第8話 同級生 長谷川真名花①
「ええ、はい。大鳳くん、ね。知ってて当然というか、すごい有名になっちゃいましたね。そんな人がちょっと前まで同じ学校にいたたなんて、信じられないです」
小柄な少女は長い前髪に表情を隠しながら、注意しなければ聞き取れないほどに小さな声で話し始めた。
「あなたとユミトの関係は?」
「えっと、大鳳くんとは違うクラスだけど、環境委員会で一緒になって。掲示板の内容考えたりとか、どんなお花を植えるかとか、結構いろんなことをお話ししました」
「委員会での彼の印象は?」
「印象ですか?目付きが鋭いから最初は勝手に怖がっていたんですけど、話してみたら意外と真面目だし天然で。記憶に残っているのが、大鳳くん、パンジーのことをチンパンジーの略称だって勘違いしていて!だから全然話が噛み合わなくって、思わず笑っちゃって、なんかほっこりしちゃいました。パンジーはお花だよって教えてあげたら、顔を真っ赤にしちゃって、可愛かったなぁ。だからかな?悪い印象は全然なかったですね。すごく親しみを感じるって言うか。あ、でも、今じゃもう雲の上の人すぎて、そんなこと言えないですね」
彼女は一息で話し終え、大きな胸を押さえて深呼吸をする。そのあまりの熱量と早口具合に驚き、私は一回話題を変えるべきだと考えた。
「なるほど。……ところで、君はどうしてそんなに大きなベストを着ているんだい?」
「え、このベスト、ですか?……いいんですよ、これはこのサイズでいいんです」
◆
始業ギリギリに教室に入ったとき、私は「しまった」と思いました。
中町さんと鳩場さんが教室にいなくて、今日は朝からなのかと、呼吸が震えました。逃げるにももう遅く、チャイムと同時に先生が入ってきてしまいました。
授業が始まると案の定、隣の席の元木さんが立ち上がりこう言ったのです。
「先生、長谷川さんが具合悪そうなので保健室つれていきまーす」
「おお、そうか。頼んだぞ」
元木さんは有無を言わさず私の腕を掴み、グイグイと引っ張ります。そうして私は、抵抗する間もなく教室の外へ連れ出されました。
この人たちのやり方はいつもこうです。
なるべく先生に怪しまれないように、あらかじめ体調不良などの理由をでっち上げて不在にしておく。その後で仲間の一人が、私を気遣うふりをして連れ出す。そうして授業中に堂々と誰にも見られることなくいじめを行い、しれっと帰る。毎日ではなく週に二回くらいのペースで行うのが、計画性を感じて不愉快です。
まんまと引っ掛かる先生たちもどうかとは思いますが、そこまでして私をいじめたいのかと、元木さんたちの神経を疑います。
女子トイレに連れ込まれた私は、お腹を蹴飛ばされ、汚いタイルの上に転がりました。蹴られた時に眼鏡が外れ、視界が不鮮明に歪みました。髪の毛を引っ張られ、香水臭い顔が近づけられて、吐き気がしました。
吐きそうな私の一方で、元木さんたちは暴言を吐いてきました。
いつもそうです。醜く尖らせた口から、唾と幼稚な罵詈雑言を飛ばしています。はじめの頃は丁寧に内容を聞いていましたが、同じようなことばかり言うので聞くのをやめました。
だいたい八割くらいは外見のことを詰る内容だったと思いますが、それはコンプレックスの裏返しだろうなと思います。私は身長の割に胸が大きく、それが貧乳を気にしている元木さんには気にさわるのでしょう。
完全なる僻みですね。ただまあ、本当に、覚える必要のないような、内容の薄い言いがかりです。
「この根暗ブス」
「いい子ちゃんぶって先生に媚び売ってるくせに」
「生きてて楽しいの?」
「その乳で点数稼いでんでしょ」
「豚は豚らしく這いつくばってろ」
ああそうだった。やっぱりしょうもない内容でした。
でも、私はやや大袈裟に怯えて、苦しんでいるように振る舞います。そうした方が彼女たちも満足し、いじめの時間が早く終わると学習したからです。
