06.喚ぶ者と喚ばれる者。


 ――アタシ達は罪を犯した。


 眠る浅葱の意識の端で、そんな声が聞こえてきた。口調からして匠の式神である灯影達かとも思ったが、声音が違った。


 ――今生では償いきることの出来ない罪だ。


 次に聞こえてきたのは男の声であった。少しだけ幼さの残るような響きであった。

 そしてどちらも、聞き覚えのない声だ。


 ――それでもアタシ達は、僕たちは。


 呼びかけてみようかとも思ったが、彼らの言葉は自分に投げかけてきているというよりは、独り言に近いそれであったので、浅葱はそのままでいることにした。彼に解ることは、内容が決して楽しいことではないということであった。


 ――失うことが怖かった。別れることが怖かった。ほんの僅かな時間ですら、主様と別れてしまうことが耐えきれなかった。


 ――僕たちは充分すぎるほど待った。だから、再び会えたあの時、すぐに別れてしまうことに耐えられなかった。


 なんて悲しい響きなのだろう、と浅葱は思った。彼らの目いっぱいの寂寥感のようなものが、心に突き刺さるほどであった。


 ――ごめんなさい。


 ――ごめんなさい。


 ――許してもらえるとは思ってない。だけど、僕らはずっと詫びの言葉を繰り返すだろう。


「……、……」


 浅葱は思わず、その声に呼びかけそうになり慌ててそれを止めた。意識内、すなわちこれは夢と同じような扱いの場だ。だからこそ、こちらからは触れないほうが良い。


 ――浅葱。ごめんなさい。


「……ッ!」


 意識が一気に浮上して、浅葱は両目を見開いた。

 視界に飛び込んできたものは、自分の体の上で眠る黒い猫であった。


「…………」


 浅葱はとりあえずそのままで、首を動かした。自室である事に、間違いはない。壁掛けの時計は午前五時を過ぎたところであった。


「……ニャン……」


 猫は深く寝入っているようであった。大抵は飼い主に異変があればいち早く起きるものだが、この猫は少しだけ違うようだ。


「……、泣いてる?」


 浅葱が猫に視線を戻すと、固く閉じられた瞳の端から、雫が零れ落ちるのが見えた。それこそ、猫が涙を流すことなど、非常に珍しいことだと言えるだろうが、それは間違いなく涙であった。


「『リン』、どうしたの?」

「!」


 浅葱が静かにそう言いながら、猫の頭を撫でてやる。すると次の瞬間、その猫の体がビクリと大きく震えて、予想外の反応を見せる。

 猫はその直後、浅葱の体を飛び退き、絨毯の上で蹲りだした。

 浅葱は当然起き出して、上掛けを避けてベッドを降りようとする。


『……近づかないで』

「!」

『ああ……、なんで……絶対反応しないって、決めていたのに……!』

「リン?」

『喚ばないで……!』


 黒猫は苦しそうにしながら、鳴いた。否、叫ぶかのような言葉を上げた。人語であった。

 浅葱は当然のごとくその場で固まり、猫を凝視している。

 それは、『黒猫』であるはずだった。

 少なくとも浅葱は、それ以外の何者でもない、『普通の猫』だと思いこんでいた。

 だが今、目の前にいる猫は、猫の姿をしていなかった。


「……女の子……いや、男の子……?」


 猫であったものは、自分と同じくらいの少女、もしくは、少年の姿を表した。途切れた映像のようにチカチカと揺らめきながら、その姿は少しずつ見た目を変えている。言い換えるならば、まるで男女で『交代』しているかのように。


『ハァ……っ、ハァ……!』


 膝をつき、四つ這いのような体制のまま、その存在は苦しそうに体を上下させていた。浅葱はさすがに心配になり、言葉無くベッドを降りて、一歩を寄せた。


「……ねぇ、だ、大丈夫……?」

『触れ、ないで、ください……ご心配には、及びません……』


 拒絶、だと思った。

 それでも浅葱は、その場で膝を折り、手を差し出す。


『!』


 浅葱が触れたそれは、ブレた姿を完全なものとして形成をなし、ビクリと一度大きく体を震わせた。

 少年の姿であった。


「……喚ぶなと、言ったのに」


 その声は、先程までの慌てたような響きではなく、落ち着いていた。そして、呆れたような音でもあった。


「君も……君たちも、式神なの?」

「……どうでしょう。そうであった、とでも言えばいいでしょうか。僕たちは土御門に仕えてはいますが、今では使役という立場に留まっています」


 体を起こしつつそういう少年は、浅葱と目を合わせようとはしなかった。一歩を大きく下がったところで正座をして、非常に綺麗な所作で頭を下げる。


「本意ではありませんでしたが、喚ばれてしまった以上は名乗らせて頂きます。僕は琳(りん)。そして先程あなたが重ねて見ていたものは僕の妹で、藍(らん)と申します。猫の姿のままでずっと側仕えをさせて頂いておりました、主殿」


