17.妬心と焦燥

 夕食後、少しの時間を自室で過ごしていた浅葱あさぎは、伯母に勧められて先に風呂へと入った。

 ここ数日、自分のすべきことや気にかけておかねばならない事を、必死にまとめてきた。

 夜遅くまで起きてノートを纏めていたこともあり、確かな疲れを感じていた。


 ――たまにはゆっくり疲れを流しておいで。


 そう言って送ってくれたのは、朔羅さくらだった。

 彼の言葉に甘えるかのようにして、浅葱は久しぶりに時間をかけて湯船に浸かった。良い匂いの入浴剤も手伝ってか、うっかりのぼせてしまいそうなところで、彼はようやく風呂から上がった。


「……あ、あぶなかった……」


 伯母が用意してくれていた部屋着を着こんでから、首にタオルをかけつつ、浅葱はそんな独り言を漏らして浴室を出る。

土御門家は名家だけあって、家の造りも広い。そう言った理由から、中庭が存在し浴室は離れに存在していた。

 その中庭を見渡せる廊下を静かに歩いていると、微かに話声が聞こえて、浅葱は足を止めた。


「…………」

「……、……」


 伯父や伯母の声ではない。

 ――知らない声だ。

 中庭の、小さな池の向こう側から聞こえてくるような気がした。

 浅葱は何も疑わず、廊下を逸れて中庭へと歩み出る。

 その先には、人影が二つあった。

 一人は朔羅。

 もう一人は――。


「さ、賽貴さいき……?」


 浅葱は思わずの声を漏らしていた。慌てて自分の口に手を当て、彼らからは見えない位置へと体をずらして、もう一度彼らへと視線をやる。


「……帰ったんじゃなかったの? あんまり長居されると、困るんだけど」

「そう言うなよ。俺にも立場と役割がある」

「それは、わかってるけど。いちいち僕に顔見せする必要なんてなかったでしょ」

「たまにはいいかと思ってな」


 賽貴と思わしき人影は、彼らしくない口調だと思った。

 だが、朔羅とは顔見知りなのだろう。そして、やはり彼も式神であると言う事は、間違いない。


(似てるけど……賽貴じゃない。誰、だろう……)