まるで冷静にいじめに対応しているように感じるかもしれませんが、実際のところ恐怖や苦しさ、悔しさは感じています。ただ生まれ持った性格で、いつもどこか冷静な自分もいるから、落ち着いて状況を捉えられる部分もあるのです。
蹴られて、罵倒されて、トイレの水を掛けられて、挙げ句の果てにスカートを剥ぎ取られました。元木さんは笑ながら廊下に出ると、中庭側の窓を開けて私のスカートを外へ投げ捨てました。
スカートを取り返さなくてはと、慌てて立ち上がろうとした瞬間、私は勢いよく転びました。鳩場さんが私の足を引っ掛けて転ばせたのです。転んだせいで無防備なお尻が丸出しになり、恥ずかしさで震える私の背後から、笑い声とシャッター音が聞こえてきました。
最悪でした。
口では「やめて」と懇願しつつも、内心ではどす黒い気持ちが沸き上がっていました。私がいったい、何をしたと言うのでしょう。彼女らは何が気に入らなくて私を執拗にいじめるのでしょう。俯く私の目から、堪えきれない涙が溢れ出しました。
お父さんやお母さんにもそう育てられたし、普段は絶対に悪口なんて言わないけれど。半年以上の間、ひたすらいじめに耐えていた精神は、かなりボロボロになっていたみたいです。
思わず口から本音がこぼれ落ちました。
「死んじゃえばいいのに」
次の瞬間。
ゾッとするほど肌が熱くなり、そしてすぐに寒気と目眩がしました。
そして、その感覚の正体を考えるより先に、元木さんたちの甲高い悲鳴が耳に突き刺さりました。
恐怖そのものが、廊下に、私たちの前に降り立ちました。
胃液が込み上げ、心臓が壊れそうなほどバクバクと暴れ、シャワーを浴びたかのような大量の汗が全身から溢れました。
ある言葉が、私の頭に浮かびました。
スペクター。
その存在を認識すると同時に、けたたましいサイレンが校内に響き渡りました。
鳩場さんの不明瞭で意味をなさない笑い声が廊下で暴れまわりました。
中町さんの呻き声が聞こえ、ビチャビチャという音と共に不快な臭いが漂いました。
元木さんだけは直視しないで済んだのか、髪を引っ張り顔を引っ掻き半狂乱状態になりながらも、ヨロヨロと逃げようとしていました。しかし腰が抜けたのか、体がいうことを聞かないのか、まるで半端に殺虫剤を喰らった虫のように滑稽にもがいていました。
そして、裸眼かつ涙のせいで視界か歪んでいて、さらに俯いていた私は、元木さんたちのように発狂せずにいられました。
しかし本能に訴えかける恐怖と狂気は、私の足を動かしてくれません。それに先ほど引っ掛けられた足がズキズキと痛み、どうやら捻挫していたらしいと、今更気がつきました。
スペクターが、ジワジワとこちらに近づいてくる気配を感じます。
死ぬかもしれない。
そう思ったとき、お父さんお母さんや友達の顔に混じって、元木さんたちの、あの不愉快な笑顔が浮かんできました。不快な顔、不快な経験、不快な記憶が次々と脳裏を過ぎりました。
私は絶望しました。
どうして、走馬灯までこの人たちに蝕まれなくてはならないのかと。最期かもしれないその時に見るのが、この顔なのかと。
悲しくて、悔しくて、怨めしくて。
いっそのこと発狂してしまった方が楽なのではないかと思いました。今側にいるスペクターを見れば、それは簡単に叶います。
迷いはほんの少ししかありませんでした。
死ぬかもしれないけれど、それはある種の救いかもしれない。この現実に価値はない。痛みなんていらない。くだらない。情けない。もう苦しみたくない。このままでは何も変わらない。もはや今私は何を考えているのかわからない。
でも思い出まで侮辱されるくらいなら、何もかもわからなくなった方がまだ幸せだ。
私は、意を決して顔を上げました。
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