偶然天使

「この三日間でまったく同数のアンドロイドが死亡しました。これはわたしのミスです。原因は、状態を取る確率に重みをつけなかったせいです」シノがにがにがしく説明した。「つまり、いまから百年間のうち、すべての期間でおなじ確率でアンドロイドが死ぬことになってしまう。若者も年寄りも死ぬ確率はおなじなのです。もちろん、これは不自然なことであるし、目的にかなうものではないでしょう。そこで修正を施すことにします。わかりやすくするために、アンドロイドを死に至らせる〝アンドロイド病〟をとる状態を悪魔状態、健康な状態を天使状態ということにしましょう。この命名はこれまでの経験から、アンドロイド病を発症した者はもとの天使のような高潔極まりない倫理観を失って、悪魔のような性格を帯びることからとっています。さて、この状態を操作して、ある期間では天使の状態を多くとるようにしたい。もちろん、これが量子力学的な問題であることに着目すれば、電子が上・下二つのスピン状態をとりうることと完全にパラレルな議論ができますし、〝電子状態〟や〝電子軌道〟の古典的な量子論の知識が使えます。わたしたちはこれを〝天使状態〟や〝天使軌道〟の理論と呼ぶことにしましょう」

 サクラはそのとき、シノが笑みを浮かべているのに気がついた。おおむねわかっていたが、おそらくこの女は遊んでいるのだ。もっともらしい理論を語ってはいるものの、どう考えても、名称からして冗談であることが隠せていない。しかしながら、〝天使状態〟をとっている正常なアンドロイドたちは実に高潔な精神をしており、このうさんくさい地球人たちに疑いの目を向けることなど思いもよらないようだった。そこまで考えて、どうしたものかと考えているサクラにシノがなにやら目配せをした。

 たしかに、ほんとうのことをいって得する者はだれもいないかもしれない。たぶんそれはアンドロイドたちを怒らせるし、倫理的にまちがっているとも思うけれど、でもよく考えたらシノの語っている理論自体は正しいものに思えるし、正直いって無事に地球に帰れればアンドロイドがいくら死のうがどうでもいいな、しょせんデータが記録されている機械だしな、とサクラは思った。よって、なにもいわずに黙っていることにした。

 結局、シノのつくった装置は修正された。そこにある量子力学は強磁性、つまり磁石の理論だった。磁石をつくるにはスピンをおなじ方向にそろえなくてはならない、とそんな理屈を工学におとしこんで天使状態と悪魔状態をある程度確率的にコントロールすることに成功したのだった。それによって、アンドロイドの一斉死は止まった。

 しかし、ここであらたな問題がもちあがった。あるアンドロイドが自身のいつ発症するともわからない病に悩み、これを治療することを考えたのだ。もちろんそこまで考えつけばアンドロイドは理論も実践も人間のシノ以上にうまくできるので、シノのものよりもずっと高度な装置を考案した。そのアンドロイドのつくった装置は自身の天使・悪魔状態を情報としてとりだし、量子テレポーテーションによって物質ごと遠くの星へ飛ばしてしまう、というものだった。遠くの星に飛んでしまえば、いかに強く悪魔状態を取る粒子でもアンドロイドへの影響は極めて小さくなる。これ自体はまったくニュートン以来の古典力学的な効果であって、ここにいたっては量子力学は必要ない。量子テレポーテーションの際にはアンドロイド本人の性質がいくらか失われることになるが、損なわれる情報は事前にコピーしておくことで解決できる。よって、これはアンドロイドにしか使えない方法といえる。

 彼女は自分ひとりがその恩恵を預かってもよいはずだった。しかし、生来から高潔な倫理観をもっている天使状態にあるそのアンドロイドにとっては、同胞たちの利益になることを黙っていることなどできはしなかった。そこで、おなじ方法を使って天使と悪魔(簡単のため、〝状態〟を略してこう書くことにする)をみなが遠くの星へ飛ばしはじめた。わるいことに、その対象となる星に偏りが生じてしまった。影響の少ないと思われる適当な星の候補もそう多くないし、なにより天使と悪魔のひとつひとつは単なる量子力学的粒子である。それが星のような物質に大きな影響を与えるなどだれも考えられないし、アンドロイドたちをだれも責められないだろう。しかし、よく知られているように電子を原子核に束縛するクーロン力は重力よりもずっと強く、また量子力学的効果が巨視的性質を決定することも原理的には当然である。

 結論をいうと、星へ移された天使と悪魔たちは相互作用し、わるいことに悪魔が大量に増えて協力する事態になってしまった。これは悪魔は天使にはもうなれはしないが、天使は悪魔にいともたやすく堕落してしまうという神学的事実に対応している(なお、これを詳細に記述したシノの論文は『量子力学と神学』誌に掲載された)。

 悪魔が集まった星は、ああ、なんということか、協力現象によって安定性を失い崩壊してしまった。それが銀河一体に広がったのは宇宙史上の大事件であり、いまでは歴史嫌いの小学生でもその詳細を諳んじられる。

 自らの手で銀河を破壊してしまったアンドロイドたちはしばらく放心状態となり、数ヶ月間ものあいだ後処理に追われたため、国の機能は完全に損なわれた。シノとサクラは、もうかまっている余裕がないという理由で、あっさりと帰星を許された。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る