二章
15.幸徳井家
「静柯兄さん、ただいま戻りました」
「――ああ、お帰りなさい」
広く古い日本家屋の一室で、一人の青年が本を読んでいた。
その背に控えめに声が掛かり、彼はゆっくりと振り向いた後、笑顔を向ける。
声の主は少女であった。年のころは十四、五歳と言ったところだろうか。
狭霧学園の制服を着ているので、そこの生徒であることは確かであった。中等部――のようであるが。
肩までできちんと切りそろえられた黒髪、古い表現をすれば『おかっぱ』な髪型と、三白眼。
浅葱と同じような黒ぶち眼鏡をしている少女の名は、
かつての賀茂家――土御門の分家にあたる家系の、一女であった。
そしてその紅子が声をかけたのが、『
賀茂浅葱の『甥』であり、幸徳井紅子の
「その様子だと、今日もダメだったようですね」
「……仕方ないです。彼とは学年が違う上に、高等部まで足を運ぶのは、なかなか勇気が要りますから」
「あなたがそこまで、土御門浅葱を気にかけるとはね」
「私の勝手な妬みです。放っておいてください」
紅子の性格は、少々難しそうであった。
言葉尻から、浅葱を良く思ってはいない事が伺える。
静柯はそれを聞いて、小さく苦笑してから、一つ息を吐いた。
髪は短くなっていた。着流し姿で羽織りを肩から掛けているその姿は、まるでどこかの作家かと思うような風貌でもあった。
「……あなたが浅葱に対して何を思おうがそれは自由ですが、決して傷をつけてはいけませんよ」
「それは、わかってます。私もそこまで愚かではないつもりです」
「なら、いいのです。もう行きなさい、今日は弓の稽古があるでしょう」
「はい、兄さん」
静柯がそう言うと、紅子は素直に従い、頭を下げてから襖を締めた。
静かな足音がしばらく続き、それを言葉なく室内で聞いていた静柯は、彼女の気配が完全に遠のいてから、ふぅ、と息を吐きこぼす。
「――相変わらずだな」
どこからともなく、新しい声が降ってきた。
静柯はそれに驚くことなく、瞳を伏せてから声の主の名を呼んだ。
「諷貴、覗き見は彼女の為にも良くないと言っていたでしょう」
「仕方ないだろう? 俺はお前の式神――意識してなくても見えてしまうんだぞ」
「……まぁ、そうなんですけどね。でもね、多感な時期なんですから、少しでも気を使ってあげないと」
声の主は
賽貴と同じ顔の――賽貴の双子の兄である。
「女は、いつでも難しいな」
そう言いながら、彼は静柯の隣に堂々と座り込んだ。
今も昔も、彼にとっての『しずか』は、唯一の存在だ。
静柯は、
つまり彼は、転生者なのだ。
かつては『瀞』と呼ばれ、長い時間をかけ魂は流転し、次に『静柯』として賀茂浅葱の甥として生を受けた。その後しばらくはヒトより少々長く命を繋げ、幾度か転生を繰り返し、現在に至っている。
その間も、記憶は僅かも削ることなく、静柯であることには変化は無かった。だから、諷貴はずっと彼の式神で在り続けた。
「紅子はまだ、適正な式神を見出せませんか?」
「……浅葱に執着してる間は、無理だろうな。なんであんなに対抗心を持ち続けてるんだか。別に嫌がらせを受けたわけでもないだろうに」
「それについては、完全に母のせいですね。土御門の家督を継げなかったことを、未だに悔いているようですから」
諷貴は自然に静柯の肩を抱いていた。
そして静柯も、自然に彼に体を傾けていた。
彼らにとっては、これがいつも通りなのだ。
紅子については、様々な家の事情が絡んでくるらしい。諷貴の言葉通りであれば、彼女は母の影響で浅葱を妬みの対象としてしまっているようなのだ。
「浅葱が最近、人が変わったかのように現実を見始めたでしょう。それも少なからず、彼女の気に障るのでしょうね」
困った妹ですね、と彼は続けた。
その実、少しも困った様子ではない静柯の表情を見て、諷貴は呆れ顔だ。
「お前は昔から――そうやって食えない顔をする。紅子が浅葱に執着することも、浅葱の現状も、想定内だったんだろう?」
「……そうでもないですよ。少なくとも、賀茂浅葱の魂の件については、私も未だに策を巡らせている最中です」
(紅子については、否定なしか。……血は繋がっていても、厳しい見方だな)
「……ニャーン……」
諷貴が胸中でごちていると、ふいに窓際に影が生まれた。
黒猫が姿を見せたのだ。
「おや、
静柯はそう言いながら、黒猫を招き入れる。
猫の正体は、琳であった。
「……すみません、少々寄らせてもらいました」
「いいんですよ。浅葱のところには、帰りづらいんでしょう。気のすむまでこちらに居なさい」
「――おい、静柯」
「いいですね、諷貴。あちら側に何も漏らしたらダメですよ」
静柯は綺麗な笑顔で、諷貴に釘を刺してきた。
それをされると、諷貴は何も言えなくなる。
そして、黒猫であった琳は、あるべき姿に戻り、深々と頭を下げていた。
「楽にしなさい。……
「眠っているようです。最近、あまり疎通が出来なくて……」
「…………」
頭を上げた琳の表情は、あまり良いものでは無かった。それを見て、静柯も眉根を寄せる。
隣の諷貴も、同様にだ。
「浅葱の件より、あなたたちのほうを先にどうにかしなくてはいけませんね」
「……どうにも、なるとは思えません。僕も藍も、そういう意味ではとうに覚悟は出来ています」
