緒にしないで頂けますか」
藍の言葉に、紅子は思わずの本音をぶつけてしまった。
直後、さすがにまずいと思ったのか、進めていた足を止めて、廊下の壁へと寄り「ごめんなさい」と告げる。
「……謝らなくていいんだよ。紅子はちゃんとプライドを持っていて偉いね」
「いいえ、私は……偉そうな仮面をかぶってるだけのお子様です。ちゃんと……理解しています」
「…………」
――ビーッ!
再びの警告音が鳴った。
東側の事態は、思っている以上に深刻なようだ。
「い、行かなくちゃ……」
「紅子、無理と無茶は判断を鈍らせるだけだよ」
「解ってます……」
紅子は全身を震わせていた。
見えない状況と警告音がやはり、恐怖となっているようだ。
それでも彼女は、必死に呼吸を整えて、壁に手をついて自分を落ち着かせようとしている。
(……気持ちは分かるんだけど、このまま行かせるのはちょっと……危険だよね。何か出来ないかな……)
「――藍」
廊下の先で、声がした。
藍と紅子が同時にそちらを見ると、視線の先には黒猫の姿があった。
「琳、どうしてここに?」
「……浅葱どのに言われて、様子を伺いに来たんです」
その言葉に、紅子は僅かに表情を歪めた。そして何かの言葉を飲み込むようにして、喉を揺らす。
「あっちは、どういう状況なの?」
「大きな強襲です。すでに怪我を負った生徒も何人か出ています」
「……ッ」
藍と琳の会話を聞いて、紅子が素直に震えた。
双子はその様子を見ながら、互いに視線を投げ合って、こくりと頷いた。
「紅子、進める?」
「はい……。行きます」
藍が紅子に問いかけた。
すると紅子は息を呑みこんでから、そう答えて見せる。
そして彼女は壁を離れて再び歩みだした。
琳が先導する形で、しばらく進む。
――妙に静かな廊下だった。
先ほどまで鳴っていた警告音もいつの間にか止み、他生徒の姿も無い。
寂々たるそれが、ひやりと冷たいものを感じさせた。
「……紅子さん、止まって」
「え……」
先を歩いていた黒猫――琳が、紅子を止めた。
静まりすぎている廊下に、大きな違和感が生まれた為だ。
「琳、これは……」
「まずいですね、こちらにも一体――」
――ドンッ!
何かが弾けるような音がした。
紅子からは数メートル離れた位置だったが、廊下が壊されたのだと思った。
「紅子!」
藍がそう言いながら、紅子の制服の襟を嘴で引っ張って、後ろへと下がった。
琳は、猫から人形の姿へと変容して、そんな彼女たちを守るようにして前へと立つ。
紅子は、今起きたことを即座に理解することが出来ずに、反対側の壁に背中を付けた後、完全にすくんでしまっていた。
「紅子、大丈夫? 聞こえてる?」
「……、は、はい。大丈夫で――」
藍の声に、紅子はかろうじて返事を出来る状態ではあった。
だが、それも途中で止まってしまう。
ぬらり、とした影が眼前に現れたからだ。
「これは……」
琳が表情を歪める。
彼らの前に姿を見せたのは、大きな黒いモノであった。廊下の天井に頭をぶつけるほどの、形状としてはスライムのようなものだった。
腕が四本、いびつな方向から生え、大きな口もある。
『のっぺらぼう』のような類の妖魔なのだろうが、その割には妖気と瘴気が混ざり合い、明確さが無い。
ゆら、と非常にゆっくりとした仕草で相手は動いていた。何かを探しているようだ。
「ひ……っ」
紅子が思わず声を上げてしまう。
妖魔がその声に反応して、ゆったりとした仕草で近づいてきた。
口のみのいびつな妖怪は、小さな少女を追い立てるには非常に容易な要因となった。
「…………ッ!」
「――紅子さん、失礼」
紅子が何かを叫びそうになったところで、琳は小声でそう言いながら、左手を紅子へと向けた。
