7 - 世の敗者は灰の色

 表通りも裏通りも銀の川の港から始まっているが、表通りの終わりが石畳の広場であるのに対し、裏通りにはそのような明確な終わりがない。川港から離れるほど道は悪くなるものの、草だらけになっても轍の跡は細々と続いている。道はやがて緩やかな上り坂になる。この坂のある地形が小さな丘トゥレンの名の由来だ。

 路地裏の狭い家の連なりは、貧しいなりに家を買ったり借りたりできた者たちの集まりだ。長く留守にしていると、家持たぬ者が素知らぬ顔で住み着いてしまうこともあるが、それはさておき。裏通りの行き着く先では、安家賃の路地裏にさえ暮らすことのできない者たちが、小さな洞穴を住処にしたり、廃材で小屋のようなものを組み立てたりして生活している。

 異国人を客にとる娼婦が病を広め無駄に子を産み増やす鼠であるならば、ここに住むのは屑にたかるしか能のない蝿だ。痩せ窪んだ顔にぎょろりと目ばかり大きい者たちが、通りがかる者の一挙手一投足に視線を注ぐ。姿の見えない相手に行動が筒抜けなのも、金目のものを持っていないかと分かりやすく期待の目を向けられるのも、どちらもまあまあ居心地の悪いものだ。キィスは万が一盗みに遭わぬようにと大事な笈を担いできたわけだが、ここに持ってくるぐらいならあるいは置いてきた方が安全だったかもしれない。

 足の裏がはっきりと傾斜を感じ始めた頃、キィスはようやく杖をついた。振りまわして蝿を蹴散らすためのものではなかったようだ。彼は平坦な場所でもゆっくりとした足取りだったが、坂道ではさらに遅くなっていた。ティッサが急がずともキィスの歩幅に合わせて歩けるほどだ。

「もしかして、脚、悪いの?」

「気にしなければ忘れられる程度にね。だが労るにこしたことはない。君も気をつけないとがたが来るぞ」

 気にしなければ、というのはたしかにティッサにも当てはまることだ。傷が治ったわけではないのだから、本当はまだ寝ていたほうが良いはずなのだ。だがさしたる痛みが無いものだから、どう気を使えば良いのかいまいち分からない。とりあえず、帰ったらさっさと眠ってしまうのがいいだろう。

 轍の上に荷車を運ぶ者があり、ティッサたちはそれを追い抜いた。荷を覆う布も汚ければ、運ぶ者もまた薄汚れて見える。片足を引きずっており、キィスよりもさらに歩みが遅かった。

 このような人々には色がない。元は色鮮やかで洒落ていた服も、着古すうちに色あせて擦り切れて、みな同じような泥色に染まってしまう。貧しい者ほど色を持つことができない。ティッサはつい最近まで、徐々に自分から色が失われていくことに底知れぬ悲しみを感じていた。もう少しで自分もあんな色になっていただろうか。ティッサは自分の爪先を見つめながら、彼らから漂う異臭に顔をしかめた。

 坂を登りきると、その先には崖があり、下を覗くと細く曲がりくねった川が目に入る。これは来し方も行く先も銀の川タータ・ヤッスルとは全く異にする流れだが、二つの川が最も接近するのがこのトゥレンの付近であるらしい。トゥレンの民はこの流れを灰の川タータ・オヌムと呼ぶ。

 灰の川と呼ばれる所以の一つは、灰を溶かした水同様、肌を浸すとぬめりが生じるからだ。汚れを濯ぐのにこれ以上適した水はない。特に肉屋など、包丁にこびりついた血と脂を洗い流すため、この川の上流へ通う者もいる。だが、七日七晩この水に浸かると骨まで融けて消えてしまうと言い、好んで近付こうとする者は少ない。

 銀の川では魚もよく獲れるが、灰の川には全くと言っていいほど魚がいない。藻の類も少なく、川べりは日当たりが良いのに草木もあまり見当たらない。川の水は澄み渡り銀の川よりも余程輝かしく見えるが、川のある所に川しか無いのは不気味だ。

