03.譲らぬ意思

 浅葱は現在、従兄弟である匠の家で暮らしていた。彼の両親が3年前に事故で亡くなり、匠の父に引き取られたのだ。


「あら、浅葱ちゃん、おかえりなさい~!」

「……ただいま」


 立派な日本家屋の門をくぐり抜け、庭を抜けた先にある引き戸を静かに開けると、奥から顔を見せたのは匠の母親――浅葱にとっての伯母であった。

 二藍という珍しい色の髪と飴色の瞳を持つ。そんな彼女はいつも笑顔を絶やさず、独特な空気を醸し出している。悪い意味ではなく、神聖で温和で優しいと言うイメージだ。


「浅葱ちゃん浅葱ちゃん、今日はお肉とお魚、どっちがい~い?」

「え、ええと……その、どちらでも……」


 ふわふわなワンピースの上にピンクフリルのエプロン姿で豚肉のパックと魚のパックを両手に、伯母は浅葱にそう問いかけてくる。彼女の周りには常に花が咲いているようだ、と浅葱は思いながら小さな声でそう答えた。

 何事にも否定しがちな彼でも、伯母にだけはそれが通用しない。彼女は浅葱を実の息子のようにかわいがってくれるし、匠と変わらずの愛情も与えてくれる。

 それには素直に感謝しているのだが、伯母には決定的な問題が一つだけあった。


「今日は、肉!」

「!」


 浅葱の背後で、大きな声がした。

 それに肩を震わせると、声の主が少々すまなそうな空気を抱いたことを察知して、浅葱は俯いた。


「匠ちゃん、おかえりなさい~!」

「はいはい、ただいま。そんなことより、浅葱を玄関に立たせたままでいるなよ」

「だって、夕ご飯のメインをどっちにしようか迷っちゃって……でも、今日はお肉にするわね! 生姜焼き!」

「……母さん、それブロック肉だろ。また直感だけで買ってきたな」

「美味しそうって思ったのよ」

「…………」


 そんな親子の会話黙って聞きつつ、浅葱は静かにその場を離れようと靴を脱いだ。

 伯母は毎日愛情たっぷりの食事を作ってくれる。だがそれは、少し軸のずれた出来になるので、そこが問題だと思っている。魚を焼けば必ず焦がすし、肉は今のようにメニューを決めずに買ってきてしまうため、完成品がとても残念なことになる。親子丼と言って牛肉が使われていたり、ステーキだと言って出てきたものが鶏肉のささみであったこともある。

 今日はブロック肉で生姜焼きになるようだが、匠がいる為に、若干内容が変わるかもしれない。母がお世辞にも料理が上手いとは言えない状態のままなので、彼のほうがどんどん腕を上げているのだ。


「あ、おい、浅葱。ちょい待ち」

「え……」


 上手いこと彼らをすり抜け二階へと上がるための階段を一歩登ったところで、匠から声を掛けられた。

 浅葱はその声に素直に振り向くことが出来ずに、その場で固まったままでいた。


「ちょっと話したいんだ。時間貰えるか? ……そうだな、15分後くらいに」

「……うん、わかった」

「じゃあ居間に降りてきてくれな。……おい母さん、パック勝手に開けるなよ!」

「え~~、だって下準備しておかなくちゃ……」

「俺がやるから。母さんは味噌汁担当な」

「はぁい……」


 伯母の姿は既にそこにはなく、声が聞こえてきたのは台所からであった。母の行動を完全に読めている息子の匠は、すかさずそんなフォローに入り、浅葱に目配せをしてくる。

 どうやらここで、一旦は解放してもらえるようだ。

 ゆるく胸をなでおろしつつ、浅葱は階段を登った。

 登りきってすぐの部屋が、浅葱に与えられた空間だ。ちなみに匠の部屋はその隣にある。


「ふぅ……」


 自室の扉をゆっくりと開いて、浅葱はようやく一息をついた。

 ここだけが、唯一自分が落ち着ける場所であるからだ。

 机に本棚、ベッドのみという控え目な室内だが、浅葱自身はそれで気に入っている。匠の部屋にはテレビがあるが、それは彼が好きなのゲームために置かれたものであるらしい。どちらにしても、浅葱には興味が無いので、構わないと思っている。

