大河橋高校襲撃事件
第1話 同級生 大山衛
「弓人ですか?もちろん知ってますよ。クラスメイトだし、席が近くてよく絡んでました」
日に焼けた少年はそう答えると、白い歯を見せて朗らかに笑った。アイロンの効いたワイシャツと肌のコントラストが眩しい。
「ユミトはどんな性格だった?」
「うーん。なんか、普通にノリよくて……天然っつーか?うん。いや、そうっすね。だいぶ天然でしたね。胸派か尻派かって聞いてんのに「腰」って答えたりとかして、なんだそれって感じで、面白かったっす。なんかイジリがいのあるタイプというか?ともかく、いいヤツでしたよ。放課後はよく一緒にゲーセン行ったりしてました」
「随分仲が良かったようだね。では君にとってユミトとは、どんな人物?」
「まあ普通に友人で……命の恩人っす」
◆
「あのさ『スペクター』っているじゃん。見たこと無いけど」
「見たこと無いけど、な」
朝のザワザワし始めた教室の中。唐突に話しかけてき弓人に、俺は適当な返事をする。弓人は制服のネクタイをいじくり回しながら、どっかりと俺の前の席に座った。
「スペクターを見ると頭おかしくなるのってさ、人間の脳じゃ処理しきれないほどめっちゃ情報を詰め込まれるからなんだって」
「なにそれ」
「俺もよくわからん。でも、スペクターに会ったらなんか、入ってくる情報を減らせば生存率上がるんだって」
「それはマジの情報なのでしょうか」
「マジです。それでは、実際に大山衛アナウンサーに実践してもらいましょう!スペクターとのご対面、お願いしまーす」
そう言ってふざけた後にケラケラ笑う。一通り笑ってふざけて満足したのか、弓人は「ふぅ」と息を吐き、トカゲみたいな顔に寝ている猫みたいな表情を浮かべた。
弓人が一人で喋って一人で笑うのはよくあることなので、気にする必要はない。なので俺は淡々と気になったことを聞いてみた。
「でも、まあ。なんつーかさ、情報を減らすとは?って感じだわ。どういうこと?」
「俺もイマイチわからんけど。視覚とか聴覚とかの六感を制限したり、何か別のものに集中すればいいって」
「それを言うなら五感な。六感は超能力的なやつだから」
「そうだっけ?まあいいや。んで、アメリカか何処かの実験で、グラサンかけるだけでも多少効果あるって、ネットか何かで見たんだよね」
いじくり回されたネクタイはゆるゆるになっていて、今にもほどけそうだ。不器用なので一人でネクタイを結ぶことができない弓人だが、そんなことお構いなしに、曖昧な知識のまま話を続ける。狂気耐性の差は遺伝じゃないとかなんとか、実は特殊な電気ショックで対抗できるとかなんとか。
一通り話して、弓人は話にオチをつけた。
「だからさ、衛もいつスペクターに遭遇しても大丈夫なように普段からグラサンかけとけよ」
「スペクターに会うのが先か、不審者だと通報されるのが先か」
「通報だろうなぁ」
雑な相槌が始業のチャイムに被さる。担任が教室に入ってきたので、弓人は素直に正面を向いた。
――スペクター。
ここ十年でずいぶんと日常に浸透した言葉だ。『実在する怪物』的な意味で、見た目は白くてでかくてブヨブヨしているらしい。
らしい、と言うのには理由がある。スペクターを見てしまった人間は発狂してしまい、最悪死んでしまうのだ。親父曰く、俺のじいちゃんもスペクターを直視したせいで、泡吹いて死んだらしい。物心つく前の出来事だから全然ピンとこないけど。
そんな存在だからか、ニュースとかでもイラストや再現CGで表現されるばかりで、写真や動画等は必ずモザイクがかけられている。それだけヤバイ、ということなのだろう。
ただ、学校で避難訓練したり、ごく稀に避難勧告が出たりもするけど、そんなに危険だという実感がない。たぶん直接被害を受けたことがないからだと思う。台風とか熊とかみたいな感覚だ。
でも世の中には、そんな御大層な化け物を退治する力を持った人たちがいる。『ユミット』と呼ばれるその人たちのことは、学校でも習うしニュースでもよく聞く。知らない人の方が少ないだろう。
化け物を倒せる特殊能力なんて、漫画みたいな話だと思う。でも実際、ユミットのお陰で俺たちは普通に生活できているらしい。実感はあまり無いけれど。
とりあえずユミットの皆様に感謝、俺らの青春を守ってくれてマジサンキュー。 どうか俺らの学校生活を守ってください。なぜなら学祭で佐々川に告るつもりだから。
俺は息を潜めて、さりげなく、目線を教科書から斜め前の席に移した。真面目に授業を聴いている佐々川の後ろ姿が見える。
佐々川のピシッと伸びた背筋が、うっすら見える肩甲骨のラインが、すげー好きだ。顔は清楚系みたいな感じなのにギャルっぽい物を使ってたり、イベントの時に誰よりも楽しそうにしてたりするところも無邪気で可愛くて、すげー好きだ。