そして本人が反応するより先に、琳は紅子の口元へと手のひらを充てて、身を低くするようにと合図をする。
直後、しゃがみ込んだ頭上で、べしゃ、と何かが壁にぶつかる音がした。
妖魔が頭部らしき部分とぶつけたのだ。
「……っ、うぅ……」
「静かに、喋らないで。あれはおそらくヒトの呼吸や言葉に反応してます」
至近距離に詰めつつ、琳は紅子にそう言った。
紅子のほうは、口元を琳の手のひらによって覆われ、それでいて彼にかばわれている状況の中、混乱に陥っていた。
「紅子。大丈夫だよ。ちょっとだけアイツの気を逸らすから、琳と一緒にもう少し移動して」
「……、んんっ!」
藍はそう言いながら、紅子の肩から飛び立った。
そしてわざと羽ばたく音を大きくさせながら、妖魔の頭上へと飛んでいく。
紅子が何かを言おうとしていたが、それはやはり琳によって遮られ、彼女は琳に手を引かれて、後ろへと移動した。
「……藍なら大丈夫です。もう少しだけ歩けますか?」
紅子は、ただ頷くだけしか出来なかった。
「ほら、こっち! こっちだよ!」
藍は、言葉通りに妖魔の頭上を飛び回って、相手を振り回していた。
動きの鈍い種類で助かった、と琳は思っていた。
さすがに至近距離に詰められた時には少々焦ったが、とりあえずの回避には成功した。
「……、……っ」
目の前の紅子は、完全に混乱している。
瞳の端に涙を溜めて、それでも必死にそれを零さないようにはしていたが、限界も近いだろうと琳は悟った。
「……少しだけ手を離しますから、呼吸をしてください」
琳が再び、彼女の眼前まで口元をもっていってから、口早にそう言った。
紅子は素早く頷き、それを確認した琳が、己の左手を彼女から僅かに浮かせた。
「……は、はぁ……っ、あ、あの……」
「荒々しくしてすみません。ずっとこうしていてはあなたにも迷惑ですね。とりあえず、これを口に含んでいてください。飲み込まないように」
琳はそう言いながら、小さな飴玉のようなものを取り出して、一度紅子の視界にそれを入れた後、彼女の返事を待たずに唇へと寄せてから、口内に押し入れた。
――結界石であった。
紅子は琳の事を詳しくは知らなかった。黒猫で、土御門に仕えている式神だという程度の情報だった。
双子の妹がいて、それが藍である、ということはつい最近知った事であったのだ。
兄の静柯が従えている式神、諷貴と同じ種族であるというのは、今この瞬間に身をもって体験した。
口に入れられた結界石だ。
紅子は以前、同じことを諷貴にされたことがあった。その時の感覚と、まったく同じだったのだ。
「紅子さん、来た道をこのまま戻って、エントランスへと向かえますか?」
「……琳さん、は?」
「付き添えずにすみません。僕はここで藍と共にあれを仕留めます」
「危険です!」
「――我々は、そのための式神です。
そう言う琳の表情に、紅子は言葉を失った。一瞬、見惚れてしまったのだ。
寂しそうで、それでいてしっかりとした金色の目に、彼女は何も言えずに、琳に言われたとおりにするしか出来なかった。
「……っ……」
行きなさい、と言われてそっと背中を押される。
たったそれだけの仕草なのに、紅子は振り向くことが出来なかった。
ふらふらとしつつも、その場から駆け出す。
琳は、それを確かめてから向き直り、妖魔の元へ駆けて行った。
「……なんで、私は……っ」
――こんなにも、不出来なんだろう。
そう思うと、悔しくなった。
浅葱を臆病者だと言ってしまったが、それ以上に自分のほうが臆病で卑怯な者ではないかと。
「……っ、ふぅ……ッ」
視界が歪んだ。
紅子の瞳には、先ほどまでは止めることが出来ていた涙が、ボロボロと溢れて頬を伝っていた。
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