「そんな覚悟など、捨ててしまいなさい。今の浅葱がそれを聞いて、許すはずもないでしょう」
――覚悟。
琳と藍は、罪人であった。
浅葱の夢の中で、確かにそうであると語り合っていた。
それは確かな事で、彼らは贖罪の最中であるのだ。
過去、賀茂浅葱のことを思うあまり、彼らは禁術を使ってしまった。蘆屋会が秘密裏に保管していた呪術の法をかすめ取り、発動してしまったのだ。
それは、
浅葱を、蘇らせようとしたのだ。
「静柯さま、どうして我々は生かされているのですか。……これすらも、罰なのですか……」
琳の言葉は、弱々しいものであった。
彼らは常に、苦渋の末に生きている。
死すら選べず、妹の体さえもを失い、一つの体で魂を共有し続けているのだ。
「……浅葱の意思だと思いなさい。そして、あなたたちは必ず『救います』」
「……ッ」
静柯の言葉は、重かった。
救いは時として、残酷だ。
「静柯は、こいつらの事は、浅葱に任せるつもりなんだろう?」
「ええ、もちろんそうです。ですが……普賢の強化だけは、私がしておきます」
「見捨ててくれればいいものを……」
諷貴と静柯の会話を耳にした琳が、思わずの言葉を吐いた。
それを耳に留めて、静柯は表情を歪ませる。
「――愚かな」
短い叱責の言葉だった。
だがそれだけで、琳は震えあがった。
「何のための『式神』という立場か。あなたたちが今、『使役』という立場に落ちているのはその意味を理解していないからですよ。罪のせいではない」
「…………」
琳は言葉を返すことが出来なかった。
諷貴も、気まずそうにしている。彼からしてみれば、中立とは言えない側にいるからだ。
静柯は、いつでも『瀞』のままであった。
命を決して軽んじてはならない。それはヒトにも妖魔にも言える事だ。
それに共感を得たからこそ、遠い昔に手に手を取り合った。だから浅葱にも静柯にも、元妖魔の式神しかいないのだ。
「つらいのは分かります。でも、私も浅葱も、あなたたちを最悪の形で失いたくはない。……それを、わかってください」
「……はい」
静柯の再びの言葉に、琳はまた深々と頭を下げてから返事をした。
「――ああ、そうだ。良い方法を思いつきました」
「は……?」
「実は、中身を失った白文鳥がいるんです。一時だけでも、藍をそこに定着させましょう」
(中身――ね。素直に死んだって言わないのは、思いやりなのか真逆の意味なのか……)
まるで名案だ、と言わんばかりの表情であった。
隣で聞いていた諷貴はその言葉並びに少々呆れもしたが、嘘は言ってはいないので、敢えて何も言わずにいる。
「……本当は、こういう『移動』は良くない事です。ですが、一つの体に二つの魂というのは、やはり負担が大きすぎる」
静柯はそう言いながら、小鳥用の竹籠を取り出した。
中には、寿命を全うした白い文鳥が静かに眠っている姿が見える。
それは、静柯が飼っていた鳥であったのだ。
「し、しかし……」
「浅葱の許可が必要ですか?」
「……いえ、それは……あの方には、まだ何もお伝えしてませんので……」
「そうですか。……藍との意識の疎通が難しくなってきたと、先ほど言っていたでしょう。彼女が眠ることが多くなったのは、やはり魂に負担が掛かっているからです」
「…………」
琳はそれに応えなかった。
おそらくは、言い当てられてしまったのだろう。
今のままでは、妹である藍を、いつかは失ってしまうという現状を。
「……これは提案なんですけど、紅子に預けてみませんか」
「……え?」
次の言葉には、琳は反応するほか無かった。
予想にもしない提案だったからだ。
「紅子には未だに、式神がいません。藍の意思もありますが、一時を彼女に託してみては下さいませんか?」
「……そう言う事でしたら、わかりました。お任せします」
「それから、そろそろ浅葱には全てを打ち明けなさい」
「はい……今日はその為に、寄らせてもらったんです」
琳の来訪には、きちんとした意味があった。
『散歩』の折、何度かこちらに来ていた事もあり、今回もそうだったのだろうと思っていたが、どうやら違うようだ。
「今日の朝、散歩に出かける前に、浅葱どのに話があると言われました。……それで、覚悟を決めねばと思ったんです」
「なるほどな」
琳の言葉に返事をしたのは、今まで黙り込んでいた諷貴だった。
「静柯。――少し離れるぞ」
「ええ、わかりました。では私は、藍を預かりますね」
静柯と諷貴は、不思議と通じ合っていた。
長年の連れ添った仲である、何よりの証だ。
それをどこか遠くで見ていた琳は、次の静柯の行動に反応が遅れた。
「――オン サンマヤ サトバン――」
「…………」
久しぶりにマントラを聞いた、と琳は冷静に感じ取っていた。
遠い昔、賀茂浅葱が同じように、自分を救ってくれた響きだ。
そう思い返すと、自然と涙腺が緩み、彼はその場で大粒の涙をあふれさせていた。
「命として、篤と聴け――」
「……っ、……」
静柯の姿に、浅葱が重なる。
琳が誰もよりも愛した存在だった。
何よりも欲した存在だった。
己の叶わぬ気持ちよりも、大事な存在であった――。
「まったく、世話の焼ける。だが――それは浅葱も同じこと……か」
諷貴はそんな呟きを漏らしながら、主の部屋を出て行った。
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