だから俺は、学園祭というイベントの力を借りて思いを伝えるつもりでいる。その日のためのシミュレーションは何度も繰り返した。まずは当日一緒に巡る約束をして……
「大山、大山衛!」
「…あい?」
担任が鼻で大きくため息を着いた。
「あい?じゃなくて。日直なんだからチョークの補充くらいちゃんとしておきなさい」
「すいませーん」
「次から言われる前にちゃんとチェックしておけー。はい、じゃあダッシュで取ってくる」
「あーい」
学園祭における綿密な告白計画を邪魔された俺は、ダラダラと教室をでた。背後から「せんせー、ウンコ」「先生はウンコじゃない」という声が聞こえてくる。先生はウンコじゃないし、学園祭までは時間がない。
担任の声と未来の妄想に急かされるように、なんとなく速足で廊下を進んだ。
*
チョークの入った箱がチャッカチャッカと音を立てる。
窓の開かれた廊下は微かに風が入ってきて、涼しくて気持ちよかった。風以外にも授業の声とか、何かが軋むような音とか、草の匂いとか、キラキラした木漏れ日とか、色んな情報が窓から入ってくる。この時間は授業が入っていないらしい、人影のない音楽室や家庭科室側の棟は、それらをひっそり楽しむのに最適な場所だった。
中庭越しに自分の教室が見えたので、俺はだらだら時間をかけて歩きながら「佐々川だけこっち向いてくれないかなー、気づかないかなー」と軽く念を送ってみたりした。
のに。
それは、急に来た。
穏やかな中庭が、じわりじわりと歪み、色を失う。
存在を感じるだけで、もう叫びだしそうになる。吐き気がする。
手から滑り落ちたチョークたちが、床に散らばり砕ける。
喉からヒュウヒュウ音がなり、指がガクガク震えだす。
粟立つ背中、狭まる気管、揺らぐ視界。
足の裏から侵入してくる本能的な恐怖感。
恐ろしい結論が脳に張り付く。
ああ、ああ。
――スペクターだ。
突如校内にサイレンが響き渡った。撓んで歪んでひび割れて、しっちゃかめっちゃかな音が耳に入る。避難するようアナウンスが指示し、足音や恐怖に怯える騒がしさが、校内のあちらこちらで発生していた。
俺のクラスは、佐々川はどうしているだろうと俺は中庭を見て――――ああ、今ちょっと目に入った、あの白いのはスペクターだ、狂気のカタマリは、は、のか、どうして俺で、は、見てしまった、のかぁ半透明でゼリーみたいな球体、をレンジは下地に赤ちゃんの、逆さまが置いてあった?しかしほんのり、光ってそこに歯の羅列を中心光って見たのが光った9割れる光ったひ勝ったキレイなのでse見てmarうdれhra.go]:da*gfa<den――――――――――
――――――――――
――――――
―――
―
*
………目は開いているのに、暗い。何かで目を塞がれているようだ。でも、それが逆に安心する。そしてだんだん頭がクリアになってきた。クリアになるにつれて息が上がり、足が疲れ、左手にぬくもりを感じる。
そうして俺はようやく誰かに手を引っ張られ走っている、ということに気がついた。
「あ、あの」
「衛!正気に戻ったか!?」
「弓人…か?」
耳に入ってきたのは、非常に聞き覚えのある友の声。もっと安心したい俺は、目を塞ぐものを外してその姿を確認しようとした。
「まてっ!」
「!?」
が、その行為は焦り混じりの声と手に止められる。荒い呼吸に重ねて、ものすごい早口で弓人は話した。
「目隠しは取るな。まだスペクターがいる。体育館に行くから。誘導するからついてこい」
「……って、ここどこだよ。つーかお前は大丈夫なのか?救助を待った方が」
「ここは理科室前で俺は平気で待ってる場合じゃない。……よし、いくぞ!」
弓人に引っ張られ、再び俺は走り出す。途中何度かスペクターとすれ違う、鳥肌の立つ恐ろしい感覚があったが、弓人の走りが減速することはなかった。
繋がれた左手から度々熱を感じ、そして痺れるような感覚を覚えた。その度にスペクターの気配が消え、呼吸が楽になる。
ガムのストロングミント味を噛んだみたいな、そういう強烈な爽やかさすら感じた。
どのくらい走ったのかはわからない。わからないけど体感では十分以上走ってる。弓人はもともと長距離走が得意だから平気そうだけど、俺は結構しんどくなっていた。それに加えて、額から流れてきた汗が目隠しの中に溜まり、結構不快だった。
さすがにもういいだろう。
そう思い俺は目隠しをずらして汗をぬぐった。そして正面を見たとき、再び寒気と《スペクター》を感じ
でも次の瞬間、それは消し飛んだ。
俺は確かに見た。
弓人が手を前に伸ばし、振り払うような動きをすると同時に、弓人自身が光輝くのを、確かに見た。
