11.微かな望み

「叔父上」


 自室で書物へと目を落としているところで、背中に声が掛かった。

 彼にそう語り掛ける者は一人しかおらず、賽貴さいきは僅かに眉根を寄せてから溜息を吐きこぼす。


「……諷火ふうか。みだりにこちら側に来るなと言ってあったはずだろう」

「私においては、その古臭いルールは信用しないですよ」

「…………」


 はっきりした物言いは、どちらに似たのだろうと思いつつ、賽貴は手元の書をそっと閉じてから、振り向いた。

 ――幻妖界げんようかい、王帝の屋敷。

 数日前にこの場に戻った賽貴は、その日のうちに父から王位を正式に受け継ぎ、王帝となった。

 すべての妖魔たちの、長の座に就いたのだ。

 その彼には、成すべきことが山ほどあった。王としての責務もそうだが、今は人間界とこちら側を不用意に繋げるモノのその全てを把握し、排除しなくてはならないという問題が一番大きかった。

 遥か昔、互いの世界同士で交わした『約束』はとうに存在しないものになっている。


「額のシワが残りますよ」


 賽貴に声をかけてきた諷火という人物は、紅炎の娘であった。

 勝気な赤い瞳と、美しい黒髪を持ち合わせている。その黒は、賽貴の種族――天猫族てんびょうぞくにしか受け継がれない色であった。

 つまりは彼女は、賽貴の血族なのだ。

 そんな彼女は、何かと理由をつけてはこちらと人間界の行き来を頻繁に行っている。

 そして今のように叔父である賽貴へと近づき、色々と意見をぶつけてくるのだ。


「……あちらで何かあったのか」

「いえ、特には何も。母上が浅葱どのにわざと攻撃を仕掛けて、あなたの結界に見事に返り討ちにされたというくらいの事しか」

「…………」


 彼女の言葉に、賽貴はまたもや表情を歪めた。そしてやはり溜息を吐いて、こめかみに手を当てる。

 紅炎の行動に関しては、何も言及するつもりはなかった。浅葱の傍にいる以上、ある程度は想定していた事が起きたまでの事だと、そう思っていたからだ。


「用向きは?」

「……ああ、いえ。それを聞きたかったんですね。私の趣味なのでお気になさらず」

「お前は……」


 微妙な会話の噛み合わなさは、父親にそっくりだと内心で呟く。

 諷火の父は、賽貴の兄――諷貴なのだ。昔は様々な理由から分かり合えない時期が長く続いていたが、今は良好な関係を築けている。

 だが、紅炎と諷貴は婚姻関係は結んではおらず、兄は別の人物の傍にいるし、娘はそれを良しとしている。

 紅炎がそうであるようにと育てた結果ではあるのだが、反感も持たずによく過ごせたものだと感心さえもした。

 これ以上の問答は無理だと思った賽貴は、閉じた本を再びめくり始めた。

 すると諷火も、室内にある棚へと視線を投げて、古い巻物を手に取り、広げている。


「――ああ、そうだ。父上からの伝言がありました」


 巻物を見ながら、諷火はそう言いだす。

 賽貴はそれに、視線だけを動かして反応した。


「『お前はそこで自分の出来る限りをするがいい。俺は俺で、決してゼロじゃない可能性を試す』――だ、そうです」

「……そうか」


 文句の一つでも伝えに来たのかと思ったが、そうでは無かった。

 それを知って、賽貴は苦笑する。


「叔父上はこの世界で、必ず良き王帝としてやっていけるでしょう。……私が継ぐ時まで長いかもしれませんが、耐えてくださいね」

「なんだと?」

「……言ってませんでしたか。私は将来、あなたの後を継ぐつもりですよ。これは、父上も承知の上です」


 諷火の言葉に、賽貴は瞠目しか出来なかった。

 そんな様子の彼を見て、諷火は満足そうに微笑む。

 その笑顔の向こうに、諷貴の姿を垣間見た。


「――なぁ、賽貴よ。まさかお前、俺に一生償いをするなと言わないだろうな?」

「兄、上……」


 諷火の姿で、諷貴の言葉を紡ぐ存在がいた。賽貴はそれにあっさりと飲み込まれ、錯覚したままで兄を呼んでしまう。


「ふふ。叔父上、いい顔をしています。昔は死んだ顔をしていた分、もっと感情を表に出した方がいいですよ」


 諷火はそれはもう楽しそうに笑っていた。紅炎と諷貴が同時に仕掛けてきたようなそれに、賽貴はまた困り顔になる。


「諷火、お前と言うやつは……」

「……全てに絶望するには、まだまだって事ですよ。私の見立てでは、浅葱どのは必ず還ります」

「!」

「その為の私の息子です。あれが何もせず、のうのうと生きているとお思いで?」


 諷火は実にあっさりとそう言いきり、手にした巻物をそのままで、空間を一蹴りした。


「……諷火!」

「今はまだ。そこで大いに悩んでいてください。足掻いている姿は、父の楽しみでもありますから」


 彼女はそう言い残して、姿を消した。

 とんでもない事ばかりを言われた、と賽貴は思う。その大部分が、なにも把握できていない。自分が知らないという事は、朔羅たちにも知らぬことなのだろう。


「…………」


 僅かに開けていた窓の隙間の向こうにある、庭へと目を向けた。人間界にいた頃のような鮮やかさはここには無いが、それでも八握脛やつかはぎけいが残してくれた彼自慢の庭の形は、そのまま保させてある。

 はぁ、とため息を吐きこぼしながら、賽貴は肩を落とした。

 いつも、どんな時でも。

 ここではない、誰かに支えられている。改めてそう感じて、情けなくもなった。


「……浅葱」


 思わず、名を呼んでしまった。

 自分の手の中にいた者――そして今現在を生きる者への響きだ。

 渇望に似た感情は、いつになって消えてはくれない。


「……いや、それどころじゃない、な」


 自分に言い聞かせるようにして、静かにそう呟く。

 すべき事が山のようにある。

 諷火が言うように、しばらくはこの場で、『今』出来ることをこなしていかなくてはならない。

 王として、一つの世界を統べる者として。


「――鴉、いるか」

「は、ここに」


 賽貴は姿勢を正して、再び口を開いた。そして自分の命だけで動く配下の名を呼び、傍近くで膝を折らせる。

 鴉は、文字通りの鴉であった。ここ数年は人型を取ることも増えたが、元々は賽貴が偶然にも助けた『野鳥』に過ぎなかった。遠い出会いの日からずっと、彼は賽貴に仕え続けている。

 多くを語らず、賽貴の命のみを聞き入れる、本当の意味での従者と言える存在だ。


「お前を含め、すぐに動けるものを集めてくれ。そうだな数は……五、六人でいい」

「御意」


 賽貴の言葉を受けて、鴉は短い返事の後、その姿を消した。

 その気配が遠のくのを確認してから、静かに瞼を閉じる。


「まだ希望があるのなら……俺もそれに掛けてみるさ」


 ――浅葱どのは還ります。


 先ほどの姪の言葉が脳内をめぐる。

 取り戻せるのなら。そしてこれが全てに繋がっていくのなら、出来ることをこなさなくてはならない。

 そう思いながら、賽貴は手元にあった筆を取り、無地の書物に文字を書き込み始めていた。

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