 浅葱は純粋に、その見知らぬ誰かに興味を抱いた。

 見れば見るほど、賽貴に似ているような気がする。唯一違うのは髪型が違うというだけだ。後ろ髪が長いウルフカット。

 そして表情が、少しだけ――。


「……む」

「なに?」

「いや……気づいてるんだろう?」

「まぁね。……っていうか、浅葱さんに不用意に近づいたりしないでよね」


 賽貴に似た男が、何かに気づいてから楽しそうに笑った。

 直後に朔羅と何らかの言葉を交わしたという事は分かったのだが、内容までは浅葱には届いていなかった。

 賽貴に似た男――諷貴・・は、本来の銀色の髪を隠し、わざと髪色を黒く見せて立っている。

 そして、浅葱が自分たちを見ている事にも、当然気づいていた。


「……しかし、お前らはいつからそんなに仲良くなった?」

「あなたには関係ない事でしょ。静柯さんに訊けと言われたなら答えるけど、それ以外なら僕からは答えないよ」

「つれない事を言うなよ。俺とお前の仲だろう」

「ちょっと、何勝手なこと言って――」

「!」


 浅葱が思わず、息を呑んだ。首にかけたままのタオルを落としてしまいそうになり、慌ててそれを掴んでから、一歩を後ずさる。

 男が、朔羅に自然に触れたのだ。

 大きな手が彼の頬に置かれて、指がゆっくりと首すじへ。そして鎖骨あたりで手のひらを止めた後、彼は朔羅を抱き寄せた。


「……っ」


 浅葱はその場にいられなくなり、そのまま廊下へと戻り、自室へと足を向けた。


「……諷貴ふうきさん、なんの冗談?」


 朔羅は一呼吸してから、彼から距離を取った。

 その表情は、とても嫌そうだった。

 諷貴は少し大げさに両手を上げて見せてから、浅く笑うのみだ。


「浅葱さんに、あらぬ誤解をされたじゃないか」

「俺は何もしちゃいない。お前に触れたのは、『役割』を果たす為だ。……そんなに心配なら、追いかけて甘い言葉をかけてやれ。ついでに抱いてやればいいだろう」

「……あのねぇ。勝手な事ばっかり言って、こっちの状況を?き乱さないでくれる? あんまりしつこいと、幸徳井家に苦情出すよ」

「くく……いや、悪いな。そういうのを見るのも、俺的には楽しくてな」


 朔羅は素直に呆れ顔になった。

 諷貴にはいつでもこうやって、からかわれる。昔に比べれば彼も柔軟になった。だがその分、色んなことを楽しむ性分にも拍車が掛かるようになった。

 それが、厄介以外の何物でもなかった。

 ちなみに、浅葱の気配はすでに感じられない。この光景を覗き見ていたことも、誤解をして去っていったことも朔羅にはわかっている。


「……はぁ。言っておくけど、僕と浅葱さんはまだそんな仲じゃないよ」

「そうだろうな。なんでそんなに慎重になる? 好きだと言ったんだろう」

「僕は伝えてない」

「へぇ。ますます面白いな。振られたら慰めてやるからいつでも来い」

「いや。そういうの、間に合ってるから……」


 朔羅は、諷貴と長く話をすることが苦手だった。

 賽貴と同じ顔で、言い当てられたくない事をどんどんと言われてしまう。隠していることを探り当てられ、引きづりだされてしまうかのような感覚に、嫌悪感を拭えないのだ。


「ところでさっきの、『役割』ってなに?」

「……印が微かに朧気になってただろう?」

「それが静柯さんに命じられたことだったの? だったら、別の方法でやってよ」


 朔羅はため息を吐きながら、そう言った。

 朔羅の式神としての証となる印は、左の鎖骨あたりに存在する。

 自分では気にしてはいなかったが、今の浅葱がまだ知らない以上、補充が必要となる。

 式神であるため――『一』であるために。


「……ところで、賽貴は印を消したか?」

「いや、それは……鈴は預かってるけど……ごめん、僕も見てない」

「そうか。まぁ、静柯しずかが気にしててな」

諷火ふうかにそれとなく頼んでみたら?」

「ついこの間、様子を見に行かせたばかりでな。例によって、むやみに出入りするなと叱られたらしい」


 そんな言葉を交わし合って、二人は会話を止めた。

 それぞれ、何かを思案しているらしい。

 時間にしては数秒後、再び口を開いたのは諷貴だった。


「まぁ、今は後回しでもいい話だな。とりあえずは、お前は浅葱をさっさとモノにしておけ」

「……ちょっと、言葉に気をつけてよ!」

「ははっ……」


 ざぁ、と風が吹いた。

 その風に乗るかのように、諷貴は笑い声を残した後、姿を消していた。

 朔羅の苦言は届いたのか、それとも受け取らなかったのかは不明だ。


「……まったく。あの人も変わらないな」


 溜息交じりの言葉を、誰も居なくなった場で吐きこぼす。

 それから朔羅は、我に返ったかのように踵を返して、浅葱の部屋へと足を運んだ。


 動機が収まらなかった。

 慌てて部屋に戻ってきたはいいが、どうしたらいいか解らない。

 朔羅が誰と会っていようが、普段であればさほど気にならなかったはずだ。

 そう、思っていた。


「はぁ……」


 ドアに背を預けて、深呼吸をする。

 落ち着かなければ。

 今は、自分の感情に振り回されている場合ではない。やるべきことをこなしていかなくては、と何度も心で繰り返す。

 なぜ、こんなにも苦しいのだろう。

 やはり自分は、朔羅を好きなのだろうか。


「――っ」


 そこまでを考えて、浅葱は首を振った。