 ――主殿。

 そう言われて、浅葱は思わずのため息が零れ出た。今まで全く気づかなかったというのもあるが、やはり自分が『主』であるのか、というその現実のほうが重かったようだ。


「どうしてと聞いたら、困らせるかな」

「……それは、僕らがこのような姿への問いであるのか、それとも使役であること自体への問いですか?」

「…………」


 どちらも問いかけとしては嫌なのだろう、と浅葱は察知した。琳と名乗った少年は、一礼のあと顔は上げてはくれたが、俯きがちのまま相変わらず目を合わせようとはしてくれない。

 浅葱は、黒猫を『リン』と呼んだ。それは彼が猫を拾った時に付けた名であったからだ。偶然とは言え、彼の名もまた『琳』という響きだ。それ故の、この出来事であったのだろう。


「……難しいね。僕は意識したわけじゃなかったし、君たちの事も何も知らなかったのに」

「いえ、……申し訳ございません。言葉が過ぎました」

「ううん、ごめんね。きっと、夢を共有しちゃったから、それで引き起こしちゃったんだろうね」

「! ……ご覧になられたのですか。どこまでを?」


 琳はそこでようやく頭を上げて、浅葱を見てきた。その表情は、とても焦っているようであった。

 金の瞳に、黒い髪と尖った耳。左頬に文字らしきものがあり、それが掠れているように見えるのが気になった。


「……君と、その、藍? が、ちょっと話しているところしか、覚えてないよ」

「……、……」


 浅葱の返事に、琳はそれでも焦りを隠せないままでいた。余程聞かれたくはなかったのかとも思う。


 ――罪を犯した。


 それを今、聞いてはいけないのだろう。


「度々の無礼、申し訳ございません」


 琳はそう言いながら、再び深く頭を下げてきた。

 余程の礼儀を叩き込まれてきたように思える彼の所作を見やりつつ、浅葱は言葉を選べずに口を噤んだ。

 そして彼は、そこからまた数秒置いた後に口を開いて、一人の名を呼んだ。


賽貴さいき、いる?」

「――はい」


 『彼』は音もなく琳の隣に姿を見せた。

 彼は常に符から出ている状態なので、このパターンが可能である。ちなみに朔羅でもそうであった。

 だがしかし、浅葱が彼らを呼ぶことなどは、滅多にない。それが今日は、少しだけ違うようだ。


「……賽貴さま」

「久しぶりだな。一年ほどその姿を見ていなかった気がするが、変わりは無いようで安心した」


 賽貴の言葉が静かに響く。

 初めて聞く口調に、浅葱は僅かに瞠目した。自分の知らない『賽貴』を垣間見た気がして、興味が沸く。

 言葉を受け止めた琳は、その場で頭を下げたままであった。

 同じ式神であるはずの存在だが、彼らにも『階級』のようなものがあるのだろう、と浅葱は静かに思案した。


「僕、部屋を出たほうが良い?」

「――いえ。ですが、この二人のことはもう暫く放っておいて頂けますか」

「あなた達がそう望むのなら、僕はこれ以上の深い入りはしないよ」

「申し訳ございません、主殿」


 賽貴からの申し出に、浅葱はあっさりと返事をした。関わってほしくない雰囲気はそれ以前から感じていたので、踏み込めないと判断したためだ。

 そして琳は、浅葱の瞳を見ること無く、謝罪の言葉と頭を下げる事だけを徹していた。


「……いつか、君たちが僕に打ち明けたいなと思ってくれる時まで、このままでいいよ。頼りない主でごめんね」

「…………」


 その言葉は、自虐のそれに聞こえただろう。

 賽貴も琳も、眉根を寄せた。だが、彼らは何も言わなかった。

 ――言えなかった。

 そして琳は、もう一度深く頭を下げた後、その姿をいつもの黒猫に変化させて、窓辺に立った。

 その行動は、いつもの朝の光景だ。

 浅葱もそれを解っていて、そっと窓を開けてやる。


「……いってらっしゃい」

「ニャーン……」


 『黒猫のリン』は、早朝に目覚めると必ず外へと散歩に出る。毎日この時間帯なので慣れるまでは浅葱も苦労していたようだが、それでも最近は普通の行動となり、今日もそれをこなしただけだ。

 猫は一度小さく鳴いた後、ひらりと窓枠を越えて姿を消した。いつもはこのまま夕方まで戻らないが、今日はどうなるかはわからない。

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