 ただ、彼がゲームをしている間、その画面を見つめることだけは、少しだけ好きであった。


「ニャーン」


 部屋で立ち尽くしたままぼんやりしていると、窓の外から猫の鳴き声がした。首に赤いリボンが巻かれている黒猫だ。開けてくれ、と訴えているらしい。


「散歩行ってたんだね……おかえり」


 それは、浅葱が拾った猫であった。

 中学二年あたりであったか、雪が降る道端で震えていたその猫を、浅葱は何故か放ってはおけなかった。居候の身で動物など拾っても叱られるだけ、と思いながらも連れて帰ると、伯父も伯母もそれを快く受け入れてくれたのだ。


「ナーウ」


 散歩帰りの猫は、浅葱に窓を開けてもらうと、まっさきに彼の手にすり寄ってきた。だから浅葱も、表情を緩ませてその猫の頭を撫でてやる。

 しばらく猫とのふれあいを続けたあと、彼は慌てて着替えを始めた。匠との約束を忘れかけていたのだ。


「ニャン……」


 飼い主である浅葱の姿を、猫はベッドの上に収まりながら見つめていた。青と金のオッドアイであるその猫は、一つの瞬きをしたあと、青色の目を桃色のそれに変化させていたが、浅葱は気づかずにいた。




 きっかり15分後。

 浅葱は階下へとおり、匠に言われたとおりに居間へと足を運んでいた。完全なる和室であるそこは、木のテーブルと座布団が置かれている。


「そっち、座ってくれ」

「……うん」


 匠の真向かいに、浅葱は腰を下ろす。きちんと正座が出来るのは、彼の良いところだ。


「今日、妖魔が出たな」

「!」


 単刀直入にそう言われて、浅葱は眉根を寄せた。説教か、と思ってしまったのだ。

 だがしかし、匠はそれに苦笑するだけであった。


「あんなぁ、俺がお前に怒るわけないだろ?」

「……でも、知ってるんでしょ? 僕が学園の要請に応じなかったこと」

「それはまぁ、俺からは不問」

「匠兄さんは、いつもそうやって僕を甘やかす……」


 いっそのこと、叱ってくれたら良かったのに、と浅葱は思っていた。

 だが、それを敢えてしてこないのだが、目の前の彼だ。彼自身がそう言ったように、匠が浅葱を怒ったことは今まで一度も無かった。


「シミュレーション室、行かなかったんだって?」

「それは……賽貴さいきが余計なことしたから」

「またやったのか、あいつ。変に気遣いすんなって言ってあったのに」


 浅葱の嫌味とも取れる言葉を受け止めながら、匠はため息を吐いた。

 賽貴の気遣いは、今の浅葱にとってはマイナスにしかならず、前々から注意を促してはいたらしいが、どうにも伝わってはいないようだ。

 彼には彼なりのやり方があり、真意も理解している。それでも、現状の把握をもう少し見極めてほしいとも思う。

 立場上、あまり強く言えないのが匠としてももどかしいようだ。


「……今、賽貴はいないんだな?」

「ああ、うん……。あの人は一応、学園教師でもあるしね……」

「そっか」


 匠はいつでも、こうやって浅葱とその周囲を含めての話をしてくる。純粋に心配してくれているということは分かってはいるのだが、浅葱はそれをどうしても素直に受け止めることが出来なかった。