 確かに以前、告白まがいの言葉を彼にぶつけたが、あれ以降はうやむやになっている。

 それは緩やかな否定だと、浅葱は思ったのだ。

 朔羅は変わらず、自分に仕えてくれている。以前より距離が近いのは、彼が『一の式神』となったからであり、それ以上ではない。

 ――つらかった。

 言われたわけではないが、言われないほうがいいのではないか。

 思考はどんどん悪い方へと進み、浅葱はそのまましゃがみ込んでしまった。


「どうしよう……」


 言葉にしてみても、わからない。

 あっさりと混乱に陥ってしまった彼には、答えが出せなかった。


「――浅葱さん?」

「っ!」


 朔羅の声がした。

 とっさに顔を上げたが、目の前にはいなかった。どうやら、扉の向こうにいるらしい。

 いつもであれば空間を渡り、すぐにでも近くに立つことができるのに、彼は何故かそうしてこなかった。


「お風呂、行ってきたんだよね? 入ってもいいかな」

「だ、ダメ……っ、」

「…………」


 浅葱は思わず、彼を否定した。

 扉の前で座り込んでいるせいもあり、向こうからは開けられない。


「……あのね。さっきの、見てたでしょ」

「!」

「その事で、話したいんだ。入れてくれないかな」


 朔羅は扉の向こうから、そう言ってきた。それを聞いてから、浅葱は静かに自分の体を移動させて、自分からドアノブを回した。


「……いつもは、符を通して行き来するくせに」

「そうだね。それ言われると、僕も困るよ。……入るよ?」

「うん……」


 朔羅はやはり、いつも通りだった。

 表情からは、何も読み取ることが出来ない。

 だが、浅葱はその彼の顔すらまともに見ることが出来ずに、俯きがちで数歩を下がり、朔羅を室内へと招いた。


「髪、乾かしてないね。眼鏡は?」

「……あ、そういえば……脱衣所に置きっぱなしだ……」

「そう。じゃあ僕があとで取りに行ってあげるよ。どうせ伊達なんだから、良いよね」

「う、うん……」


 朔羅は自然に浅葱へと手を伸ばして、未だに濡れたままの髪に触れた。

 浅葱が一歩下がると、朔羅は一歩を詰めてくる。

 会話しつつもまた下がると、やはり朔羅は距離を開けようとはしてこなかった。


「っ、あ……」


 踵が、ベッドの足へ軽くぶつかった。

 それに気を取られていると、視界が思い切り揺れる。


「……う、わ……」


 浅葱はそのまま、ベッドに倒れこんだ。

 否、朔羅に押し倒された。


「全く、無防備なんだから」


 朔羅は呆れた表情でそう言った。

 彼は浅葱の肩に手をかけたままで、たったそれだけの力で、その身を動かすことが出来ない主を見下ろしている。


「……妬いちゃったの?」

「っ、違、うよ!」

「もっとはっきり言わないと、説得力無いよ」


 朔羅の指摘に、浅葱はやはり動揺した。

 綺麗な顔の式神は、とても意地悪な表情で煽ってくる。それを分かっているのに、浅葱は何も言い返せなかった。


「さっきのね、賽貴さんの双子のお兄さん」

「……えっ」

「そっくりだったでしょ?」

「う、うん……」


 問いかけるまでもなく、あっさりと、朔羅は先ほどまで一緒にいた人物を明かした。

 浅葱はそれに驚いたが、それ以上に今の現状に、動揺したままだった。


「誤解しちゃったみたいだからね。……あの人のああいう態度は、わざとだよ。最初から浅葱さんが覗き見してることに気づいてて、それで煽っただけ」

「あ、煽ったって……」

「ほんと、嫌なやつだよねぇ。僕ね、あの人の事あんまり好きじゃないんだ」


 浅葱の肩を片手で抑え込みつつ、朔羅はため息を吐いてベッドの端に腰を下ろした。

 わざとらしい声音で喋るのは、浅葱に嘘をつかないと示している為である。


「賽貴と同じ顔、なのに……?」

「だから余計に手に負えないんだよ。それにあの人、元々は僕たちとは仲違いしてたんだよ。つまりは、『敵』だった」

「…………」


 浅葱は朔羅を見上げつつ、彼の話に聞き入っていた。こんな所でも、知らないことを知れてしまう。

 知識欲が先に勝り、自分の置かれている状況をあっさりと投げ出してしまうのは、浅葱の悪い所でもあった。

 朔羅はそれに気が付くも、小さく苦笑しただけで指摘はしなかった。


「……まぁ、この話はまた今度ね。長くなるから」

「あ、うん……」

「そんな残念そうな顔しないでよ。……で、僕との諷貴さんとの間には何も無いんだって事は、理解してくれた?」

「……う、うん」

「それでね、僕は今、あなたに何をしようとしてるかは、分かってる?」


 朔羅の声音が、少しだけ変わった。

 そう気づいて、浅葱が瞬きを数回する。

 自分の部屋で、自分のベッドの上に倒れこんでいるが、自分の意思でそうなったわけではない。


「あ、あの、朔羅……」


 起き上がろうとしてみた。

 だがやはり、肩に置かれたままの手が動かない。

 浅葱はそこでようやく、焦りを見せた。


「――わかるかい、浅葱さん。あなたが求めようとしてくれてる現実は、こういう事なんだよ」

「っ、やっ……さく、……ッ」


 うまく言葉を作れなかった。

 抵抗としてだったのか、自分でもわからない。

 朔羅が顔を寄せてきて、耳元で囁いてきた言葉に、浅葱は答えることが出来なかった。

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