 ティッサとキィスが崖に近づいていくと、もはや鼻で息を吸っているわけでもないのに血なまぐさい臭いがつんと鼻をついた。思い切り顔が歪む。きっと今この瞬間の自分より不細工な顔は世界中探しても見当たらないだろう。何度かここを訪れたことはあるが、何度来ても慣れないし慣れたくもない臭いである。

「向こうだ」

 キィスが指し示した先には、白樺の木立の陰で屍蔵が身をひそめるように建っている。蔵と呼ぶには少し粗末で、小屋と呼ぶには立派過ぎる屋舎である。

 狭苦しい蔵の中では、藁の筵にくるまれた繭のごとき死体が雑魚寝をするように床を占拠していた。そのうちの一つを運び出そうとする者が一度か二度こちらを見たが、話をするでもなくまた作業に戻っていった。キィスに続き屍を踏まないよう爪先立ちで歩く。奥へ進むと、垂帛で仕切られた空間がある。キィスは一声かけてから垂帛をくぐった。

 正面の壁には、よく磨かれた大きな鉈が十丁ほどずらりと掲げられている。立派な棺が一つと簡素な棺が一つ並んでおり、立派な方の蓋の上にだらしなく腰掛けているのは鉈貸しだ。彼が名を「ケソン」というのはトゥレンの誰もが知っていることが、誰も彼を名前では呼ばない。

 鉈貸しは毎日顔に弔い泥を塗り足しては洗い流さずにいるらしい。分厚く固まった泥の仮面で素顔が全く見えない。横着をして銀の川ではなく灰の川の泥を使うので、もう顔の皮膚が少し融けてしまっていると専らの噂だ。

「ようやく来たか。あんまり遅ぇから食っちまおうかと思ったぞ」

 鉈貸しは棺の蓋を乱暴に叩いた。身内のために薪だけでなく棺まで用意できる者はきっと上客だ。良いのだろうか。

「七日のうちには来ると言いましたよ」

「七日も置いたら腐るだろうが」

 キィスは少し呆れたように笑い、鉈貸しは何かの枝で歯糞をほじった。

 キィスと鉈貸しが仲の良さそうなことには驚いた。鉈貸しの面はとても親しみやすいとは言えない。声は低く獣が唸るようで恐ろしい。固まった泥のために口をあまり開けないせいだ。そういったことを抜きにしても、仕事が仕事なので大方敬遠されるはうだ。鉈貸しに友達がいたという話は聞いたことがない。それが飲み食いの約束をしているとは。

「それより母さんは?」

 ティッサは垂帛を今一度めくり上げ、転がっている屍の中から母を探そうとした。しかし、何も見ないうちにキィスがティッサの手から垂帛を奪い、床に下ろしてしまった。

「そっちじゃない。今鉈貸しが座っている棺の中だ」

 振り向くと鉈貸しは喉を鳴らして盃の水を呷るところだった。唇の端からこぼれた水が棺の上に降りかかる。遅れて、ティッサの頭の中でキィスの言葉と目の前の光景が結びついた。

「ちょっと、罰当たりだと思わないの? 今すぐそこをどけて」

 ティッサは体当たりするように鉈貸しの体をめいっぱい押した。しかし、かえってティッサの軽い体の方が跳ね飛ばされる。ティッサが手伝ってくれとキィスに目配せしたところで、鉈貸しは面倒臭そうに長い溜息をつき、よろよろと立ち上がった。すかさず彼と棺の間に入り、睨みつける。鉈貸しは両手を上げて後ずさり、しかし小馬鹿にしたように首を傾げた。

「まあ随分元気な小鼠だ。お前みたいのは青臭くて食えやしない」

「もう子供じゃない。母さんをちゃんと弔って、わたしは大人にならないといけないの」

「ああ、やだやだ。鳥肌が立って叶わんなこりゃ。さっさと燃やしてあったまろうや」

 ティッサがもう一言文句を言おうとするのを許さずに、鉈貸しはだるそうに背を向けて裏口から外へ出ていった。まだ膨れているティッサの頭にキィスが軽く手を乗せる。

「火の準備をしてくれるそうだ」

 どうやらティッサとは聞こえている言葉が違うらしい。キィスは平然として棺に歩み寄り、蓋に手をかけた。

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