 もちろん、匠が損得などを考えて行動しているわけでもないのも、理解している。


「……、……」


 浅葱は何かを口走ろうとして、直後に慌ててそれを音にすることを止めた。卑屈な響きだと思ったからだ。


「言いたいこと、思ってること、俺には全部ぶちまけてもいいんだぜ」

「……匠兄さんが損をするだけなのに」


 前向きな言葉を一切吐くことが出来ない浅葱は、匠の優しさにも素直にはなれなかった。これでも一応は、感謝しているのだ。


「何言っても無駄、とか思ってるんだろ? 俺がそれで、お前のこと見放すとでも思ってんのか」

「兄さんのそのしぶとさには呆れるよ……」


 はぁ、と浅葱は大きなため息を吐いた。匠との問答はいつも、このパターンになる。根気が良すぎる従兄弟は、浅葱が必ず折れるまで付き合おうとするのだ。


「賽貴と違って、匠兄さんは僕を甘やかすさじ加減をよく分かってるよね」

「……お前、賽貴には手厳しいよな。嫌いか?」

「そういうわけじゃない……だけど、苦手なんだよ。あの人の優しさと厳しさが」


 この場に彼の気配を感じないからこそ、吐露できる感情を吐き出す。比べてはいけないと分かっているのに、それでも浅葱は、匠の気遣いのほうが数倍も有り難いと思っていた。

 そんな言葉に、匠は苦笑するしかない。


「紅炎と白雪、それから颯悦にはまだ会えて無いんだっけか。朔羅はどうしてる?」

「さぁ……。今は符には居ないと思う」


 浅葱が、ふい、と視線を逸しながらそういった。式神たちの話をすること自体が、あまり好きではないようだ。


「…………」


 そんな反応には、匠の心境は少々複雑だ。

 肌身離さず持っておかなくてはならないとされている式神符であるが、浅葱の式神たちには、そのルールが適応されてない。それ故に、賽貴も教師として表に出たままであるし、朔羅も自由にしている。居ないとは浅葱は言っていたが、おそらく家の近辺には必ず居るはずだ。『付かず離れずで見守る』のが、彼の役目であるからだ。


「匠兄さん、僕に伝えなくちゃいけないこと沢山あって大変だね」


 他人事のようにしてそういう浅葱に対して、匠は肩を竦めてみせた。


「土御門のルールってのは、何かと重いからなぁ。これでもお前がキャパ超えしないようにって、色々考えてるんだぞ」

「それはまぁ……有り難いと思ってるけど……」


 従兄弟として、先輩として、土御門として。

 匠が背負うものも、少なくはない。

 全てを悲観的にしか見ることが出来ないでいる浅葱の背中を、匠はいつか押してやらなくてはならない。『いつか』は来なければいいとも、早く過ぎ去ってくれたらとも、思っている。

 そんな事を考えていると、台所の方から何かが焦げているような匂いがしてきた。

 浅葱と匠の視線がそこで、ようやく元に戻る。


「……兄さん、そろそろ伯母さんのとこ行ったほうがいいんじゃない?」

「だなぁ……んじゃ、今日のところはこれでオシマイな。あ、でも、夜の見回りはお前も来いよ?」

「うん、わかったよ……」


 匠が浅葱より先にテーブルに手を付き、立ち上がった。そして彼は、浅葱の反応を半ば待たずに退場してしまう。伯母の手料理を気にしているのだろう。


「母さん、また火加減忘れてるだろ!」

 閉じられた扉の向こうから、そんな従兄弟の声がする。それを耳にしながら、浅葱は匠の気配が遠ざかるまでは座したままでいた。

「……はぁ……」


 偽りのないため息が、大きく漏れる。

 基本的に、匠とその両親には憂いはない。良くしてもらってるし、逆にいつか恩返しができればと思っている。


「それだけ、だったら良かったのになぁ……」


 立場というものが無ければ。この家が、自分の苗字が『土御門』でさえ無ければ。

 いつもそう、思ってしまう。

 思っても仕方ないと解ってもいるのだが、浅葱はまだそれ以上の感情を探ることをしない。

 静かに瞳を閉じつつ、彼はその場で暫くの間、立ち上がろうとはせずにいた。

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