修学旅行で見た仏像のように、神々しい後光が差していたんだ。
何かが頬を伝うのを感じたけれど、それが汗なのか涙なのかはわからない。
*
そこからまた少しだけ走って、ようやく体育館前の廊下に着くと、弓人は俺の背中を押してこう言った。
「中に皆いるし、あとはもう大丈夫だから」
「何がどう大丈夫なんだよ!なんか全部がマジヤバかったじゃん!ああでも避難時の集合って体育館だっけ?あれそうだっけ?やべぇ混乱してるとりあえず行こうぜ弓人!」
「いや。俺は行かないといけないっぽいから」
「は?」
弓人は俺の背中を再び押した。意外と強く押されて、俺は二、三歩前によろける。
「そのまま体育館に入って。そうすればあとは大丈夫」
俺が何かを言う前に、弓人は何処かへ走っていってしまった。
「おい、弓人っ!」
追いかけようと思ったけれど、声を聞き付けた先生が飛び出してきて、急いで俺を体育館へ引っ張り込んだ。
ザワザワと声が溢れる体育館の区切られた一画で、保健の先生に体調やどこに居たのかなどを聞かれながら、俺は手に何かを握りしめているのに気がついた。
目隠し……弓人のネクタイだ。
そうだ、先生に弓人のことを伝えなくては。
「せ、先生!弓人がまだ……」
「大丈夫。詳しいことは後で聞かせてもらうから、今は休んでいなさい」
「え……」
どう言うことか聞く前に体操用マットの上に寝かされ、先生は離れていってしまった。
周囲を見渡せば、側にはちゃんとした救護マットもあった。上には何人もの生徒や先生が寝ていて、顔面蒼白で魘されていたり、絶えず泣いていたりしている。自分が寝かされた体操用マットには毛布をかぶった女子が座り込んでいて、小さく震えていた。
灰色の服を着た集団が絶え間なく忙しなく行き来し、それはとても異様な光景だった。
30分以上経っただろうか。突如響き渡った校内放送が事態を終わらせた。知らない男か女かもわからない声に「全てのスペクターは駆除されました」ということが告げられ、俺たちマット組は順番に救急車に乗せられた。
俺自身は軽症だったけど、採血やら問診やら色々されて、検査を終える頃にはすっかり夕方になっていた。
迎えに来た母が泣きながら抱きついてきて、正直恥ずかしかった。でもそれくらいにヤバい状況だったんだって、理解できた。
そう、俺は理解している。
危うく俺は発狂して死ぬところだったということを。そんな俺を弓人が助けてくれたということを。
ふいに、スペクターを見たときの恐怖がフラッシュバックする。それと同時に弓人が放った光も思い出す。暖かく神々しいその光のお陰で、恐怖が多少和らぐのが感じられた。
……いや、単にさっき処方された薬のお陰かもしれないけど。
普段マイペースなくせに、どうしてあんなに神々しい光が出せたのか。スペクターを倒せる力は元々もっていたのか、あの時に発動したのか。
聞きたいことは色々あったし、ネクタイも返したかった。助けてくれたお礼も言いたかった。
でも、次の日から弓人は学校に来なくなった。
担任の説明によると、スペクターを退治する組織に入って、日本各地を巡るらしい。
急すぎることに頭がついていかなくて、俺は返すつもりだったネクタイを握りしめた。
◆
「まあ、エピソードとしてはそんな感じですね」
「ユミトと話したのはその時が最後だった?」
「そっすね。後でメッセージ送ったけど返事ないし、結局お礼も言えなかったっす。それが心残りですね。学祭も中止なったし」
「それは残念だったね。せっかくの青春なのに」
私の言葉に頷きながら、マモルはコーヒーに口をつけ、そしてすぐに口を離した。
しばらく苦そうな表情をしていたが、ゆっくりと元に戻っていき、落ち着いたところで再び思いを語った。
「……俺、結構アイツと仲いい自覚あったんで。だからユミットって知ったときはだいぶ衝撃受けましたね。あのボケボケ天然ぶきっちょがユミットって。嘘だろ、みたいな」
「確かに、突然の事だったから受け入れるのは難しかっただろう」
「そうなんすよ。だから、色々信じられなくて、それでネクタイもまだ持ってて。……いつか返そうって思って」
そう語ったとき、マモルは罰の悪い、しかしどこか希望を込めた表情をしていた。
ユミトにネクタイを返す、という叶わぬ筈の行為が、彼のこれからの人生を導くのかもしれない。
ほんの少ししか飲まれていない、冷めたコーヒーが鎮座している向かいの席。
帰り際に深々とお辞儀してくれた少年を想い私は、若者よ、良い人生を。と、年寄りめいた事を考えてしまった。
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